第46話「――――――デリート」
いらっしゃいませです。
「「――!」」
薫風が名を呼んだ。
彼が人生で唯一愛した人の名を。
璃月にとっては祖母にあたる人の名を。
そしてその名は――
「あり得ません!」
大きく声をあげるのは、心霊だ。
「だって葵月さんは! 葵月さんは!」
心霊にとっても忘れられない名であった。
理由は一つ。
「私がデリートしたはずなのに!」
そうだ。
薫風の妻・葵月は心霊によってバグチップとしてデリートされた。間違いなく。
「そうね。
幼い頃にバグを起こしたわたしはおおよそ四十年前、グレートマザーと融合することで命を助けられ、バグの侵攻を遅らせながら無感情の人として活きてきた。
薫風くん、あの光――グレートマザーの力は薫風くんではなく最初からわたしが狙いだったの。
けれど数か月前、わたしはとうとうモノも言えないほどに狂ってしまった。いいえ、言うどころか考えも出来ないほどに。
だから貴女に発見されて、消された。
けれどね心霊、貴女が消したのは『葵月』の体だけだったの」
「そんな……」
「デリートがきっかけでグレートマザーとしての体が表に出てきた。心はグレートマザーと融合していたから無事だったけれど、この姿のままで薫風くんと一緒にはいられなかった」
だから姿を消した。
愛した人たちの前から。
「……」
言葉を失う、心霊。
「……心霊、貴女も辛かったのね」
「……ッ!」
心霊の目から涙が落ちた。ずっとずっと堪えてきたモノが溢れ出た。
「……ずっと、謝りたかった……。
薫風さんから奥さまを奪ったのは私。
璃月くんからおばあさまを奪ったのは私。
お二人から幸福を奪ってしまったのです……!
だからせめて力になろうと今まで……」
「なに言っているんだ」
心霊の言葉を遮ったのは、薫風だ。
呆れたな、そんな表情を顔に浮かべた薫風だ。
「心霊、お前は葵月を奪ったんじゃない。
壊れていくだけだった葵月を救ったんだ。
胸をはれ」
「ですが!」
「心霊さん」
再び言葉を遮られた。今度は薫風ではない。璃月だ。
「心霊さんは、自分の役割は奪うことだって思っていたんですね。
だからオレたちと苦楽をともにしようと。
それ違いますよ。
心霊さんは、心霊さんこそ母性に溢れた人だとオレは思う。
心霊さんの笑顔は人を惹きつけて暖かく照らしてくれるし、からかいは心をくすぐってくるし、哀しみは人を大切にする気持ちを教えてくれる。
そんな人が誰かからなにかを奪うなんて出来っこない。
心霊さんは奪う側の人じゃないんだ」
「……璃月くん」
璃月の手が心霊の手に重なる。
本音を言えば薫風のように愛する人を抱きしめたかったけれど、今はこれが精いっぱいだった。
だけどそれだけで十分だった。
手から手へと伝わる不器用な優しさは、確かに心霊の心を温めてくれたから。
「……なあ心霊、葵月はこれからどうなる?」
「……バグチップは」
自分の頬を伝う涙を手で掬い取りながら。
「デリートが基本ですが、私は兄であるバグチップを活かしています。
奥さまを含めた【ドリーミー】の目的である、今代の【火光存在】から若い命へ『現実』を継承させること、それが達成されるまで兄をデリートしたりはないでしょう。
しかし……」
目的が終われば。
「ええ。
わたしを消しなさい。
でなければいま以上にバグは伝播してしまう。
わたしは危険な存在なの、薫風くん」
「……下の、駅の騒動はお前が?」
「そう……。
わたしたち親子の――親から子への虐待を見てしまったグレートマザーの意識が狂ったままなの。
璃月と会い、薫風くんがここにいるおかげで今は人の、わたしの意識が強く出ているけれど、グレートマザーは全ての虐待の元である諍いを起こす人を消そうとしている。
もうどうしようもないわ」
数秒、皆静まった。
これでは【ドリーミー】の目的達成まで葵月がもつか分からない。
最悪この瞬間葵月とグレートマザーの意識が逆転する可能性もある。
「心霊さん、グレートマザーだけを消す方法は?」
「以前採取した花を解析し作った特別なプログラムがあります。
これを【花銃】に組み込めばグレートマザーと彼女の影響を受けたバグたち全てデリート出来ますが、その時は葵月さんの存在を知らなかったので、再調整が必要ですね」
「なんとかなると言うことか?」
「恐らく」
拡がる安堵感。
だが、心霊は知らない。
プログラムを製作したこの国にいる【爽籟職人】がすでに全滅していることを。
他の【爽籟職人】に頼むとなると予想以上に時間がかかるだろう。それまで葵月が自意識を保ちグレートマザーを抑えていられるかどうか……。
「――――――――――――――――――――――――――――――デリート」
こつん、と。
静かに葵月の後頭部に当たるモノがあった。
第46話、お読みいただきありがとうございます。
次回もよろしくお願いします。