第45話「ならこれは奇跡だな」
ようこそいらっしゃいました。
「やっと……はぁ、追いつきましたよ」
街と街とを分け横切る山林で、心霊と璃月はグレートマザーに接敵した。
二人ともに肩で息をしている。
一方グレートマザーは月を眺めていた。弓のような月、三日月。彼女は思い出しているのだろうか? 車に轢かれたあの日にも空には三日月があったことを。
「一応、聞いておきます。
グレートマザー、大人しくデリートされてくれません?」
まだ、心霊はグレートマザーに対して『侵入』を試みていない。まずは彼女の意思の確認だ。
彼女が母性の象徴であるのなら、話が通じる可能性もあるだろう。
しかしグレートマザーは。
「――どうして」
三日月に向けていた顔を心霊に向ける。
雲に三日月が隠れたから。
「どうして貴女は気づかない?」
首を傾げるグレートマザー。
「私ですか? なにに気づかないと?」
「そばにいる彼、少しだけれど壊れ始めていると言うのに」
「「――!」」
目を瞠る心霊と璃月。
慌て、心霊は璃月に顔を向ける。向けて、目を明滅させて調査する。
「そんな兆候は……どこにも!」
「貴女は人を大切にする。だから深く深く潜らない。
璃月の奥の奥、心の底を見てごらん」
グレートマザーは嘘を口にするか? いやそれは自分には判断出来ない。だから、無視は出来ない。グレートマザーの言が事実なら大変なことになるのだから。
「失礼します璃月くん!」
「え? あ」
璃月の胸に額を当てる。直に接触して、より強く璃月の深淵へと目を向けるために。
――ない、バグなんてどこにもない。
けれどまだだ。
もっと深く、深く。
ごぽん
「――!」
心に僅かな気泡があった。
黒く、澱んだ気泡だ。
「そんな……」
バグの兆候が、見つかった。
思えば以前にもあったのだ。
『魅』に行ったあの日、璃月が溺れるはずのない場面で溺れてしまったのはすでに体の中に気泡があったからで……。
でもどうしたら?
バグの拡がりを止める手段なんて知らない。
だって自分はバグを――バグチップをデリートするだけの存在。それしか出来ない存在なのだ。
「心霊さん……」
璃月の肩に手を置いて、震える心霊。
どうしよう、どうしよう、どうしよう!
心が焦る。
視野が狭まる。
焦って考えても妙案なんて浮かばない。動揺した思考には無理なこと。
それは分かっているのに気が焦る。
「どうしたら!」
「――手を貸そう」
目に涙すら浮かべる心霊に、救いの手を伸ばすモノがいた。
デリート対象であるグレートマザーだ。
「……え」
「手を貸そうと言った」
呆然と、グレートマザーを見やる。
本気で言っているのか、彼女は?
いやそもそも。
「どうやって」
救うと言う?
「璃月のバグは消せない。
けれども、わたしの一部を譲渡し璃月を新しい【ドリーミー】にすることは出来る」
「なっ……」
それは。
「やって良いはずがありません!」
「待って、心霊さん」
「でも!」
思いのほか璃月は落ち着いている。
それに気づいた心霊は少しばかりイラつき、怒ろうとした。自分のことなのだからもっと真剣になって、と。
「璃月く――ん?」
言葉に怒りを乗せようと思った。が、心霊の小さな口を璃月の指一本が塞いで。
塞いで、笑って見せる。
「大丈夫。多分だけど」
笑って、まじめな表情でグレートマザーに目を向ける。そして彼は言うのだ。
「グレートマザー、あんた、ひょっとしてオレの知り合い?」
意外な疑問を口にする。
心霊は思わず璃月を凝視し、ついでグレートマザーに揺れる目を向けた。
「そんな気がするんだけど」
「――」
グレートマザーはなにも言わない。身じろぎは僅かにあったが、それだけだ。
「どうしてなにも言わない?」
「言えるはずがないだろう」
「「え」」
それは、ここにいるはずのない人物からの発言。
心霊にも、璃月にも、グレートマザーにすら一瞬の硬直があった。
硬直し、全員揃ってゆっくり彼に顔を向ける。
走って来たのだろう。肩で息をするその人物は――
「じいちゃん」
璃月の祖父、薫風だった。
「はぁ……やっと追いついたな。
この歳で全力疾走する羽目になるとは思わなんだ」
「ど、どうして薫風さんが?」
息も絶え絶えに、それでも薫風は足場の悪い地面を歩き続ける。
心霊たちのところに向けて――ではない。グレートマザーに向かって。
その視線のなんと優しいことか。
細められている目に宿るのは、愛しかない。
「どうして、か。
俺もお前たちに問いたいな。
これはどう言う状況なのかと」
「どう言う……あ、失礼しました」
薫風が気にしたのはそこではないだろうが、心霊は璃月と密着していた体を慌てて離す。
「……まあ良い。
話はゆっくりしよう。
それよりもまずは、お前だ、金ぴかの」
グレートマザーへと向かう足を止めずに。
一方で、
「逃げるなよ」
さがろうとするグレートマザーに釘を刺す。
グレートマザーのそんな様子を見て、薫風に宿る愛がより一層強まった。
「ああ、そうか……良かった。
お前にもビビるってことがあるんだな」
薫風とグレートマザーの距離、たったの一メートル。
薫風の手が伸びる。グレートマザーの頬に触れようと、伸びる。
「……冷たいな」
とうとう手が頬に触れた。
優しく、決して壊そうとは思っていない触れ方。
冷たいはずだ。バグチップは死んでいるも同然なのだから。
ただしそれは表面の温度に限りで、
「心は暖かそうだ」
内面の温度はまた別だ。心霊が千秋の温もりを感じたように。
「その心は今の姿になってから得たんだろうなあ。
……良かったな」
「……ッ」
グレートマザーの表情が歪んだ。
苦しそうに、哀しそうに、けれどどうしてだろう? どこか嬉しそうにも見えたのは。
「涙……」
グレートマザーが流したそれを見て、心霊は唖然とした。
だって千秋以外でこれほど強力なバグチップが泣くなんて初めて見たから。
「……わたしはもう、化け物なのだけれど」
「良いじゃないか。
もう一度逢えたんだ。
姿形なんて些細な問題だ」
頬にあてていた手をグレートマザーの首に回す。抱きしめたのだ。人間がバグチップを愛おしそうに。
「いやしかし、俺よりでかいな」
「……そうね」
グレートマザーの口調が変わっている。
こちらが本当の口調なのだろうか? それとも薫風の前だからだろうか?
「ああ、だが抱き心地はお前のままだ」
「……薫風くんも」
「お前がいなくなってまだ数ヶ月しか経っていないのにずいぶん懐かしく感じる。
……お前は、死んだのか?」
額と額を触れさせる、薫風とグレートマザー。
「ええ、死んだわ」
「……そうか。
ならこれは奇跡だな。
二度目の奇跡だ。
一度目はずっと前、お前が車に轢かれても生き残ったこと。
二度目は今。
そうだろう?
――――――――――――――――――――――――――――葵月」
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