第39話「……なあ、葵月(あおつ)」
ようこそいらっしゃいました。
自宅の仏間――寝室として使っている仏間で薫風はゆっくりと瞼を開く。
朝だ。障子の向こうはもう白く、陽光が輝いているだろう。
布団から上半身を起こし頭を軽く振る。
懐かしい夢を見た。
幸福と不幸が同時に襲ってきたような夢。
目覚めが悪い。
こんなことならなにも見ない方が幸いだ。
だからと言って夢にケチをつけてもしようがないのだけれど。
立ちあがり、まずは布団を片づける。
そして毎朝の行為に移る。
仏壇に線香をあげ、祈るのだ。
亡き妻の冥福を――
薫風の妻は死んだ。
もう何十年も前に死んだ。
死んだ――はずだ。
なのに彼の妻はずうと薫風のそばに居続けた。
化け物となって。
それでも良いと薫風は思う。想っていた。
見た目は普通の女性と変わらない。近所をごまかすくらいは出来るだろう。
いや、それも大切なことだがそれ以上に薫風は妻となった女性にそばに居て欲しかった。
妻の心が生きているのかは分からなかった。
分からなかったから生きている方に賭け続けた。
妻はここにいる。
死んではいない。
心がある限り、心までは化け物にならない。
薫風は妻の心に惚れたのだから、その心を信じ続けたのだ。
だが数か月前、今度こそ妻は死んだ。
遺体は出てこなかったが、なぜだか薫風を含め全ての人が妻は死んだのだと認識するようになった。
出来れば弔ってやりたかった。
だから遺体のないままに葬式をあげ、妻を確かにあの世に送り出した。
これで妻が浮かばれるかは不明だ。
そもそも妻は幸福だったのだろうか。
薫風と妻の間には幸福の象徴たる子供が出来たが、その子を抱く妻は幸福だったろうか?
分からない、なにもかも分からない。
「……なあ、葵月。
お前はなにを思って死んで逝った?
俺か? 子か? 孫か?
なにか一つでも大切な者が出来たのか?
俺はお前を……いや、俺とお前で幸福を生み出す、それは出来たのか?」
視界が歪む。
どれだけ普段気丈に振る舞っていても仏壇の前で妻を思うと涙が零れる。
歳をとって涙腺が弱くなったのもあるだろう。
独りになって寂しさが増えたのもあるだろう。
けれどそれ以上に、愛する人を失った悲しみは深く。
せめて、最期に言葉を交わせたなら……。
涙を拭い、座していた座布団から足をもってしっかりと立ち上がる。
悲しみは大きい。
だが活きてゆかねばならない。
でなければあの世に行った時妻に怒られるだろうから。
一つ深呼吸を行い、気を静め、食事を摂るために移動しようと障子を開ける。
「――⁉」
この家には、とても小さいけれど庭があった。
草の手入れは行き届いている。
妻が趣味にしていた小さな花壇にも余計な雑草は生えていない。
薫風がいつも丁寧に世話をしているからだ。
その大切な花壇に、化け物がいた。
流れる清水のごとき黄金の光が視えた。
風に流されていく朝霧の中に姿を見せたのは――足の爪先から髪の毛に至るまで薄らと金に輝く化け物だった。
彼女は全身を新緑の葉で包んでいて、虚ろな目を半分ほど閉じていて、頭の半分だけ髪を編み込んでいて、もう半分だけ地面に着くほどの金の長髪と言う容姿であった。
この冷気。寒気。恐怖。鋭利なナイフを首筋に当てられているような生きた心地のしない空気。
「嘘だ……」
そんな中になんとか吐きだされた言葉は、現実を拒絶する言葉。
しようがない。
だって化け物の左目には真っ赤な花が咲いていたから。
だって化け物の放つ『心』、それはまさに――
「――葵月?」
の、それであったから。
化け物はジッと薫風を眺めている。
なにをするでもない。襲うこともなければ、話をすることもなく。
ただ見続けて――ふと、表情が和らいだ気がした。
けれど薫風が瞬きをしたら安らぎの表情は消えていて……。
薫風の勘違い、だったのだろうか?
「葵月」
名を呼んでも、表情は変わらずに。
「葵月なんだろう?」
二度と変わらずに……。
「どうした? 世に未練でもあるのか?」
いつも庭に降りる時に履くサンダルすらも忘れ、裸足で土を踏みしめる。
「葵月」
化け物に向かって手を伸ばし――空を切った。
消えたのだ。空気に溶けるようにして。
「葵月……」
「……ふぅ」
『よすが』に着いて、店先で珍しく薫風はため息を零した。
今朝のあれは幻か?
ならばなぜあんな幻を見た?
自分の死期が近くあの世の光景でも見たか?
考えても考えても答えは出ずに。
鍵を取り出し、開けて店内へと入る。
静かだ。
まだ誰もいない。
「……淋しいモノだな、誰もいないと言うのは」
弱気にも似た言葉が漏れる。
しかし。
「おはようございます、薫風さん」
「じいちゃん、おはよう」
すぐに二人が現れて。
美しき少女、心霊と愛くるしい孫、璃月だ。
一気に空気が洗われた気がした。
店内の空気だけではなく薫風自身が纏っていた痛々しい空気も同時に。
スッと薫風の目が細められる。
大切なモノを眺めるように、優しく、柔らかく。
そんな視線を向けられて心霊と璃月は少しだけ動きを止める。
「どうかした、じいちゃん?」
「……いや」
二人が醸し出す空気、『心』。
嫌いではない。
むしろ清められる気さえする。
そうだ、妻は亡くしたがまだ大切なモノがこの世にはあるのだ。
今朝見たあれがなんであれ、この現実は変わらない。
精一杯愛でて、そしてあの世に逝こう。
――葵月、お前が俺に遺してくれた『心』は今、きっと幸福だぞ。
笑って妻に逢いに行けるように。
笑って妻に報告出来るように。
今の幸せを自らが踏みにじることのないように――
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