第31話「(ああ、この人はいつもこうだ……)」
いらっしゃいませ。
◇
「璃月くん、ひょっとして飛行機は初めてですか?」
「……そうなんですよね」
八月の中旬、オーストラリアへ向かう飛行機の中。
ビビレンツァがなかなか良い席を用意してくれたから心霊はリラックスモードだ。そばにある窓から見える雲は地上の景色を邪魔しない程度にしかなく、空の蒼さは真っ青でどこまでも雄大。
一時期大気汚染について世界中であれやこれ叫ばれていたが、くすんだ色などどこにもなく。
誰もが見惚れまったりする光景の中、横を向くと璃月がそわそわとしていて。顔をあちらに向けたりこちらに向けたりと随分落ち着きがない様子だ。
「怖いですか?」
「いいえ。
ただ浮いていると思うとどうしても気持ちまでふわふわしてしまって」
心霊の小さな唇が弓のように曲がる。璃月の幼子にも似た言葉を受けて微笑んだからだ。
「可愛いですねぇ」
「ちょ、頭撫でないでくださいっ。
心霊さんこそ高いところ少し苦手って言っていましたよね、プールの時。
大丈夫なんですか?」
「ちょっとした刺激は大好きですよ」
「Mだったなんて!」
「他所に聞こえる声でそんなこと口走らないでください!」
「まずあたしたちの街へご案内します。ホテルを取っていますので」
空港を出てビビレンツァと合流し、バスに乗車。ここから街へは高速を使っても一時間程度かかるらしい。
「準備が良いですね。
人の中には気が回らない輩もいますから不満が溜まる場面も多々あるのですが貴女は善い人だ」
「ありがとうございます」
照れくさそうに顔を少し赤くして頭を下げる。
褒められるのは単純にとても嬉しい。
「ここです。あ、お尻大丈夫ですか?」
「う~む、ちょっと出来の悪い椅子でした……」
小さな手で小さなお尻をさする心霊。その後ろに静かにビビレンツァが回って――
「触ったら怒りますよ?」
「ああん」
さて、ここは件の街への入口。ビビレンツァが暮らす街だ。
ビビレンツァは三人分の料金を払い先頭に立ってバスを降りる。
風が思ったよりも強く冷えている。一つ身震いをした心霊の肩に璃月はケースから取り出したコートを音もなくかけた。
「ふふ、こう言う気配りが出来るのは素晴らしいです」
「ありがとうございます」
嬉しそうに笑う璃月。いや、心霊に褒められて事実嬉しいのだ。
心霊はそんな彼を横目に捉えて、視線を街へと向けた。街の名前は聞いた覚えがなかった。オーストラリアの地方の街で、人口は六万人強。白人より黒人の住民が多いらしい。
そんな街の一番上等なホテルに案内され、荷物だけを部屋に置いて――心霊と璃月、別の部屋だった。「結婚前の男女が同室はメッ! ですよ」とはビビレンツァの談――廃村への道順を聞き、心霊と璃月は早速そこ、廃村へと向けて歩き始めた。
ビビレンツァは子供の世話を家政婦に任せきりには出来ないと自宅への帰路に。元々二人で行くつもりだったから心霊の方に文句はなかった。
「だんだん人の気配がなくなっていきますね」
オレ、こう言う寂しさはあまり得意ではありません。と続く言葉。
「ええ。
シャッターが降りている店も多いです。地方の若者流出が多いのはどこも同じみたいですね」
街の端にはガソリンスタンドがあってそこも閉店していた。地下に溜め込んでいたガソリンがなくなったか、電気自動車の波に押されて儲けがなくなったのか。
「廃村まで二キロです。タクシーを使うには勿体ないですね。
歩きで行きしょ璃月くん」
村がまだ生きていた頃はバスの往来があったそうだが今はもうない。道路はちゃんとアスファルトで舗装されていて、所々に新しいお菓子の袋やおもちゃが落ちているのは子供たちが遊びに使っているからだろう。
足を止め、璃月は来た道を振り返る。
「まだ街を離れて一キロくらいなのに随分雰囲気が変わりましたね」
右を見ても左を見ても樹・樹・もう一つおまけで樹だ。陽の光を遮る勢いで生えていて、鼻に届く緑の匂いは強烈。
耳に届くのは虫の鳴き声、鳥の鳴き声。種々様々な美しい音色だ。が、周囲の様相のせいで少し不気味でもある。
「元々村を潰し移住を募る気で街を築いたのでしょう。
街灯も安物が使われています。
寂しいですが街がより住みやすい場所になっているので不満はあまりなかったのではないでしょうか」
それよりも気になることがある。村があるだろう方角から耳鳴りがするのだ。澱んだ音で、どう表現すれば良いかと問われるとこう言うしかないだろう。『堕ちた音』だと。
「バグが、間違いなく発生しています」
しかし手鏡【矢瞳】を見てもノイズが走るだけだ。これはきっと、バグの視界が多すぎるせい。
「準備しておきますか」
心霊の真紅の瞳に宿る光が明滅する。すると服が和の死装束に変わって。さらにかんざしが【花銃】へと姿を変える。
死装束なのにどうしてこうも麗しいのか、目を離せなくなっていた璃月に心霊の声が届く。
「璃月くん、ここからはバグチップだけが待ち受けているとは限りません。
ハマユミ【花弓】の用意を」
「ハイ」
ポケットから小さなハマユミを取り出し、心霊を守ると言う意志で集中。
純黒の光が放たれた。
今度は以前のようにただ溢れ出るだけではなく、黒い大きな弓へと変貌して。
純黒の死花が埋め込まれた【花弓】になったのだ。ただし、バグに対する修正力を持つ弓ではない。人に対抗するための、弓だ。
コクリと璃月の喉が鳴った。初めて【花弓】を使用する事態になる可能性が出てきて緊張しているのだ。
心臓もいつもより早鐘を打っている。
だが、そんな彼の手に優しく心霊の手が重なった。包み込むように。
なにか言葉を発することもなく、心霊は璃月の目をまっすぐに見つめる。
揺れぬ眼光。
力強く、それでいてなんと言う母性に溢れた目だろう。
璃月の迷いも戸惑いも弱気すら取り払ってくれる愛情のこもった目。
フッと微笑む心霊。
「(ああ、この人はいつもこうだ……)」
璃月のずっと上にいるのに、なぜか隣にもいるような温もり。
心地良い湯船にでも使っているような。
けれど、眠りに落ちるのではなく覚醒に導いてくれる柔らかな先導者。
「行きましょう、心霊さん」
自分はこの人を守るんだ。
そう決意させてくれる愛しい人だ。
「ハイ」
二人、手を繋いで歩み出した。
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