第二章 6
意外なアクセアの一面を見たアンナは、顔の火照りを誤魔化すように、魔王城の外へと向かった。空は乳白色に変わり、遠く山の端は茜色に染まっている。
(わたしは、……何もできなかった……)
乾いた風がアンナの長い髪を揺らす。
すると、その風のざわめきに混じって、小さな声が聞こえて来た。アンナはすぐに警戒を露わにすると、音のした方を注視する。鬱蒼と生い茂る森とその木々の合間から現れた存在に、アンナは言葉を失った。
「……討伐軍の、ひと……?」
もうここまで来たの、とアンナは恐怖を堪えて対峙する。
だが彼らは微動だにせず、ただ途切れ途切れにうめくばかりだ。不思議に思ったアンナが近づくと、そこには一人だけではなく数人の男性が倒れている。
(どうしてここに? それに、ひどい傷……)
男たちは皆同じような装備を身に着けていたが、足や腕に深い爪痕が刻まれており、まさに息も絶え絶えという状態だった。とてもではないが、今から魔王城に攻め込んで来るようには思えない。
最初は少し戸惑っていたアンナだったが、無碍には出来ないと彼らの容態を確認した。だがアンナの手で処置できるレベルは超えており、すぐに立ち上がると城内に戻りアクセアを探し出す。
しかし連れて来られたアクセアは、彼らを見るや否や「無理だ」と告げた。
「お前は馬鹿か。どうして僕たちを殺そうとした奴を助けなければならない」
「で、でも」
「大方、怪我人を運ぶときの移動魔法に巻き込まれたんだろう。どうせすぐに死ぬ。置いておけ」
そう言うとアクセアはさっさと城に戻ってしまった。
考えてみれば当たり前だ。人間たちが侵攻してきたから、魔族たちはあれほど凄惨に傷つけられた。それなのにその敵を助けるなんて、出来るはずがない。勇者がアンナの忠告を聞き届けて、あのままとどまってくれていたら、こんなことにはならなかったはず。
(でも、わたしが……)
アンナは持って来ていた消毒液と包帯を広げると、男たちの前に膝をついた。苦しむ声を前に、出来る限りの応急手当てをする。よほど痛むのか、惨苦の声をあげる彼らに触れながら、アンナはたまらず涙を零した。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
――わたしがもっときちんとしていれば、この人たちは傷つくことはなかった。
アンナはぼろぼろと泣きながら、必死に男たちの傷を癒す。そんなアンナの姿を見て、苦しむばかりだった男たちは、少しずつ意識を取り戻していた。
ようやく全員の処置が終わった頃、いつまでも外から戻ってこないアンナを心配したのか、イアンが姿を現した。
討伐軍を発見した瞬間、不快そうに顔をしかめたが、彼らに施された処置を見て、はあとため息をつく。
「何をなさっているかと思えば……」
「ご、ごめんなさい、でもお願い、皆には黙っていて」
「……そこは『豚が、私のすることに文句あって?』でいいんですよ」
それ以上イアンはアンナを責めるでもなく、地面に手を着くと呪文を唱え始めた。瞬時に巨大な魔法陣が展開し、討伐軍たちを包み込んでいく。
「近くの街に返します。それなら構いませんね?」
青白い光と共に、男たちの姿が薄らいでいく。
アンナは彼らに向けて、深く頭を下げた。
「本当にごめんなさい、――お願い、もう二度と、魔族を殺しに来ないで……」
その言葉が届くか届かないかというあたりで、人間たちは一斉に姿を消した。あっけない終わりに、アンナは複雑な気持ちで肩を落とす。
イアンにありがとう、と礼を言うと「豚も少しは役に立てたようで光栄です」と微笑んでいた。
自室に戻ったアンナを見て、侍女たちは絹を裂くような悲鳴をあげた。
すぐに汚れた服を脱がされ、湯浴みの部屋に放り込まれる。疲労困憊していたアンナは抵抗する気力も起きず、ただされるがまま肌を磨かれ、爪を削られていた。
見る間に元の艶々とした銀髪と滑らかな体が戻ってきたものの、アンナの心が晴れることはない。
お疲れでしょうから、とイアンが就寝の手はずを済ませ、室内の照明が落とされる。寝台の中でアンナはしばらく目を瞑っていたが、やがて諦めたように体を起こした。
(だめだわ……色々考えてしまって眠れそうにない……)
ベッドから降り、羽織物を肩にかける。窓からは外の様子が見えず、アンナはそっと部屋を抜け出した。
わずかな明かりが灯る廊下を渡り、上へと続く階段をのぼる。昼間の喧騒が嘘のように、城内は静謐な空気に包まれていた。
やがて城の最上階に辿り着いた。
四天王に挨拶回りをした時に見つけた場所で、大きな窓の傍に近寄ると、アンナはその縁に腰かける。
ガラスの向こうには、青々とした満月が浮かんでいた。少し視線を落とすと城壁や森、そして獣人たちの村があった場所が見える。
(私のしたことは、何の意味もなかった……)
たしかに勇者に伝えた、と安心しきっていた。
だがアンナの思いは届かず、人間たちは忠告を無視して魔族たちを襲った。その結果があの惨状だ。もちろん人間側の被害も相当なものだろう。
(一体どうすればよかったの……?)
アンナが人間だった頃は、魔族は恐ろしく、人を襲うだけの存在だと聞かされていた。
だが実際にアンナが接してきた魔族たちは、人間となんら変わらない――むしろ、無闇に人を襲わないように気をつけているようだった。
(人に、死んでほしくないと思っていた。でもだからといって、……魔族ならどれだけ傷つけられてもいいのかしら……)
その時、アンナはぞわりと背筋が凍るのを感じた。
弾かれるように顔を上げる。すると視線の先に――魔王がいた。