第二章 5
一夜明け、アンナは今までにない満足感と共に目を覚ました。
(勇者さまにはちゃんと伝えたし、これできっと大丈夫よね)
ううん、と両腕を高く上げて伸びをすると、そろそろとベッドから下りようとする。するとドアを乱暴に叩く音の直後、イアンが慌ただしく転がり込んで来た。
「アンナローザ様、お休みのところ申し訳ございません!」
「イ、イアン! 大丈夫よ、一体何が……」
「討伐軍の襲撃です! 南西にある村は壊滅状態、現在はトラッド様の部隊が前線にて交戦中です!」
その報告に、アンナの頭の中は一瞬真っ白になった。
(なんで⁉ どうしてこんな早く……じゃなくて、来ないでってちゃんと伝えたのに……!)
「城内には多数の負傷者が運び込まれて来ています! アンナローザ様も早く!」
「わ、分かりました!」
切羽詰まったイアンの勢いに押され、アンナは急いで着替えると城内の中央にある大広間へと駆けつける。そこに広がる光景にアンナは目を疑った。
(ひどい……)
むわりと漂う血の匂い。切れ切れとした呻き声の下には、傷ついた魔族たちの姿があった。
頭から出血しているもの、手足に深い傷を負ったもの……見るに堪えない凄惨な状態を前に、アンナは思わず吐き気を堪えるように口を押さえる。
(これを、……人間が……?)
すでに床が見えないほど負傷者がいるというのに、玄関からはなおも担架に乗せられた獣人たちが運ばれてくる。
やがて最後に搬送されて来た魔族を見て、アンナは大きく目を見開いた。いてもたってもいられず、隙間を縫うようにしてその獣人の元に近づく。
(この子……あの村にいた……!)
昨日アンナが訪れた獣人の村。そこで両親と楽しそうに手を繋いでいた子どもだ。だが明るく笑っていた面影は微塵もなく、今はただ苦しそうに短く呼気を吐き出している。
アンナは全身の血がさあっと流れ出るかのような寒気を感じ、恐る恐るその子の手を握ろうとした。しかしその背後から怒鳴りつけるような声が飛んでくる。
「馬鹿! 触るな!」
ひ、と反射的に手を引っ込めたアンナが振り返ると、床に伏す怪我人の処置をしていたアクセアが、怒り狂った形相で睨みつけてきた。
「感染症の危険性がある! 何もしないなら消えろ! 邪魔だ‼」
そう吼えると、アクセアはすぐに次の患者の処置にとりかかっている。あまりの嚇怒にアンナはその場にへたり込み、思考は完全に途切れてしまった。
(だってわたし、ちゃんと……)
狼から助けてくれた優しい人――その姿が幻のように消えていく。
だがアンナはすぐに雑念を払うと、震える両手を何度も握り締めた。先ほどの獣人の子どもを見つめると、がたがたの膝を叱咤しながら必死に立ち上がる。
そして、慌ただしく部下に指示を出しているアクセアの元へ走った。
「あ、あの」
「忙しい! 黙ってろ!」
「わ、わたしも手伝います! 何をしたらいいですか⁉」
アクセアは一瞬驚愕したように目を見開いた。だがすぐに部屋の隅を顎で指す。
「まずは手を消毒しろ。応急処置の経験は?」
「た、多少なら」
「では向こうの区画にある患者を診ろ。出血はあるが、比較的軽傷だ。何か分からなければ医療班の誰でもいいからすぐに聞け。勝手はするな」
「は、はい!」
言うが早いか、アクセアはすぐに新たな患者の元へと消えて行く。残されたアンナは気合を入れなおすと、すぐに指示のあった患者の処置を始めた。
アクセアの言う通り、見た目は酷かったが怪我自体はそこまで深くはなく、アンナは洗浄、消毒を繰り返した。どうやら人間の返り血も相当浴びているようで、戦いの苛烈さが目に浮かぶようだ。
「大丈夫ですか? 少し痛みますが、我慢してくださいね」
「う、……ああ、……」
「お水がいる方はこちらに、気分の悪い人はいますか?」
次から次へと懸命に手当てをしているはずが、一向に怪我人の数は減らない。
綺麗に整えられていたアンナの爪は薬品でボロボロになり、着ていた洋服は血にまみれ、所々黒く染みになっている。だがアンナはそれらに一切気づかず、運ばれてくる魔族たちをただひたすら介抱し続けた。
――どのくらいの時間が経っただろうか。
気づけば窓から差し込む光が斜めになっており、床や階段では手当を受けた怪我人たちが、すうすうと寝息を立てていた。担架を抱えて走り回っていた医療班の魔族たちも、疲れ果てたように背を寄せ合って眠っている。
「おい」
「え、あ! はい!」
突然かけられた声に、意識が朦朧としていたアンナははっと目を覚ました。
慌てて振り返ると、目の前に水の入った金属の器がある。恐る恐る受け止ると、その向こうには不愛想なアクセアの顔があった。今朝の鬼気迫る迫力を覚えているアンナは、少し怯えながらも「ありがとうございます……」とそれを受け取る。
アクセアはそのまま、近くの壁にもたれるようにして、自分の持っていたコップを傾けた。それを見たアンナもこくりと口に含む。きんと冷やされた液体が、疲れ果てた体に染み入るようだ。
「とりあえず山場は越えた。死者はいないようだ」
「よ、よかったです……」
それを聞いて、張っていた緊張の糸が一気に切れるようだった。ほっと息をついたアンナは安堵した表情で、先ほどの獣人の子どもを探す。するとそんなアンナを眺めていたアクセアがぼそりと呟いた。
「……お前、本当にアンナローザか」
アンナは飲んでいた水を吹き出しそうになった。
「な、なに、がですか」
「お前は僕たちのような一般魔族を嫌っていたはずだ。それなのに、何故今日に限ってこんなことをする? ご自慢の美貌が台無しになってまで、だ」
するとアクセアは、初めてふ、と笑った。
アンナが慌てて自分の顔に手を当てると、指先に乾いた土が付着する。何だか恥ずかしくなって、さらにごしごしと擦っていると、壁から背を離したアクセアがアンナの顔に指を伸ばした。
(――!)
白く冷たい指が、アンナの鼻先を撫でる。
驚きに大きく目を見開くアンナをよそに、拭き取ってくれたのだろう、指についた汚れを落としながら、アクセアは口角を上げた。
「まあ――僕としては、今のお前の方が好ましいがな」
少し休め、と言い残してアクセアは別室へ行ってしまった。アンナは再び水を口に含んだものの、カップの陰に隠した顔は見事なまでに真っ赤になっていた。