第二章 2
続いて、アンナは三人目がいるという部屋へと足を踏み入れた。
ランスロットの整然とした執務室とは異なり、全ての窓には漆黒のカーテンがかけられ、調度品も黒と暗い赤を基調としたものばかり。
鬱屈とした空気には微かに甘い匂いが漂っており、床や棚には水晶玉や獣の頭蓋骨などが転がっている。
「お、お邪魔しまーす……」
恐々と呼びかけたアンナに気づいたのか、部屋の奥で誰かが立ち上がった。暗がりから現れたのは、褐色の肌に黒い髪を持つ細身の青年だ。
右目は長い前髪によって隠れており、顔の真ん中を横切るように白い包帯が巻かれていた。わずかな隙間から見える左目は血のような緋色をしており、全身は黒い服に包まれている。長い袖から覗く両手にも、顔と同様に包帯があった。
しかしアンナがもっとも驚いたのは、その背に広がる黒く尖った翼だ。
「……何の用だ」
「あ、あの……ドルシュキアさん、ですよね……」
「……その名は好まない」
すると青年はふう、と物憂げなため息をついた。一方アンナは、事前にイアンから名前を聞いていたのに、間違えてしまった⁉ と動揺する。
「す、すみません! まだ、実はその、ええと、記憶が曖昧で……よければ名前を伺ってもよろしいでしょうか……」
「……」
えへへ、と恥ずかしそうに笑うアンナを見つめ、青年は少しだけ眉を上げた。
「俺は闇の守護者。またの名を、死を導く者……」
「ちょ、ちょっと待ってください。オプスキュリ……?」
「オプスキュリテ・ガルディアンだ」
「オプスキュリテ、ガルディアンさん、ですね! あと、ええと、サナ、カロ……?」
「……サナトス・ディダスカロス」
「サナトス、ディガロ、……あ、違う、すみませんもう一度だけ」
アンナは慌てて紙を取り出すと、そこに青年の名前を書き付け始めた。だが長すぎるのと覚えきれないのとで、なかなか手が進んでいないようだ。
「ディガス、ダロスさん」
「ディダスカロスだ」
「ディダス、カル……」
「……もうドルシュキアでいい」
はあ、とドルシュキアの口から再びため息が零れ、アンナは自分のもの覚えの悪さに、心の底から嘆いた。
「すみません……せっかく素敵なお名前なのに、……次までにはきちんと練習してきますので……」
「……」
するとドルシュキアは、うなだれているアンナの前に立つと、そっと手を伸ばした。顎を掴まれたかと思うと、そのままぐいと上向かせられる。抵抗する間もなくアンナもまたドルシュキアを見つめた。
引き寄せられた反動で、前髪に隠れていたドルシュキアの右目が一瞬だけ確認できた。その虹彩は輝くような金色で、左右の瞳が違う色なのね、とアンナは目を丸くする。
「お前……俺をからかっているのか?」
「え、ええ⁉ そんなことは」
「以前のお前であれば、暗いだの、気持ち悪いだの、黴が生えるだの言ってきたはずだ。わざわざ俺に色目を使って、一体何を企んでいる」
(ああーッ!)
アンナローザさん、ちょっと口を謹んで。
どうやらアンナローザは、ドルシュキアのことをあまりよく思っていなかったようだ。だがここで心証を悪くしては命が危ない、と必死にアンナはドルシュキアを褒め称える。
「い、今までのことは謝ります! 全然暗いとか思っていませんから!」
「……本当か?」
「はい! お名前も素敵だと思いますし、その黒い羽や色の違う目も、なんていうかこう……すごいオシャレというか、か、カッコイイです!」
すると意外なことに、ドルシュキアは一瞬きょとんとした表情を見せると、思い出したようにアンナの顔からばっと手を離した。
身を翻し、しばらく俯いていたかと思うと、次第にふふ、とドルシュキアの微笑む声が漏れ聞こえてくる。
「カッコイイ……そうか、カッコイイか……」
「あ、あの、ドルシュキア、さん……?」
「――気に入った。今までのことは忘れてやる」
「ほ、本当ですか!」
「ああ。その代わり、お前は俺の『黒き花嫁』になれ」
「シュバル……?」
「そうと決まれば準備が必要だ。悪いが少し時間をもらう」
言うが早いかドルシュキアは机に向かうと、何やら分厚い書籍を広げてぶつぶつと呟き始めてしまう。アンナはしばらくその背を眺めつつ、
(ニブ……あれ、ニベースタ?)
と懸命に紙に記していた。
イアンから教わった最後の一人は、アクセアという魔族の医者だった。
城内をぐるりと歩き回ったアンナは、ようやく療養所らしき場所に辿り着く。中を見ると清潔なシーツが敷かれたベッドと、遮光性のある瓶が並べられた薬品棚があり、その傍らに置かれていた机に、白衣を着た一人の男性が向かっていた。
「あの、アクセアさん、ですか」
「……」
返事はない。
聞こえなかったのかも知れない、と失礼しますと断って少しだけ近づいてみる。
「あの、すみません」
「――何の用だ」
不意に苛立った声が上がり、アンナに背を向けていた男性が、座っていた椅子を回転させて振り返った。
ドルシュキアとは対照的に、青白くすら見える白い肌。そして髪も同じく新雪のような秀麗な白髪だ。かといって年寄りという訳ではなく、見目麗しい青年の容姿をしている。
幅の広い目は鋼のような鈍色をしており、今は虫でも見ているかのように、アンナを睨みつけていた。
「あ、あの、先ほどは突然倒れて失礼をいたしました……」
「本当にな。いい迷惑だ」
切れ味の良い返答に、アンナはうっと言葉を飲み込んだ。
何故か分からないが、今までの魔族よりもアンナに対する敵意が激しい気がする。もしや他の三人同様、アクセアに対しても何かやらかしているのかも、とアンナは心の中で焦燥した。
「す、すみません……四天王ともあろう方の前で、恥ずかしいところをお見せして……」
「……何を言っている?」
途端にアクセアは眉頭を寄せた。また気に障ってしまった、と慌てるアンナを見ながら、アクセアは呆れたように答える。
「お前、まだ記憶が戻っていないのか?」
「え、……?」
「四天王はお前。僕はただの医者だ」
わたし……とアンナが自分を指差すと、アクセアが不機嫌そうな顔で頷いた。
(わ、わたしが、四天王……)
てっきり彼らが四天王で、アンナは下っ端だと思いたかった。だがすれ違う魔族が、慌てて敬礼する光景をアンナは何度も見ており、アクセアの言葉に嘘はないと分かる。
やがてアクセアは時間の無駄だとばかりに、再びアンナに背を向けた。
「用がないなら帰れ。邪魔だ」
「は、はい……失礼しました……」
極寒の冬のような心象風景を描きながら、これ以上アクセアを怒らせまい、とアンナはそうっと療養所を後にした。