第三章 8
途端に先ほどの体勢が恥ずかしくなり、アンナは顔を真っ赤にしながら頭を下げる。
「あ、ありがとう、ございました……」
「いや、自分の方こそ、咄嗟に、すまない」
気のせいかイザークの頬にも朱が走っており、その場は奇妙な沈黙に包まれた。
「しかし、どうしてこんな時間に? 兵士に追われていたようだったが」
「あ、ええと、眠れないので外を散歩していたら、その」
「そうか……隙あらば、君と接点を持ちたいという男は多い。気をつけなさい」
見回りの兵士は、真面目に仕事をしていただけなのだが……とアンナは心の中で「ごめんなさい」と彼に向けて合掌する。
と同時に、イザークの発言を思い出して青ざめた。
「あ、あの、イザークさん……さ、さっき、恋人……って」
「――ッ、あ、いや、あれは、その」
「すす、すみません! 咄嗟の嘘とはいえ、人に誤解を与えるような……、た、多分顔は見られていないと思うので、変な噂になったりはしないと思うんですが、ど、どうしましょう……」
「アンナさん、自分は大丈夫ですから」
「だ、だってきっと、イザークさんにも婚約者とか、本当の恋人さんがおられますよね⁉ その方たちも嫌な気持ちになるのでは……」
だが慌てふためくアンナの口は、再び抱きしめるイザークの肩口によって塞がれた。力強い両腕がアンナの背中に回され、ぐ、と強く力がこめられる。
「――そんなもの、いません」
耳元に熱い呼気と掠れた言葉が落ちる。さらりと流れる金髪がアンナの顔に触れ、その近さを認識したアンナは動揺した。
「え、で、でも」
「――君となら、噂されてもいい」
「だ、だめです、そんなの……」
ここでイザークとの恋仲が広まってしまえば、任務の継続が困難になる。それにイザークはアンナのことを本当の人間だと思っている。素性を偽り、誠実な彼を騙すようなことはしたくなかった。
(それに今の私は、魔族だし……イザークさんもそれを知ったら、きっと……)
アンナの胸に、痛みのような切なさが落ちる。
するとイザークはわずかに力を緩めると、そっとアンナの頬に指を添えた。
首筋、耳、唇と何かを確かめるかのように順番に、優しく触れていく。自分で触れる時とはまるで違う、男性の、長い指で触れられているという感覚に、アンナはくすぐったいような、途方もない恥ずかしさを抱えていた。
もう無理です、とばかりに顔をそらすが、逃がさないとばかりに上向かされる。初めて間近で見たイザークの目は、とても深い――夜の海の色をしていた。
「アンナ……どうか教えてほしい。君は、――」
「ご、ごめんなさい!」
限界を感じたアンナは、今までにない力を込めてイザークを引き剥がした。突然の勢いにイザークが思わず体を離すと、その隙を見てアンナは急いで腕の中から逃げ出す。
慌ただしく頭を下げ、再度「ごめんなさい!」と続けると、イザークを残して走り去った。
「……」
一瞬追いかけようか迷ったイザークだったが、これ以上は怖がらせるだけだと判断したのだろう。その場にとどまったまま、彼女の背を見守っていた。
(ど、どうしよう、わたし……)
心臓がどきどきする。まるで魔王陛下に抱きしめられた時のような――いや、今日はそれ以上に刺激が強かった気がする。
(やっぱり逃げるのって失礼だった⁉ でもあのままだと――)
数少ない人間時代の知識を総動員しても、あの場は危険だと警鐘を鳴らしている。こんな時、百戦錬磨のアンナローザだったら、イザークを上手く誘惑して、大臣たちに渡りを付けるくらいのことをやってのけたのかもしれない。
(でもやっぱり、わたしにはまだ無理ー!)
走りながら顔に手をあてる。すると先ほどイザークに触れられた、生々しい感触を思い出してしまい、アンナは声なき悲鳴を上げながら、自室へと逃げ隠れるのだった。
イザークは、はあ、とため息を零した。
先ほどの感覚を思い出すように、自身の手のひらをじっと眺める。
(……なんて脆い、生き物だ)
とっさに抱き寄せた腰は折れそうなほど細く、しかし女性らしい豊かさの象徴は、確かにイザークの体に押し付けられていた。ふわふわと、どこもかしこもいい匂いがして、今も外套に彼女の残り香がないかと探している自分が、女々しくて若干気持ち悪い。
だがそれ以上に気になることがあった。
(アンナ、君はどうして……あんなところにいた?)
イザークがアンナを見つけたのは偶然だった。
執務を終え、騎士団の宿舎へ戻ろうとしていたところ、廊下にいるアンナを発見した。既に遅い時間だったし、部屋まで送るべきだろう、と自分に言い訳をしながら彼女のいる場所へと歩み寄る。
すると信じがたいことに――彼女は誰かと会話をしていた。
誰だ、と眉をひそめていたイザークだったが、その正体を知って愕然とした。アンナが話していたのは人ではなく、黒くて小さなネズミだったのだ。
(ネズミと、話して……?)
最初はただのペットかもしれない、と現実逃避もした。だがすぐに冷静になり、しばらくアンナを観察する。彼女は二三言葉を交わしたかと思うと、思い出したように今度は中庭へと駆けだした。
慌ててイザークも追いかける。すると今度は先ほどの部屋に、窓から侵入しようとしているアンナの姿が見えた。まさか泥棒……とも考えたが、あの部屋は使う人のいない倉庫で、古い書類などが放置されていただけのはずだ。盗む価値のあるものはない。
やがてアンナの肩からネズミが壁を伝い――音もなく内側から窓が開かれた。その光景を見ていたイザークは、ある一つの疑いを持つ。
(アンナ、君はもしかして――魔族、なのか)
魔族の中には獣に姿を変えるものや、彼らと意思疎通を交わすものがいると聞く。アンナもそのどちらかで、魔族の眷属として従えているのでは、との考えにたどり着いた。イザークは背筋を震わせたが、まだ何も証拠がない、落ち着け、と自分を律する。
(もしも魔族なら、逃がすわけにはいかない)
しばらくして、アンナが勢いよく部屋から飛び出してきた。
見回りの兵士に見つかったらしく、反対の方角へと逃げていく。イザークは瞬時に城内の見取り図を思い浮かべ、彼女の体格で逃げ道に選びそうな順路を描いた。
すぐに踵を返し、隣の庭園にある東屋に向かうと、狙い通り、必死な形相のアンナがこちらに向かって走ってくるところだった。
アンナの腕を掴み、腕の中に閉じ込める。
最初は魔族としての本性を現すのでは、ときつく羽交い絞めにしようとしたが、彼女の体は普通の女性と何ら変わらないもので、イザークは思わず、少しだけ力を緩めてしまった。
だが羽が生えるわけでも、角が伸びるわけでもなく、アンナはただイザークの腕の中で恐怖に震えていた。その肩があまりにか弱くて、イザークは彼女が魔族であるかも知れない、という疑念を一瞬忘れ、ただ守らなければという庇護に苛まれる。
兵士を追い払った後も、アンナは自分のことよりも、イザークのことを案じるばかりで、彼を誘惑するそぶりも、篭絡する仕草も一切見せなかった。
たまらず「あんな場所で何をしていたのか」と聞いてしまいたくなったが、それを尋ねてしまうと、彼女が自分の前からいなくなってしまう――そう感じたイザークは、どうしても聞くことが出来なかった。
(俺は、どうしてしまったんだ……)
もしかしたら、既に魔族に魅了されているのだろうか。
いいや、まだだ。俺はまだ――殺された友の怒りを覚えている。
(魔族なら、早く正体を現してくれ、……頼むから)
魔族ではない、と確信できる何かが欲しくて、イザークはアンナの頬に手を伸ばした。細い首筋は、少し力を籠めるだけで折れそうなほど細い。小さな耳に触れると、無意識なのだろう、アンナは目を眇めわずかに声を漏らした。ふっくらとした唇は――
ぞわり、とイザークの持つ獣のような欲が首をもたげる。
だめだ、と必死に自制を繰り返し、アンナを問いただすかのようにその目を見た。美しい緑の瞳。その淵には細く赤い月が浮かんでいる。魅入られそうだ、とイザークは息を吞んだ。
だが彼女が魔族であるなら、自分は――屈するわけにはいかない。
「アンナ……どうか教えてほしい。君は、――」
魔族なのか。
だがいよいよ耐えかねたのだろう、アンナは何度も謝罪を繰り返しながら、イザークを残して走り去った。
その言動はどう見ても、正体を見破られた魔族のものというよりは、ただ初心な娘が大人のあれそれに限界を迎えたという感じで、イザークは毒気を抜かれたかのように、その場に立ち尽くす。
(本当に魔族であるならば、こんな好機を逃すだろうか……)
もしもイザークの誘いに、みすみす乗ってくるようであれば、その場でアンナにとどめを刺すつもりだった。だがアンナは、まるで普通の娘のように赤面したり、口づけの一つ受け入れる気配もない。あまりにお粗末な手練手管だ。
(分からない……アンナ、君は一体――何者なんだ?)
イザークは心を掻きむしられるような気持ちのまま、祈るように人差し指の付け根に唇を寄せる。
それは、アンナに最後に触れた指だった。