第三章 7
その夜、アンナは廊下を歩きながら、静かにイザークの言葉を繰り返していた。
(憎い、……か)
先代勇者に、魔族が直接手を下したわけではない。
でも、イザークにとって魔族は憎しみの対象なのだ。そしておそらく、同じように魔族を忌み嫌っている人間は少なくない。魔族の中にいて、彼らのやさしさを肌で感じていたアンナにとって、それはやはりショックな事実だった。
(もしもわたしが魔族だと知ったら、イザークさんはどう思うかしら……)
しかしアンナは雑念を払うように首を振った。
今はそんなことを考えている時間はない、と問題の本が収められている倉庫の前へと立つ。だがアンナがドアを押してみても、何故かそれ以上動かなかった。
(あ、あれ? この倉庫、たしか鍵はなかったはずなのに……)
何度か揺さぶってみるが、微動だにしない。「どうして開かないの⁉」と徐々にアンナの中に焦りが生まれ始めた。書記官の制服を着ているので、すぐに見咎められることはないだろうが、それでも長居するのは危険だ。
何とかして早く入らなければ、とアンナは力を籠める。すると足元で何かがチュイと鳴いた。驚いたアンナが目を凝らすと、そこにいたのは――黒いネズミ。
「も、もしかして……」
『何をしている。黒き花嫁』
(やっぱりー!)
アンナはどっと力が抜けるようだった。
「ドルシュキアさん……すみません、心配をおかけして」
『何の話だ』
「あ、いえ、陛下かランスロットさんに頼まれたんですよね?」
『違う。俺は俺の意思でここに来た』
「え?」
『俺の黒き花嫁を、人間から守りに来た』
するとネズシュキアはとたた、と壁を駆け上がると、器用にアンナの肩へと飛び乗った。細く長い髭が頬をかすめ、アンナは思わずくすりと笑ってしまう。
(ドルシュキアさんは、ネズミになるのね)
黒い羽の印象が強いせいか、なんとなく蝙蝠に変身するのでは、とアンナは勝手に予想していた。それがネズミ。しかも想像よりもずっと可愛らしい。
『何を笑っている』
「ふふ、いえ、なんでもないです」
少し緊張がほぐれたのか、アンナは一度ふうと息を吐いた。改めて倉庫の扉に手をかける。ドアノブは回るが、何かで打ち付けられているのか、一向に開く様子はない。するとそれを見ていたネズシュキアが、耳元できゅいと鳴いた。
『何をしている?』
「その、この部屋にある本が必要なんですが……扉が固定されているみたいで」
『窓からではだめなのか?』
あ、とアンナは目を見開いた。
(どうして気づかなかったんだろう……)
アンナは若干の気恥ずかしさを覚えながら、急いで庭園に下りた。問題の倉庫に繋がる窓を探しあて、木枠へと指をかける。
『来たのが俺で良かったな。トラッドだったらぶち破っているところだ』
「あ、あはは……そう言えば、トラッドさんはお元気ですか?」
『魔王城で人間相手に戦闘指南をしていた。奴もお前の元に駆け付けたがっていたが、獣姿になれないからな』
「なるほど……」
確かにトラッドは既に立派な獣姿なので、小動物に扮して王宮に忍びこむ、というのは難しいだろう。と言って、あの姿で来られたら開戦待ったなしだ。魔族を見つけ怒り狂うイザークを想像して、アンナはぶるりと身震いする。
気を取り直して窓を押してみる。だがミシ、と軋むだけで隙間一つ生まれない。
「……」
『……』
ドアを封じるなら、当然窓もふさいでおく。よく考えてみれば当たり前である。
『黒き花嫁……』
「はい……すみません、浅はかでした……」
『……俺が中から開けてくる』
え、とアンナが驚く暇もなく、ネズシュキアは窓枠へと飛び乗った。そのまま壁面を駆け上がると、屋根にある隙間に潜り込んでいく。やがて姿が見えなくなり、アンナは見回りの兵士に見つからないよう、そっと植え込みにしゃがみ込んだ。
するとカタン、と金属の落ちる音がして、わずかに窓が開く。
『ほら、開いたぞ』
「オ、闇の守護者さん~!」
感動のあまり涙目になったアンナが、暗記していたいつかの名を呼びながら、ネズシュキアを抱きしめた。豊満な胸に挟まれたネズシュキアは、何故か全身硬直し、放心している。
だが本当に大切なのはここからだ、とアンナは静かに窓を乗り越え、倉庫の中へとおり立った。正面の扉が頑丈な二枚の板で打ち付けられている以外は、アンナが整理した時のまま変わりない。
(たしかこのあたりに……)
アンナは記憶を頼りに、件の本があった場所を探す。だが綺麗に並べられた書目の中、何故かあの本だけが見当たらなかった。念のため周りの本も紐解いてみたが、歴史どころか、さして重要ではない内容ばかりだ。
(どうして……?)
その時、アンナの脳裏に最悪の事態が浮かんだ。
掃除を終えた後、あの文官に終了の報告をした。彼は部屋の中をぐるりと一周し、ありがとうございます、綺麗になりましたね、と微笑んでいたはずだ。だがもしその時既に、彼が例の本に気づいていたとしたら……。
(あの文官は歴史の捏造に関わっている。……とすると、もしかして処分されてしまった……?)
しかしアンナが考えをまとめるよりも先に、天井からけたたましい足音が響いた。
人ではなく、小さいものがたくさん寄り集まっているような、人間時代にも聞いた覚えのあるその音に、アンナはそろそろと視線を上げる。
すると本棚と天井の間に、二つの光る点が浮かび上がった。それは四つ、八つと増えていき、その金色の視線にアンナはぞわりと背筋を凍らせる。
「ド、ドルシュキアさん、あれっ、て……」
『まずい、逃げるぞ、黒き花嫁』
「へ⁉」
『先ほど侵入した際、通路にあった彼らの寝床を破壊してしまった』
(ええーッ⁉)
アンナとネズシュキアは急いで窓へと走り出した。だが一匹のネズミが床に飛び降りたかと思うと、それに従うかのように他のネズミたちも群れを成して追ってくる。
アンナは素早く窓枠を飛び越え、がさり、と植え込みの中に着地した。しかし運の悪いことに、巡回していた兵士がその音に気づいてしまったようだ。
「誰だ!」
『黒き花嫁、二手に分かれるぞ』
「ふ、二手って……!」
言うが早いか、ネズシュキアは脱兎――いや脱鼠の勢いで走り出した。
わけも分からず、アンナは言われた通り反対の方向へと逃げ出す。幸いというか、当然というか、ネズミの大群は一目散にネズシュキアを追いかけていった。
一方でアンナは兵士に追われていた。明かりのない夜なので、顔は見られていないはずだが、このまま捕まりでもすれば万事休すだ。
(ど、どうしよう……!)
鍛えられている男の足にかなうはずもなく、徐々に彼我の距離は縮まっていく。少しでも翻弄出来れば、と建物の角を曲がり、狭い裏道を潜り抜けた。しかし見張りも必死に後に続き、アンナを諦めようとはしない。
やがて茂みを乗り越えると、隣の中庭へと抜け出た。見通しのいい場所はまずい、とアンナは東屋を走り抜けようとする。だがそこに足を踏み入れた瞬間、誰かによって腕を掴まれた。
(――⁉)
急いで振り払おうとするが、握力が強くびくともしない。さらにアンナの体を抱き寄せたかと思うと、視界が暗闇に包まれた。どうやら外套の中に捕らわれたようだ。
(どうしよう、わたし、殺される……!)
離して、と力の限り目の前の体を押しのける。しかし、おそらく男性だろう――鍛え上げられた体躯の前に効果はない。その時、低い声がアンナの耳に落ちた。
「――静かに」
(……この声は……)
男はそのまま、アンナを強く抱きしめた。
頭上すぐの位置に顔があるのか、彼の息遣いが鮮明に聞こえる。軍服越しに伝わる体温は熱く、アンナは祈るように目を瞑った。
少しして、アンナを追いかけていた兵士の足音が近づいて来る。
「すみません、こちらに――、ッも、申し訳ございません!」
「……恋人との逢瀬だ。邪魔をしないでもらいたい」
「はッ! 失礼いたしました!」
勢いよく敬礼をし、兵士はそのまま中庭を駆け抜けていった。靴音が消え去った頃、ようやく覆われていた外套が取り払われる。詰めていた息をほうと吐き出すと、アンナはそろそろと男の方を見上げた。
「イザーク、さん」
そこにいたのはイザークだった。