第三章 6
命からがら自室に戻って来たアンナは、ぜいはあと粗々しく息を吐きだした。緊張と全力疾走とで体の方が悲鳴を上げている。
『なんですか、情けないですね』
「ひゃあ!」
再び降って来た声に、アンナは文字通り飛び上がった。すると窓枠を這うように、白い蛇がするすると降りてくる。ランスロットと知っていなければ、悲鳴を上げて叩き出したいくらいだ。
「ら、ランスロットさん、良かった、ご無事で……」
『あれくらい、どうということはありません――それよりも、貴女が無事で良かった』
そう言うと、蛇スロットは嬉しそうに赤い舌を出し入れしていた。よく見るとつぶらな瞳も愛らしい。アンナが興味深く眺めていると、ぺし、と尻尾で額を叩かれた。
『しかし人間たちが歴史を捏造しているとすれば……少し話は変わってくるかも知れませんね』
「ど、どういうことですか?」
『まだ確証はありませんが、魔族と人間との対立は作られたものかも知れない、ということです』
歴史を読み解くうえで、最も重要なのは当時の資料だ。
特に本は情報の宝庫なのだが、書庫があの様子では、王宮にある歴史の文献はほぼすべて捏造されているとみていいだろう。それはおそらく、国にとって不利益な情報を隠蔽するためだ。
『この事実が明るみに出れば、政府への不信感は急激に高まるでしょう。そこに上手く誘導出来れば……』
「魔族に対する印象が、変わる可能性がある……?」
アンナはぞくりと鳥肌が立つのが分かった。かすかに見えた希望の糸だ。
『ですが、どうやって証明するかです。おそらく偽造は、ぬかりなく行われているはず。過去のものが残されているとは思えませんが……』
「あの、それがわたし、見たんです」
『……見た?』
「初めて頼まれた仕事が倉庫の掃除だったんですが、正しい歴史が記載された古い本を、そこで……」
『……それが本当であれば、この状況を打破する鍵になるかもしれません』
埃をかぶった一冊の本。魔の手を逃れた真実の歴史。
何故そんな貴重なものが、倉庫に放置されていたかは分からない。だがこれはチャンスだ。アンナはいてもたってもいられない、とばかりに立ち上がった。
「わたし、今から倉庫に行って来ます!」
『……それはやめておいた方がいいですね』
珍しく弱気な発言をするランスロットに、アンナが意外そうに眉を上げる。
「ど、どうしてですか? 早く回収しないと!」
『今階下が大変な騒動になっているからです。――「大きな蛇が出た」と』
ぴょこと尻尾を振る蛇スロットの前に、アンナは膝をついた。
「そ、そうでした……」
『付いて行ってさしあげたいのはやまやまですが……今日のこの騒動では、明日また王宮に入るのは難しいでしょうね』
「だ、大丈夫です! わたしだけでも、ちゃんと本を持ち帰ります!」
真剣な表情で拳を握るアンナを見て、蛇スロットは一度だけ舌をのぞかせた。
『――無理だけはしないように。いざとなれば、魔王城にすぐ帰りなさい』
「は、はい」
『それから――あの時は思わず、任務に差し支えると言いましたが、……私とて魔王陛下と同じ意見でしたから』
「え?」
その言葉に、アンナは会議の一場面を思い出す。
『だから、……あまり人間の男に、隙を見せるな、ということです』
早口にそれだけ言い終えると、蛇スロットはしゅるしゅると窓枠へと移動した。その背を見送りながら、アンナは嬉しそうに微笑む。
「あの、ありがとうございます。陛下も、ランスロットさんも」
『……何故急に、陛下が出てくるのです』
「え、だって、陛下から言われて、様子を見に来てくださったのでは……」
アンナのその発言に、白蛇がそろりと振り返った。
『陛下から、言われて……?』
「は、はい。昨日陛下がカラスになって来てくださって、……てっきりわたしが頼りないから、今日もランスロットさんにお願いしたのだと」
『陛下が、ここに、来られた……』
すると蛇スロットはふるふると首を振ると、そっと窓下を見つめた。
『アンナローザ、……私が来たことは、絶対に誰にも言わないように』
「えっ、ど、どうしてですか⁉」
『私にはまだ、王を取るか――自分の心に素直になるか、決断できないからです』
やがて蛇スロットはするりと外界へと下りて行く。
残されたアンナは、その言葉の意味が理解できず、一人首を傾げるのだった。
食堂での手伝いを終えた後、いつものように、アンナはイザークの執務室を訪れた。すると珍しいことに、部下らしき騎士の姿がある。
部下は一瞬驚いていたが、アンナの押しているワゴンを見て、何故か納得したように息をついていた。やがて部下はいなくなり、アンナは食事の準備をしてよいかイザークに尋ねる。
「ん? ああ……お願いしよう」
いつになく沈んだ顔つきのまま、イザークは食事を始めた。
今までであれば、世間話でもしながら食べるのに、気づけば時折手を止めている。味に何か問題が、と心配になったアンナは、恐る恐る声をかけた。
「あの、お口に合いませんでしたか?」
「あ、いや、そうじゃない。その、少しな……」
するとイザークはじっとアンナの方を見つめた。何かを見破られそうなその視線に、アンナは内心穏やかではない。しばらくしてようやく、イザークが声を発した。
「アンナさん、君はその――魔族をどう思う?」
「ど、どうと、申しますと⁉」
突然確信に近いところを突かれ、アンナは心臓が大きく跳ねるのを感じた。まさか作戦がすべてばれてしまった⁉ と慌てたが、どうやらそうではないようだ。
「ああ、いや、……先ほど入った報告で、魔王討伐軍の話が出てな」
「討伐軍というと、あの、勇者さまがいる……」
「そうだ。魔王の根城に入った、とまでは聞いたんだが、それ以降連絡が途絶えているらしい」
アンナは思わず瞑目した。どうしよう、さすがにそろそろ疑われ始めているのか。
「そ、そうなん、ですね……」
「先の戦闘でも相当の被害があった。くそ、……魔族の奴ら、人間を何だと思っている」
珍しく苛立っている様子のイザークに、アンナは困惑した。
「あの、イザークさんはやっぱり、魔族は嫌い……ですよね」
「――嫌い、というよりは、……憎い、に近いかもしれない」
そう言いながらイザークは立ち上がった。窓辺に足を進めると、遠く北を見つめるようにガラスの向こうを眺める。
「……昨日、君は自分に『友はいるか』と聞いたな」
「は、はい……」
「友は――いた。だが彼は……魔族によって殺された」
アンナは思わずえ、と弾かれるように顔を上げた。
「正確には、自ら命を絶った。……あいつは優れた戦士で、魔族を倒す最前線に常に置かれていた。それなのにある日突然、一通の手紙だけを寄越して、死んでしまった」
「手紙、ですか?」
「おそらく遺書だろう。絶対に人には見せるな、どうか自分の意思を継いでほしい、と封筒に書かれていた」
魔族と戦っていた戦士、遺書、という単語に、アンナはある恐ろしい可能性を見出していた。確かめなければと理性は訴えるが、真実と定まってしまうのが怖かった。
それでも勇気を出して、恐る恐るアンナは問いかける。
「もしかして、イザークさんのお友達って……勇者さま、なんですか?」
「……そう、呼ばれていた。今軍を率いているのは、あいつの後継者だ」
アンナの心に、大きな驚きはなかった。
イザークは豪奢なカーテンを掴むと、悔恨の顔を浮かべ、苦々しく吐き出す。
「魔族の中には、精神に干渉出来るものもいると聞く。きっとあいつは、それにやられて……でなければ、あれほどの男が、……みすみす死を選ぶはずがない」
「イザーク、さん……」
思わず否定を続けそうになったアンナだったが、すぐに顔を伏せた。アレクセイから事情は聞いていたが、それを伝えればアンナと勇者が繋がっているとばれてしまう。
だが真実を知らないが故に、魔族を憎み、厭うイザークの姿は、アンナの心に深い悲しみをもたらした。
(違う、魔族のせいじゃない……だけど言ったところで、イザークさんにはきっと届かない……)
アンナ自身、実際に魔族と触れ、戦いを経験してようやく悟ったのだ。だが誤解されてばかりも嫌だ、と懸命にイザークに訴えかける。
「その、遺書には何と書かれていたんですか? もしかしたら、魔族が原因ではなかったのかもしれませんし……」
だがイザークは静かに首を振った。
「遺書は、……読んでいません。あいつがどんな思いを魔族にさせられていたか……想像するだけで吐き気がする」
「で、でも……」
「その代わり、自分は決めました。『意思を継いでほしい』というあいつの願い通り、すべての魔族を殺し、魔王を倒すのだと。……それが自分に出来る彼への弔いです」
静かな、だが焼けつくすような決意を秘めたイザークの瞳を前に、アンナは言葉を紡ぐことが出来なかった。