第三章 3
翌日から、イザークの食事を運ぶ仕事が加わった。
「失礼します、今よろしいですか?」
「ああ、かまわない」
アンナが訪れると、イザークはすぐに手にしていた書類を置いた。部屋の中央にあるソファに座り、眼前に並べられていく食事を見ながら、ふうんと首を傾ける。
「これは?」
「じゃがいもの冷製スープみたいです。料理長がイザークさんにと」
そうか、と微笑むと、イザークはスプーンを手に昼食を食べ始めた。その所作は端々まで洗練されており、やはり団長というくらいだから良い家柄の方なのね、とアンナは感心する。
「ではまた後で片付けに伺いますね」
「あ、いや……」
「どうされましたか?」
「す、すぐに食べ終えるから、そこに座って待っていてくれないか。何度も足を運ばせるのも気の毒だし……」
「そんなに気を遣わなくても大丈夫ですよ! お仕事ですから」
「……い、いや、……本当に少しの間だけだから」
慌てるイザークの様子に、逆に急かしているような気がして、「じゃあお言葉に甘えて」とアンナは向かいのソファに腰かけた。
「急がなくていいので、ゆっくり食べてくださいね」
「あ、ああ……」
とはいえ、食事している人に注目するわけにもいかない。手持ち無沙汰になったアンナは、ぼんやりと執務室の中を見回した。ぎっしりと本の詰まった棚に、壁にかけられた長剣や槍、戦斧。執務机の上以外は綺麗に片付いており、イザークの性格があらわれているかのようだ。
そんなことを考えていたアンナに、イザークが再び声をかけた。
「君は……」
「はい?」
「君は昼食をとらないのか?」
「食べますけど、もう少し後ですね。厨房で賄いをいただきます」
「……君さえ嫌でなければ、明日からここで一緒に食事をとる、のはどうだろうか」
だがアンナはとんでもない、と首を左右に振った。
「そんな、団長さんと食事なんて、身分も違いすぎますし」
「身分なんて気にしなくていい‼ 自分はただ、君と、……もっと話せたら、と……」
言葉尻に濁らせるイザークを前に、アンナはもしかして、と気づく。
(たしかに、一人で食事をするのって寂しいかも……)
人間だった頃、アンナの家は決して裕福ではなかった。
その代わり家族はいつも同じ部屋におり、昼食も夕食も一緒の卓を囲んでいた。食堂の賑わいが苦手だとしても、多少は話し相手が欲しいのかもしれない。
「食事に同席は難しいですが、お話くらいなら、いくらでもお付き合いしますよ」
「! そ、そうか……」
心なしか安堵した表情のイザークに、アンナはやっぱりそうだったのね、と得心する。しばらく黙って食事をとっていたイザークだったが、やがて静かに口を開いた。
「アンナ、さん。君はその、どうして王宮に?」
「え、ええと、仕事を探していて、それで」
「王宮で働くくらいだ。後見人がいるのでは?」
「え、ええっと……知人から紹介いただいたと言いますか……」
「先ほど身分を気にしていたが、実家は? 自分の領地の近くだろうか」
(なにこれ尋問⁉)
たしかにおしゃべりに付き合うとは言ったが、……もしかして、アンナが魔族だと気づいてこんな質問をしているのだろうか、と内心穏やかでないまま答えていく。
だがイザークに敵意や疑いの気配はなく、ただ純粋に聞かれているような気もした。
「い、家はここからずっと向こうにある、……城? で、」
「北というとライネス卿か。しかしパーティーで君を見たことは……」
「あ、ええと、違いますね! あの普通の、普通の家です!」
魔王城を「普通」と称することにいささか抵抗はあるが、背に腹は代えられまい。動揺するアンナを見ていたイザークだったが、やがて何かに気づいたかのように、はっと目を見開いた。
「す、すまない! こんな不躾な質問ばかり、気に障っただろうか」
「い、いえ……」
「ああ、こんなことを話したいわけではなくて、その……」
室内に気まずい沈黙が落ちる。
すると午後の仕事初めを告げる鐘が、王宮全体に鳴り響いた。いけない、とアンナは慌てて立ち上がる。
「すみません、そろそろ行かないと」
「ッ、もうこんな時間か、……すまない、遅くなってしまったな」
アンナは食器を手早く片付け、執務室を後にする。急ぎ帰ろうとする背中を、イザークは思わず呼び止めた。
「ア、アンナ、さん!」
「は、はい!」
「その、――また、明日」
ようやく絞り出したようなイザークの言葉に、アンナは笑顔で「はい!」と答えた。イザークと別れたアンナは走らず、だが急いで厨房へと戻る。
(よ、良かった……ぼろが出る前で……)
ほうと胸を撫で下ろす。
だがアンナはそこでようやく、自身の昼食を食べる時間が無くなったことに気づいたのであった。
二日目の仕事を終えたアンナは、食堂で空腹を満たしたのち、与えられた自室へと戻って来た。今のところ簡単な仕事ばかりだし、そろそろ本格的に任務に乗り出さなければなるまい。
(とはいえ偉い人……討伐軍の指揮権を持っていて、それを止められる人……)
まず一番上と聞いて思いつくのは国王陛下だ。
だが数年前、前国王が崩御した際、後を継いだのはまだうら若い第一王子だった。急な代替わりということもあって、王都はしばらく騒動したとの話を聞いた覚えがある。
また新しい国王陛下は非常に体が弱く、今もなお内政の大部分は大臣らに任せているらしい。勇者が「書類上は」と言っていたのは、こうした背景があるからだろう。
療養のため、地方の別邸に引きこもっていることが多く、必要な祭事以外にはほとんど王宮には現れない。運よく来たとしても、たかだか書記官風情が、おいそれと会える相手ではないはずだ。
となると、国王の補佐をする大臣たちが有力だろう。
現在の王宮には三人の大臣がおり、それぞれ大公や公爵家などが務めている。だが彼らもまた、滅多なことでは人前に姿を見せず、月に二度ほど行われる議会を除いて、王宮には顔を出さないらしい。
(とりあえず狙うなら大臣の誰か、かしら……)
次の会議があるのは二週間後。接触する機会があるとすればその日だ。
幸いまだ魔族とはばれていないようだし、しばらくこのまま仕事を続けて信頼を得て、議会のある日に大臣たちに近づく……と考えていたアンナは、はあと肩を落とした。
(会ったところで、どうやって誘惑すればいいんだろう……?)
だが何とかして、かつてのアンナローザが駆使していたという、魅了体質を駆使しなければ、この作戦自体が意味のないものになってしまう。やるしかない、とアンナは決意を新たにし、鎧戸を閉めようと窓辺に向かった。
空には細く弓のような月が浮かんでおり、アンナはいつか魔王と見た夜空を思い出す。少しだけ、とそっと窓枠を押し開くと、湿気を孕んだ風がアンナの頬を撫でた。
「気持ちいい……」
結局あの日はアンナが騒いだせいか、魔王はすぐに解放してくれた。だがもしも元のアンナローザだったら、アンナが抵抗しなければ――一体どうなっていたのだろう。
なんとなく恥ずかしくなり、アンナは窓を閉めようとした。するとどこからともなくばさり、と翼の音が聞こえ、アンナの眼前に黒い羽根が落ちてくる。
「ひゃっ!」
現れたのは、普通の倍はありそうな巨大なカラスだった。鳥は夜飛ばないはずなのに、と驚くアンナの耳に、聞き慣れた低音が飛び込んでくる。
『――大丈夫か』
「この声は、魔王陛下、ですか?」
開いた口が塞がらないアンナの傍らに、カラスは器用に下り立った。鋭い爪を窓辺にかけ、黒い嘴をアンナに向ける。信じられない、とアンナはまじまじと眺めていたが、確かにその目は魔王と同じ綺麗な黒色だ。
するとカラスは、ふいと顔をそむけた。
『あまり、見るな。穴が開く』
「あ、ご、ごめんなさい!」
『――冗談だ』
く、と堪えるような笑い方に、本当に魔王さまだとアンナは口元を緩めた。