第三章 2
その日の食堂は何故か大賑わいだった。
「おい見たか、今日入った見習いの子!」
「ああ、びっくりした……可愛すぎて直視できなかった……」
「なんで書記官見習いなんだよ! 騎士団に来てくれよ~!」
理由は、今日から配属になったという新人を、一目見ようという男たちの行列が出来ているからだった。
だが噂の当人であるアンナはそんなことはつゆ知らず、怒涛のように流れてくる注文と配膳、目の回るような忙しさと戦っている。
(こ、こんなにたくさん来るなんてー!)
一つ注文を取り、出来たものを渡し、何故か握手を求められ、再び注文を……とこなしていたアンナは、いつぞやのアクセアを思い出していた。あの時の絶望感と比べたら、こんなもの、と気合を入れなおして奮闘する。
初日だというのにてきぱきと働くアンナの姿は、厨房の面々からも気持ちよく映ったのだろう、いつしか言葉にせずとも意思の疎通が出来るまでになった。
おまけに仕事中、アンナは事あるごとに連絡先やら次の休みの予定を聞かれていた。しかし魔王の厳命を忠実に守った結果、彼らの名前と連絡先を書いた紙が、エプロンのポケットにあふれ出るほど溜まっている。
「――アンナちゃん、お疲れ!」
悪夢のような時間がようやく終わり、料理人がアンナに声をかけた。
「お疲れ様です。大変ですね、こんな大人数をこなしているなんて……」
「いやいや! 普段はこの半分くらいだよ!」
みんなアンナちゃんを見たくて来たんだろう、と軽口をたたく料理人に、アンナは頬を赤く染める。もしかしたら、知らず知らずのうちに魅了の魔法を使えていた⁉ と一瞬喜んだアンナだったが、料理人とはこうして普通に話せているので、その可能性は低そうだ。
(そもそも、魅了体質がどんなものかすら分かっていないし……)
落胆と疲れでアンナはがくりと肩を落とす。すると厨房にいた料理長が、立派なワゴンと共に奥から現れた。
「ごめんアンナちゃん、最後にこれだけお願いしていいかな」
「はい、何でしょう?」
「騎士団長さまに昼食を運んでもらいたいんだ。食堂は騒がしいから、いつも自室で食事をなさるんだよ」
快く返事をし、料理長から教わった部屋に向かってワゴンを押していく。
途中アンナの姿に気づいた騎士団の団員たちが、手伝おうかと入れ替わり立ち代わり訪れた。だがアンナは「ありがとうございます」とだけ微笑み、真っ直ぐに目的の場所を目指す。やがて到着した扉を軽く叩くと、奥から短い返事が聞こえてきた。
恐る恐るドアを開けると、立派な執務室の奥で仕事に集中している男性がいた。さらさらとした金の髪に深青の軍装、どうやらこの人が騎士団長らしい。
「あの、食事をお持ちしました」
「……そこに置いておいてくれ」
その言葉通り、アンナは近くにあったテーブルへと料理を並べる。品数は少なく、お湯でふやかしたオートミールにポタージュ、櫛型に切られたオレンジが数切れと、どう見ても騎士の食事としては足りない気がする。
だが余計なことを言って変に疑われるのもまずい、とアンナは黙したまま部屋を後にした。
午後の書類整理を終え、ようやく仕事から解放されたアンナは、夕食をとるべく食堂へと向かった。昼間あれだけ賑わっていたのに、この時間帯は静かなものだ。
「お、アンナちゃんお疲れ。どうだった、初めての仕事は」
「大変でしたけど、なんとかやれそうです!」
本当は早く偉い人を探して、誘惑しないといけないんですが……とは言えるはずもなく、アンナはえへへと明るく答えた。そこに昼に仕事を頼んだ料理長が姿を見せ、そう言えばと口にする。
「ごめん悪いんだけど、団長さんの部屋から食器を回収してきてもらっていいかな?」
「食器ですか?」
いいですよ、と二つ返事で引き受けたアンナは、大きなトレーを片手に、慣れた足取りで昼間と同じ騎士団長の部屋を訪ねた。
軽くノックをするが、何故か返事がない。
(あれ、お留守なのかな……)
少し考えてから、そっと取っ手を引いてみる。すると確かな重量感とともに、大きな扉が開いた。鍵がかかってない、と不思議に思いながらアンナは中に足を踏み入れる。
室内はカーテンが閉められたままで、灯りもついていない状態だった。薄暗い中、アンナは必死に目を凝らす。
「失礼します、あの、食器を下げに来たんですが……」
さすがに見えづらい、とアンナは近くにあった蝋燭に火をつけた。わずかな光が生まれ、燭台を手にアンナは目的の食器を探す。すると昼間に置いた食事が、手付かずのままテーブルの上に残されていた。
(食べてない……大丈夫かしら?)
少し不安になり、アンナは他の蝋燭にも火を灯す。少し部屋が明るくなった頃、アンナはようやく団長の姿を発見した。
「だ、団長さん⁉」
騎士団長は、アンナが見た時と同じ場所――執務机に向かったまま、意識を失っていた。手にしていた燭台を置き、アンナは慌てて彼の呼吸を確かめる。
(息は……してるみたい、でもすごい熱……)
何度か呼びかけるが、騎士団長は目を瞑ったままだ。恐ろしくなったアンナは、食器を残したまま、急いで厨房へと駆け戻った。
――額が冷たい。
「あ、気がつきましたか?」
声のした方に視線だけを動かす。
そこにいたのは、今まで見たことがないほど、美しい容貌の女性だった。
綺麗に結い上げられた茶色の髪は毛先まで艶やかで、街中で見慣れているはずのありふれた緑の光彩も、彼女の元ではエメラルドのような輝きに変わる。
弓なりの長い睫毛が瞬きのたびに揺れ、その時々だけとても幼い印象に感じられた。
「――君は?」
「あ、ええと、今日から書記官見習いとして働いています、アンナと申します」
「アンナ、さん」
どうやら自分は寝台に横になっているらしい。
無理やり起き上がろうとすると、アンナから止められた。
「ま、まだ寝てなきゃだめです! 気絶していたんですから」
「……ああ」
どおりで、と男は目を瞑った。夕方に補佐官が来て、サインをして……それ以降の記憶が欠落していたからだ。
理由は分かり切っている。片付けなければならない書類が山積しており、さらに頭を悩ませていたのが、魔王討伐軍の采配だ。第二の『勇者』とやらが隊長となったらしいが、いたずらに兵を消耗しているのではと思うほど、被害が甚大になっている。
「あの、大丈夫ですか?」
「――ああ、すまない」
知らずに険しい顔になっていたのだろう。アンナが心配そうにのぞき込んでいた。
しかし本当に、人間とは思えないほどの造作だ。まるで絶世の美貌で人を魅入らせるという、魔族のような――。
そこまで考えて、男は慌てて首を振った。
何を考えているんだ、俺は。
「もしかして、君が見つけてくれたのか」
「あ、はい。食器を下げに来て、偶然」
食器、と回らない頭で繰り返す。そう言えば朝から何も食べていない。ここ数日食欲がなかったから、料理長が気を利かせて胃に優しいものを作ってくれていたはずだが、食べた記憶が無かった。
食事のことを考えたのが影響したのだろうか、小さく腹の音が鳴った。思わずアンナの方を見る。どうやらしっかりと聞こえていたらしく、ふふ、と可愛らしく笑った。男もつられて小さく噴き出す。
「何かないか、聞いてきますね」
そう言って部屋を出たアンナは、しばらくして銀の盆を携えて戻って来た。彼女に支えられながら、ゆっくりと上体を起こす。どうやら騎士団の中にある療養所らしく、簡素なベッドの他には小さな椅子と薬品棚しかなかった。
「食べられるだけでいいですから、無理はしないでくださいね」
そう言うとアンナは、白く湯気の立つスープをすくい、ふうふうと吹き冷ましていた。そのまま木匙をこちらに向けると「どうぞ」と微笑む。男は一瞬硬直したが、おとなしく口を開き、それを飲み込んだ。
「大丈夫そうですか?」
「ああ、……美味い」
良かった、と花が綻ぶように笑うアンナを見て、男は今まで感じたことのない穏やかな気持ちを味わっていた。人に手ずから食べさせられるなど、子どもの時以来だ。
本当はもう手も動くのだが、それを秘めたまま、男はアンナから与えられる食事に甘んじる。やがて中身が空になったのか、嬉しそうにアンナが報告してきた。
「完食です! 食欲もあるし、もう安心ですね」
「そう、……だな」
手際よく食器を片付けるアンナの姿に、男はどうしようもない寂寥感を抱えていた。このまま彼女はいなくなってしまう――そう思った瞬間、男は彼女の腕を掴んでいた。
「え⁉」
「す、すまない、……」
続く言葉が出てこない。何か言わなければ、と思いついたことを口にする。
「自分は、イザークといいます。……その……」
「その?」
「……良ければ、明日からの食事を、君に運んでもらいたいのだが」
何を言っているんだ、とイザークは顔から火が出る思いだった。こんな分かりやすい口実、笑われるだけだと顔をそらす。だがアンナはしばしきょとんとしていたが、すぐににっこりと笑顔を見せた。
「いいですよ! ではまた明日」
ゆっくり休んでくださいね、と頭を下げアンナは姿を消した。一人になった療養所で、イザークはぼすりと枕に頭を乗せる。アンナがボタンを外してくれたのだろうか、緩められた胸元に手を添えて、イザークは深いため息をついた。
――その心臓は、まるで初めて恋をした少年のように高鳴っていた。