第三章 魅了できない女幹部でして
「ええとアンナさん、でしたか。どうぞよろしくお願いしますね」
「は、はい。こちらこそ、よろしくお願いします!」
茶色の髪を綺麗にまとめ上げ、書記官の制服に身を包んだアンナは、しずしずと頭を下げた。
強固にかけてもらったイアンの魔法はしっかりと効いているらしく、アンナが魔族だとは気づかれていないようだ。
「まずはここの掃除、昼は食堂で配膳、午後からは書類の整理をお願いします」
「しょ、承知しました!」
上司にあたる文官は、そう言い残して倉庫を後にした。完全にいなくなるのを確認してから、アンナはようやく緊張を解く。
(潜入は出来たけれど……一体これからどうしたらいいのかしら……)
アンナ潜入作戦は、しばらくの物議を醸した。
「――絶対にダメだ」
開口一番に魔王が言い切った。
「人間たちの只中に一人で放り込むなど正気じゃない。私は反対だ」
「たしかに、アンナローザはまだ蘇生の術から日が浅い。危険がないとは言い切れないですね」
「でもオレじゃ速攻で魔族だってばれるし、近づくだけで攻撃されるぜ?」
「俺も無理だな……この『血濡れた翼』は隠しきれない……。しかし俺も、アンナローザを危険な目には遭わせたくはない……」
「アンナローザを出すくらいなら、私が行く」
「ま、魔王陛下が赴かれては、まとまるものもまとまりませんから!」
「やっぱりオレが行って殴るか?」
やんや、と魔王と四天王たちが各々の主張を繰り広げる傍ら、アレクセイはこっそりとアンナに向かって尋ねた。
「俺よく分からないんだけど、アンナ自身はどうなんだ?」
「どう、と言われますと……」
「人間のところに行って、その魅了体質? っていうのを使うみたいだけど、出来そうなのか?」
アレクセイの問いかけに、アンナは「う、」と言葉に詰まった。
(以前のアンナローザさんだったら、簡単だったのかも知れないけど……正直、どうしたらその技? 力? が出るのか全然見当つかないし……)
役に立ちたいのはやまやまだが、きちんと任務を達成出来なければ、魔族にも討伐軍にも悪影響が出る恐れがある。試しにちょっとお腹に力を込めてみたが、取り立てて何かが変わったり、力が湧いたりという感覚はない。
体質と言っていたから、もしかしたら無意識に力が発動している可能性もあるのかも……と考えていたところで、アンナはぽんとひらめいた。
「あの、勇者さま」
「うん。何かな」
「もしかして今、魔法にかかっていたりする感じはありませんか⁉」
期待の眼差しを向けるアンナを前に、アレクセイは「へ、」と間抜けな声をあげる。
「この前その、会いたいと言って下さったのは、……もしかしたら、わたしの魅了体質のせいではないかと思いまして!」
だがアレクセイはアンナに対し、非常に気まずそうな表情で眉尻を下げた。
「ご、ごめん……俺は勇者だから、魔法がすごく効きにくいんだよ」
「あ」
先ほどの戦いを思い出す。たしかに他の人間たちが魔王の重圧にひれ伏すなか、勇者だけは物ともせずその場に立ち続けていた。魔法に対して、強い耐性を持っているからだろう。
「だからアンナがどれほどの魅了体質であっても、俺には大して効果がないと思う」
「で、でも、それでしたらどうして……」
するとアレクセイは、若干涙目になっているアンナを見つめたかと思うと、すっと目をそらした。何か失礼を⁉ とショックを受けたアンナだったが、その耳が真っ赤になっているのを発見し、目をしばたたかせる。
「だからあれは、その……魅了とかじゃなくて、……純粋に、君の、ことが」
「勇者さま? 今なんと――」
アンナが聞き返した瞬間、アレクセイとの間に割り込むように白い稲光が走った。
飛び上がって逃げたアンナが振り返ると、切れ長の目を細く眇めた魔王が、かつてないほど静かな怒りを纏ったまま、長い指先をこちらに向けている。
(と、とんでもなく、怒ってらっしゃる!)
「――アンナローザ、お前も無理なら無理とはっきり言え」
やはり中途半端なことを言っている自分にお怒りなのだ、と察したアンナは、こくりと息を吞み込むと覚悟を決めた。
「や、やります。やらせてください!」
「――なんだと?」
再び魔王の威圧がざわめく。
だが臆するわけにはいかないと、アンナははち切れそうな鼓動を押さえながら、必死に声を出した。
「わたしが一番人間の容姿に近いですし、人に対する知識もあります。やるならわたしが適任です」
「ッ、しかし」
「もとはと言えば、わたしが言い出したことです。お願いします!」
アンナのその言葉に、場はしんと静まり返った。判決を待つ囚人のように言葉を待つアンナを見て、やがて魔王が小さくため息をつく。
「本気なのか」
「……はい」
「――まったく。芯の強さは変わっていないのか」
魔王は「ただし条件がある」と続けた。
「絶対に魔族とばれないようにしろ。危険を感じたらすぐに離脱することだ」
「は、はい」
「露出の多い服装は禁止する。腕もダメだ。イアンには私からも伝えておく」
「……はい」
「男の前で隙を見せるな。必要以上に腕や肩に触るのも好ましくない。会話も最小限に。あと連絡先を聞かれても絶対に――」
「へ、陛下! さすがにそれでは任務に差し支えるかと!」
思わず進言してしまったランスロットのおかげで、魔王はようやく言葉を止めた。途中からよく分からなくなっていたアンナだったが、自分がやるしかないと両手を握る。
「だ、大丈夫です! 偉い人たちを、ほ、骨抜きにしてきます!」
頑張ります、と緊張した面持ちで拳を上げるアンナに、口にはしないものの全員が
(可愛い……けど、大丈夫か、アレ……)
と、嘆息を漏らした。
(なんて啖呵切っちゃったけど……まず何をしよう……)
とりあえず考えながら手を動かす。任された倉庫は驚くほど荷物があり、棚と天井には蜘蛛の巣で出来た橋がかかっていた。窓ガラスも埃で曇り切っており、一度拭いたくらいでは元の状態が分からないほどだ。
(王宮なのに、こんなに管理が杜撰なところがあるなんて……)
しっかりと磨き上げた本棚に、書目を見出しごとに分類して並べていく。以前のアンナは単語程度しか読めなかったが、アンナローザが持つ知識のせいだろうか、調べなくとも自然に、何が書かれているのか読み取ることが出来た。
「本なんて初めて見た……」
思ったよりも掃除の進捗が進んでいたため、アンナは少しだけと言い訳しつつ、一冊の本を手に取った。
中のページは非常にすべすべとしており、アンナは初めての手触りに驚く。端から端まで目が滑るような長文が並んでおり、一瞬だけ眩暈がした。
だが改めて集中してみると、少しずつではあるが、書かれている内容が分かるようになってくる。
「国の成り立ち、王の系譜……歴史の本、みたい」
再びページをめくる。するとそこには、この大陸の始まりと、魔族について記載されていた。アンナはそれを興味深く目で追いかける。
「魔族、は……魔法という優れた力を持ち、多くの種族を有する……」
だがアンナは、その先に書かれていた文言に目を疑った。
「彼らは高い知能を持ち、人間に対して非常に友好的であった……人間たちもまた、彼らを良き隣人として、共生していた、……?」
今の世界と全く違う内容に驚いたアンナは、急いで次のページを繰った。だが保存状態が悪いせいか、次ページが落丁している。何か他に分かることは、と今度は本の末尾に書かれている筆者の情報を求めた。
だがこちらも管理が悪かったためか、インクが色褪せしていて、とても判別出来そうにない。かろうじて読めたのは、裏表紙に記載されていた日付だけだ。アンナが生まれるより遥かに昔のもので、書いた人物はとうに亡くなっているだろう。
(これが書かれた頃は、魔族と人間は争ってはいなかった……?)
一体どういうことだろうか。
必死に思考を整理していたアンナだったが、時間が無いと気づき、慌てて掃除の仕上げをする。やがて床を完璧に掃き上げたと同時に、正午を知らせる鐘の音が響いた。