第二章 9
だがアンナの恐れていた事態がついに訪れてしまった。
「アンナローザ様! 敵襲です!」
血相を変えて転がり込んできたイアンと入れ違うように、アンナは全速力で王の間へと走った。廊下では人間と魔族たちの乱戦が繰り広げられており、トラッドたちが奮闘している。
階段を駆け上がり、敵の手を交わしながら魔王のいる部屋に飛び込む。するとそこにはかろうじて逃げ込んだのか、多くの魔族が負傷し、横たわっていた。
(こんなに怪我人が……! 魔王陛下はどこ⁉)
空の玉座を確認したアンナは、ひとまず近くで苦しんでいた魔族の傍にしゃがみこむ。斧による割創が痛々しく、思わず目をそむけたくなるのを堪えて必死に呼びかけた。
だがその声をかき消すように、さらに大きな爆発音が城壁を揺らす。
「何……⁉」
見れば分厚い扉は破壊され、中央に巨大な穴が開いていた。外にいた魔族たちも吹っ飛ばされてきたらしく、絨毯の上にランスロットやドルシュキアたちが伏している。
「ランスロットさん、ドルシュキアさん!」
続けざまに放り込まれたのはトラッドだ。ふさふさの毛は血で固まり、見るも無残な状態になっている。やがてカチャ、と防具を揺らしながら、人間たちが王の間と足を踏み入れてきた。
軍勢の最後に現れた姿に、アンナは悲愴な表情を滲ませる。
(勇者、さま……)
アレクセイは周囲に転がる魔族を一瞥すると、静かに玉座に続く道を歩んでいく。その瞬間、室内の空気が一気に重くなり、途方もない威圧感がアンナを襲った。この感覚には覚えがある――魔王が現れたのだ。
体が魔族であるアンナは、かろうじて顔を上げることが出来たが、どうやら普通の人間には耐えられない代物だったらしい。あれだけ勇んで来た兵士たちが、皆一様にうずくまり、ひれ伏すように浅い呼吸を繰り返している。
だが勇者であるアレクセイには効かないのか、ひとり立ち続ける彼は玉座に向かって剣を構えた。
「魔王。これで終わりだ」
そう言うと勇者は、魔王に向かって走り出す。止めなければ、とアンナは震える足を無理やり引き立てると、床に転がっていた剣を握り、勇者の進路を阻害するように、前に立ち塞がる。
(だめ、殺しては――)
突然の闖入者に対して、勇者は反射的に剣を振るった。アンナは持っていた刀身で受け止めようとしたが、あまりの剣戟の重さに、すぐに弾け飛んでしまう。刃が掠り、アンナの手のひらに鮮血が走った。
すると今までの魔族と違う感触に気づいたのだろう、勇者はすぐに足を止め、アンナの方を見る。やがて驚いたように目を見開いた。
「君は――アンナ……?」
その瞬間、玉座から放たれた雷が、勇者とアンナを引き離すように二人の間を裂いた。勇者が一歩下がった隙に、茫然とするアンナの前に魔王が姿を現す。
「――大丈夫か、怪我は」
言うなり魔王はアンナの手を取り、大きな両手で包み込んだ。ほわりと温かい感覚が伝わってきて、ひりつくような痛みが徐々に収束していく。
(魔王、陛下……)
アンナは魔王が生きていることにほっとしながら、その様をぼんやりと眺めていた。だが端正な顔立ちが、ほんの鼻先にあることに気づいてしまい「もう大丈夫です!」と赤面しながら激しく首を振る。
その光景を傍から見ていた勇者は、愕然としながら自分の手を握り締めていたが、やがてアンナに問いかけた。
「アンナ、君は……魔族だったのか」
「……黙っていてごめんなさい。でも、話を聞いてほしかっただけなんです」
どうかお願いします、とアンナは深く頭を下げた。
二人の会話を聞いていた魔王はわずかに眉を寄せており、勇者もまた戦意を喪失したらしく、はあとため息をつくと鞘に剣を収めた。
城内は一時休戦となり、王の間には魔王と勇者、そしてアンナたち四天王だけが残された。傷ついた魔族と人間たちは大広間へと移動させられ、忙しさにぶち切れているアクセアの処置を受けているようだ。
幸いランスロットたちも命に別条は無かったらしく、簡易な手当てだけで間に合った。だが先ほどまで戦っていた相手の親玉が目の前にいるとあって、剣呑な雰囲気を隠そうとはしない。
「――それで、話というのは」
今にも魂が凍り付きそうな低音で告げられ、アンナは恐々と提案を始めた。
「ええと、その、わたしは、魔族と人間の争いを止めたいと、思っていまして……」
途端にぎろりとアンナに視線が集中する。しかし怯むわけにはいかない、と必死に言葉を続けた。
「お、お互い、誤解しているところがあると思います。魔族は人を襲わないですし、人間だって、攻撃したくてしているわけでは、ないはずです」
「……先日といい今日といい、これだけの目に遭わせておいて『したいわけではない』ですか?」
はあ、と呆れたようなランスロットの声が聞こえる。すると勇者がアンナを庇うように反論した。
「そうじゃない! たしかに傷つけたことは、申し訳ないと思っている……でも俺たちも、命令に従わなければ殺されてしまうんだ……」
「人間が人間を殺すのか? なんでだ?」
「まるで『屍の軍隊』だな……愚かな」
「……俺も、そう思うよ」
重い空気が蔓延し、誰ともなく嘆息を漏らす。
やがて魔王が勇者を見つめ、静かに口を開いた。
「――我々は、無益な殺戮を好まない。お前たちが攻撃の手を止めれば、こちらも何もしないと誓おう」
その言葉にアンナは勇者の返答を期待する。
だが返って来た内容は、色よいものではなかった。
「その申し出は嬉しい。実際俺も、魔族は悪い奴じゃないって感じ始めていたから……ただ申し訳ないけれど、王国の人間の大部分は、魔族を恐ろしいものだと信じ込んでいる。俺が話をしたところで、すぐに偏見がなくなるとは思えない」
たしかにアンナ自身、幼い時から魔族は恐ろしいものと教え込まれてきた。
何十年、何百年にもわたる確執と偏見を、すぐに変えていくことは不可能だ。たとえ無理やり今の討伐軍を放棄したとしても、この魔族に対する潜在的な恐怖心がなくならない限り、また新たな魔族討伐軍が編成される、と容易に想像出来る。
「戦いを止めたい、という意見には賛成ですが……このままでは埒があきませんね」
「本当に申し訳ない……とりあえず今の侵攻を止めて、時間をかけて魔族のことを知ってもらうくらいしか……」
「ですがそうすると、貴方がたの命が危険なのでは?」
ランスロットの言葉に、全員が再びうーむと頭を抱えた。考えを整理するように、アンナが腕を組んだまま尋ねる。
「あの、討伐軍に命令をしているのは誰なんですか?」
「書類上は国王となっているけど、実質は国の上層部連中かな」
「ということは、その偉い人たちを何とかすれば、進軍を止めることも出来て、さらに勇者さまたちも処分されずに済むのでは……」
「それはそうだけど……一体どうやって?」
三度会議に暗雲が立ち込める。
「なんか面倒だなー。オレが行って、一発ぶんなぐって来ようか?」
「だ、ダメです! 暴力では何も解決しません!」
ちえ、と口をとがらせるトラッドを宥め、アンナたちは思案に耽る。
(人間たちのところに行って、魔族は恐ろしくないと説明する? でも私が行ったところで信じてもらえるとは思えないし……勇者さまたちが勝手に戻ったら、それこそ命令違反で大変なことになるかも……)
すると妙な沈黙を察して、アンナははたと顔を上げた。
見ればランスロットやトラッド、ドルシュキアがじっとアンナの方を注目している。気のせいか魔王の目もこちらを向いているような気がして、何かまたしてしまった? ときょろきょろと周囲を見回した。
だが特におかしなところはなく、アンナが首を傾げていると、トラッドがきょとんとした顔で言い放つ。
「ていうか、お前が行けばいいんじゃね?」
「え⁉ でもあの、ほら、わたしは、ま、魔族ですし⁉」
「だってお前、対人間への魅了体質持ちじゃん」
対人間の魅了体質。
最初何を言われたのか理解できなかったアンナは、その言葉を再生するのに随分時間がかかってしまった。
「……たしかに、アンナローザであれば多少変装して紛れ込めば、人とは見破られないでしょうし……上手く潜入して上層部とやらを篭絡出来れば、不可能ではありません」
「『黒き花嫁』であれば、その程度簡単だろうが、……危険はないのか?」
「王宮に、討伐軍を辞めた知り合いがいる。事情を話せば書記官見習いとして、潜入することは出来ると思うけど……」
何故かとんとん拍子に決まっていく作戦に、アンナは動揺を隠せずにいた。
「で、でもあの、わたし、人間を魅了するなんて、そんな力……」
「何言ってんだ。普段あれだけ『人間なんて、わたくしの美貌と魅力の前では豚以下よ!』ってやってたじゃねーか。余裕余裕」
わははと豪快に笑いながら、トラッドがアンナの頭をわしわしと撫でる。その力にされるがままになりながら、アンナは心の中で絶叫した。
(そんなの知りませんけどー⁉)
アンナローザさん、豚大好き説浮上。