さかなと恋バナ
青、さかな。
透き通ったアクリルにたゆたう光のすじ。
緩やかで美しい水の世界。
水族館ってそんな空間だと思っていたのに。
私は涙目でスカートの端を握りしめた。周りを見れば小さな子ども連れやカップル、赤ちゃんとパパママ、カップル、カップル、あとカップル。
癒しを求めていたはずなのに思わず縮こまってすすすっと壁際に寄る。視界には一面の無機質な壁紙。しばらくそれとにらめっこしたあと、私は思わずそこに軽く頭突きをした。
――あああ、一人でくるんじゃなかった!
◆
頭の中でいたたまれなさと四百五十円の入館料を天秤にかけることしばらく、結局私は一通り回ってから帰ることにした。中学生になってからおこづかいは千円になった。それでもやっぱり、五百円玉は大金なのだ。
はあ、と思わずため息が漏れる。
なんだかあそこの団体もそっちのカップルも、一人ぼっちの私を笑っている気がする。
肩をぎゅっとすぼめながら目の前の水槽を見上げていると、不意に誰かに肩を叩かれた。えっ。なに。ごめんなさい。反射的に浮かんだそんな言葉が声になったかはわからないけれど、私は慌ててばっと振り返る。
そこには同い年か少し年上くらいの知らない女の子が、私みたいに「えっ、あっ、ごめん」みたいな顔をして立っていた。
沈黙。
水槽の向こうのナントカって名前の小さなサメが尾びれを揺らして水を掻いたのが、やたらとゆっくり大きく見えた気がした。
「……えと、突然ごめんね。これ落とさなかった?」
高い、ほんの少し鋭いような声が私の鼓膜を控えめにふるふる揺する。見れば、彼女の手の中には見覚えのあるハンカチがあった。
輪切りのオレンジがプリントされたそれは私の持っているものと全く同じで……と考えながら、私は上着のポケットに手を突っ込んだ。
ない。反対のポケットも。ない。ポシェットの中にもない。
おろおろと体じゅうを叩いてから「そうかも……」と答えると、女の子はぱあっと笑顔になった。
「よかったあ! はい、もう落としちゃダメだよ」
「あ、ありがとうございます」
「うん!」
女の子はにこにこ笑ってハンカチを返してくれた。
改めてありがとうとお礼を言って、そのままなんとなく固まる。というのも、女の子が私にハンカチを返した後もじっと私のことを見つめているから。
女の子はしばらく私を上目遣いに見つめた後、「もしかしてなんだけどね」と呟いた。
「きみ、一人で来てたりするの?」
かっと顔に熱が集まる。なに、そうだよ、悪いことじゃないでしょ。そう言い返したくても、一瞬のことだったから、顔に集中した熱が瞳からこぼれないようにするので精一杯だ。
そんな私の様子を見てか、いわゆる「萌え袖」状態の彼女のパーカーが思いっきり私の手を握った。
きっと私をバカにしてるのだと決めつけて見ていなかった彼女の顔は、思ったよりも切実だった。
「まおも! まおも一人なの! お願い、一緒に回ろ!」
◆
まお、と名乗ったその女の子は、私を親友みたいに「由梨ちゃん」と呼んで手を引いてくれた。
くりんとしたアーモンド型の目。ネコ耳のついた黒いパーカー、赤いチェックのミニスカート、足元はかっこいいショートブーツ。染めているのか、ショートボブの髪は頭のてっぺんのは黒いのに毛先に近づくにつれて明るい茶色になっていた。
――なんか、オトナだなあ。
雑誌に載ってても不思議じゃないくらいかわいいまおちゃんは、魚を見に来たのだと言っていた。
「私も大きな水槽が見たくてきたんだ。でも友達誘えばよかったって後悔してたの。なんか、ひとりぼっちで来たのバカみたいで」
愚痴混じりにそう呟いて、ちょっと言い過ぎたかななんて思うのと同時くらい、「まおも!」と言う声が聞こえてほっと胸を撫でおろした。
まおちゃんはぷんぷんと手を振る。
「まおは魚が見たかっただけなのに、そこらへんの奴ら水槽の前塞ぎまくるし、そのくせみんなイチャイチャ自分の連れしか見てないし! もーありえないよねー!」
純粋にお魚を楽しみたいまおみたいなお客さんの身にもなってほしいんだけど! とまおちゃん。
冗談混じりの口調ではあるけれど嘘の気配はなくて、なんだか笑ってしまった。
「まおちゃんは魚が好きなんだね」
「もちろん! いろんな形でかわいいしー、キラキラしてるやつとかも好きだしー、あと一番はー、美味しいし!」
「あはは、美味しいって。まおちゃんて面白いね」
「ふふん、でしょー。由梨ちゃんは? 水族館好きなの?」
「……そう、かな。うん。そう。魚が泳いでるとこ見て、癒されたかったっていうか」
無意識にもごもごと言葉が尻すぼみになる。なんとなく歯切れの悪い私に、まおちゃんは頭にハテナマークを浮かべると、にっこりと首を傾げて私の顔を覗いた。
くりくりの丸い瞳に、動作にともなってふわりと揺れるショートボブの髪。輪郭も整っていて足も細くて、仕草も女の子らしくてかわいらしい。もしも私がまおちゃんみたいな子だったら、きっと私はここに来なかっただろう。
――言っちゃおうよ。
天使と悪魔の姿をした私の中の誰かが、仲良く手をつないで私にささやいた。
本当は、学校でも一番仲のいい本当に一部の友達にしか言えなかったことなはずなのに、不思議と彼女には話を聞いてもらいたいと思った。私はぎゅっとスカートのすそを握る。
「まおちゃん……あの、ね。私フられちゃったの」
「ほ」
「好きな人できたから友達に戻ろって言われて……」
おずおずと私が告げた言葉に、まおちゃんはぶかぶかの袖ごしに両手で口を覆った。
「彼氏?」
「か、彼氏っていうか。そんなの聞いたことないからわかんないよ。でも両想いだったの。苗字じゃなくて名前で呼んでいいよって言ってくれたし、私のことも……名前で呼んでくれたし……」
「由梨ちゃんていくつ?」
「この前中一になったよ」
中学校は小学校とは全然違う。
私が大好きだったあのひとは、スカートの短いオシャレで強気なあの子に上目遣いで名前を呼ばれただけで、一瞬で私の手を離してしまった。
「……最近の子供ませてるーう」
「え? 何?」
「何も何も! そっかー。新しい環境で新しい女に目移りしちゃったのか」
「うん……」
「まぁ、ありがちっちゃありがちだよね」
彼女の言葉に私はしょんぼりとうなだれた。
まおちゃんは私を次の水槽へとうながす。くらげがレースのようにふわふわ揺れていて、「くらげはおいしくないなぁ」と口をとがらせるまおちゃんの顔に青い光が反射していた。
「知ってる? くらげって雌雄同体なんだよ。どうやってカップルできんだろーね?」
「しゆうどーたい?」
「オスにもメスにもなれるってこと。変だよねー」
「……いいなぁそれ。私、今だけ男の子になれたら嬉しいかも」
私は小さくため息をついた。
私が男の子だったら。そしたら「友達に戻ろう」って言葉は今みたいにさよならの意味を持たなくて、せめて一緒に笑えていたのかな、なんて。
「んんんー、まお雌雄同体の人間には会ったことないなぁ」
「ふふ、冗談だよまおちゃん。くらげ綺麗だね」
たゆたうくらげをアクリル越しに指でなぞりながら笑う。まおちゃんは「生き物の遺伝子って不思議だよねー。男と女って何が違うんだろ」と言いながら袖越しにアクリルをなぞって私の真似をした。
不意に彼女は伏し目がちに目を細めて、水の流れみたいに私に視線を移してほほえんだ。
「……諦められそうにない? その男のこと」
長いまつげに縁取られた綺麗な目に見つめられて、私はなんだかどきりとしてしまった。顔がほてったのは好きな人のことを聞かれたからではなくて、彼女の表情や目線に焦がされてしまったからだと思ったのはどうしてだろう。
急に燃えたような気がした顔を冷やすつもりで、私は慌てて水槽の方を向いた。
「ま、まおちゃんって、いろいろ言い方が大人っぽいよね、服とかも、そうだけど」
「え? そお? 全然気にしてなかった、どのへん?」
「男子とか女子とか、そういうふうに言うよみんな」
「あ、そっか。……んっんー。由梨ちゃん、その男子のことまだ好きなの?」
わざとらしく咳払いをして、「これでどやっ」とでも言いたげな顔で親指を出してくる。
私は小さくふきだした。
「……好き、だったよ。ここに来るまで、ほんとに。ずっと。でも、もう大丈夫かもしれない」
ここに来るとき、私の心中は大荒れの大嵐だった。悲しい。なんで。仕方ない。ひどいよ。つらい。大好き。仕方ない。悔しい。好き。納得できない。
中学生になったら、一緒に色んなところに行こうねって言ってたのに。そう、こんな風に、水族館とか……。
色々な感情が踊るように渦を巻いて、水の中にいるように息ができなかった。
でも、どうしてだろう。今はただ穏やかに、微笑みながらぷかぷかたゆたってる気持ちだった。
「まおちゃんのおかげかも」
嬉しくなってそうまおちゃんに笑いかけてから、なんだか急に恥ずかしくなって思い切り顔を背けた。ごまかそうとすれば「あ、つ、次の水槽見よ!」と想像以上に大きな声が出る。
足と手も一緒に出るし、くらげの水槽を見に来たカップルにぶつかってよろけるし、恥ずかしすぎてほとんど走るようにして次の水槽にかじりついたら「ちょ……由梨ちゃんかわいい……」とまおちゃんにつぶやかれた。
恥ずかしい。もう泣きそうだ。
「安心していいよ由梨ちゃん。今の超かわいかったよ、まおきゅんとしちゃったよ」
「うう……女の子のかわいいは信用ならないよ!」
「ええー」
まおちゃんは笑って、「大丈夫だよ由梨ちゃん元気出して、ほら見て見てー、おいしそーな魚だよー」と私の背中をぽんぽん叩いた。
◆
「今日はありがとう! ほんとに楽しかった!」
水族館の出口の手前のお土産やさんで、まおちゃんは大きく伸びをしながら言った。
「私こそ! 私もすっごい楽しかったよ。一人で回ってたら余計悲しくなっちゃったと思うし、まおちゃんが話しかけてくれてほんとによかった」
改めてありがとうと頭を下げると、まおちゃんは嬉しそうに私をばしばし叩いた。
連絡先、聞いちゃおうかな。また遊ぼって言ったら来てくれるかな。
トイレ行ってくるねーと手を振ったまおちゃんを見送って、手持ちぶさたにおみやげのキーホルダーを見ながらそんなことを考える。ガラスの中に入ったクマノミが可愛かった。
海の生き物をモチーフにしたメモ帳やシャープペンシル、ぬいぐるみ、キーホルダーにクリアファイルに、いろいろ。目に入ったかわいい小物の値段を覗いて私はえっと縮こまった。私にはまだ早いみたいだ。またいつか。
そんなことをしながらまおちゃんを待っていると、不意に、「矢崎?」と聞き慣れた男子の声がした。
私が振り返るのと同時くらいに「えーうっそー……マジなんだけど」とあまーい女の子の声。
嫌な予感を感じるまでもなく、そこには、さっきまで大好きだった男子と、その腕に両腕をからめた女子がいた。
――あ、今、私のこと『矢崎』って言った。名前じゃなくて、苗字で。
今この場所で誰よりも会いたくなかった二人は、驚いて固まる私を指差してなにかひそひそ言い合っている。かわいいあの子がわざとらしく首を傾げた。
「えー偶然じゃーん。矢崎さん一人で来たの? うけるわー……」
明らかにあざ笑う声でその子は言う。
かあっと顔に熱が集まって、「違うよ!」と言い返す声がひっくり返ってしまった。恥ずかしい。それでも、私はこの二人にそんなに馬鹿にした目で見られる筋合いはない。
確かに来たときはひとりぼっちだったけれど、今の私は友達と一緒なのだから。
「友達と一緒に回ったんだよ。今一人なのは、その子がトイレ行ってるから待ってるだけだし」
「へー。誰と来たの?」
「まおっていう子だよ」
「誰それ。どこの中学の人?」
「それ……は」
「ていうか苗字は?」
「し、知らないけど」
「知らないんだ。友達なのに?」
――嘘つき。
彼女の目は明らかにそう言っていた。
違う、嘘じゃない。お願いまおちゃん早く戻ってきて。
必死に服の端をつかんで、まおちゃんが帰ってくるまでの時間を稼ぐための言葉を探す。けれど真っ白になった頭にはなんの文字も浮かばなくて、バカにした表情の彼女と何も言ってくれないまま私を見ている彼の顔だけがはっきりと縁取られていく。
二人に背を向けてしまうか、それとも涙が落ちてしまうか。どっちが先かな、と思ったその瞬間、ずっと黙っていた彼が口を開いた。
「あのさあ、こんなとこまで付きまとわないでくれる? 正直引くし迷惑なんだけど」
彼の口元が薄く笑う。それにつられるように彼女は爆笑する。あ、無理、と思った。
波が引いていくように。水槽の栓を抜いたように。私の中でざあっと水が消えてあっという間に底が見えた。
――どこが好きだったんだろう、こんな人のこと。
滲んでいた涙が引っ込んで、驚くくらい心がぱさぱさに乾いていく。二人は楽しそうに笑っていたけれど、私には何ひとつ羨ましく映らなくて、なんだかアクリル越しに別の世界を見ているような気がした。
そのとき、「由梨ちゃんお待たせー!」と私を呼ぶ声がした。そう、そうだ。まおちゃん。私の友達。砂漠になっていた心に花が咲いたようで、私は思い切り声の方へ振り向いた。
「まおちゃん! 待って、……た……」
「遅くなってごめんねえ。ついでに飲み物買ってたら遅くなっちゃった。由梨ちゃんオレンジジュースでいい? 俺コーラがいいんだけど、由梨ちゃんの好きなほう選んでいいよ」
「えっ? あ、お、オレンジジュース好きだよ。ありがとう……」
「いーえー」
お魚柄のシルエットが印刷されたドリンクを手渡されながら、私はぽかんとしてそのひとを見上げた。黒いパーカー、赤いチェックのズボンに、足元はかっこいいショートブーツ。
染めているのか、跳ねた髪は頭のてっぺんのは黒いのに毛先に近づくにつれて明るい茶色になっている。強気な笑顔やくりくりの瞳や、ほんの少し鋭いような、それでも親愛をいっぱいに感じる声色がまおちゃんに……よく似た、高校生くらいのお兄さんがそこには立っていた。
「……由梨ちゃんの友達?」
お兄さんは私の正面に立つ二人に気付いたようで、綺麗な顔で微笑みながら私に尋ねた。二人はぽかんと呆けた顔で私とお兄さんを交互に見ている。私も同じような顔をしてるんだろうなと思いながら、なんとか「中学の同級生」と答えた。
「そっかそっか。初めましてー、俺まおって言いますー由梨ちゃんの友達ですー。友達がいるならジュース君たちのぶんも買ってくればよかったね」
お兄さんはにっと目を細めて笑った。首を傾げた拍子にお兄さんの整った輪郭に髪がかかる。不敵でかわいいその顔にどうしてだか、このひと猫みたいだ、と思った。
同級生のあの子は、私の友達が年上でかっこいいお兄さんだとは思わなかったのだろう。彼の腕に絡めていた両手にぎゅうっと力を入れながら、余裕のない顔で私を睨みつけた。
「友達って年上の男子かよ! 矢崎さん女子の友達いないんじゃないの?」
「あー、きみらどっかで見た顔だと思ったら。どっちかスマホ落としてない? このプリクラそうでしょ」
よくわからないことで大きな声を出すあの子を無視して、お兄さんはズボンのポケットからスマホを取り出した。ジュースのストローをくわえながらスマホを振ると、あの子に腕を掴まれていた彼が「あっ」と声をあげた。
「俺のスマホ! 返せよ!」
「そこのベンチに落としてたよ、人聞き悪いなぁ。最近の子はみんなそんな感じなの? な訳ないか。由梨ちゃんはちゃんと『拾ってくれてありがとう』が言えるもんね」
ねー、とお兄さんは私に笑いかける。そういえば、私が落としてまおちゃんが拾ってくれたハンカチには、オレンジのプリントが入っていた。
彼がお兄さんの手からスマホをひったくる。お兄さんは「あっ」と少し手で追いかけたあと、むすっとすねた顔をした。なんとなく、あ、まおちゃんだ、と思って、私はお兄さんの後ろにすすっと隠れた。
お兄さんは私に「あいつらのプリクラ『愛羅武勇。』とか書いてんだよ、漢文とかいつの時代だよ、だっせだっせ」と耳打ちしてくる。あの、漢文、私まだ習ってないからよくわかんないや。ごめんね。
そんなことをしているうちに、二人はさっさと私に背を向けてどこかに行こうとしている。
学校で会ったら気まずいだろうな、とか。陰で何か言われるかもしれない、だとか。きっと、もうあの二人の顔、見れないって。ついさっきまでそうぐるぐるしていたはずなのに、私はどうしちゃったんだろうか。
「あの!」
今日で一番大きな声が出る。二人がぎょっとして振り返るだけじゃなくて、周りの人も私を見た。
みんなが注目している。まるで水槽の中の魚になったみたい。それでも、水族館に来てから誰かの視線があれだけ怖かったのに、今の私には全然気にならなかった。
「私があなたのことストーカーしてここまで来たと思ってるみたいだけど! 私、篠原くんのこともう全然好きじゃないから! そういう自意識過剰なの、恥ずかしいからやめたほうがいいよ!」
それだけ言い放つと、私は「行こっ」とお兄さんの腕を引っ張る。
――『よかったあ! はい、もう落としちゃダメだよ』
後ろを向くときに一瞬だけ見えたお兄さんの顔は、出会ったときのまおちゃんの笑顔そのものだった。
◆
「由梨ちゃん、由梨ちゃんてば、やっるー!! 言い返すなら言ってよ、まおもガンガン援護したのに! まお超口悪いよ、煽るの超得意なのに言ってよ任せてよ!」
「あ、煽るってなに? いいの思いっきり言い返せたから! ……それよりお兄さん、やっぱりまおちゃんだったんだね」
「あっ」
お兄さん――もといまおちゃんは女の子みたいに口元に手をあてる。それからイタズラっぽく笑った後、くるりと身をひるがえしてみせた。どういう原理だかわからないけれど、再び彼が私のほうを向くころには、彼は同い年くらいのかわいい女の子の姿に戻っていた。
気のせいだろうか。体が縮んだ拍子に頭にかぶさったネコミミフードの奥に、本当に猫の耳が見えた気がした。
「まぁバレるよねー。びっくりした? まおはねー、こっちのほうが楽だし好きなんだぁ。なんたってまお可愛いからさ」
まおちゃんは大きな瞳をふふんと細めて髪を払う。茶色から黒に"プリン"がかった髪がふわりと揺れた。
くりんとしたアーモンド型の目も長い睫毛も、片足に重心をかけたその立ち方も内側に向いたつま先も、髪を払った指の先も。まおちゃんはやっぱり可愛かった。私が黙って彼を見つめていたから気まずくなったのか、どやっと強気だったまおちゃんの表情がだんだんとしょんぼりしてくる。ぐっと顔を近づけられて心拍数が上がった。
細い眉をハの字に下げて上目遣いに私を見るまおちゃんの顔が直視できなくて、思いっきり顔を背けると、「怒ってる!?」と泣きそうな悲鳴が飛んできた。
「怒っ、怒ってなんかないけど。ずっと黙ってたなんてひどいよ。まおちゃん、私が勘違いしてるのわかってたでしょ?」
「だ……だって、最初からバラしたらびっくりすると思って……。由梨ちゃん、びっくりしない? 初めて見るでしょ? 猫又」
「え?」
まおちゃんは改めてネコミミフードを被ると、両手でぱさりと払ってみせる。黒と茶色の"プリン"の頭には、ぴるぴると震える真っ白な猫耳がついていた。それからまおちゃんはくるりとステップを踏む、すると彼の姿は消えて、彼の足元があったところには一匹の三毛猫が現れる。三毛猫は私を見上げて、拗ねたような声で「あのねー」と言った。
「まお最近知ったんだけどね。三毛猫のオスがみんな死んじゃうのって、致死遺伝子、っていうんだって。クラゲの遺伝子は男にも女にもなれて、人間の遺伝子は男か女かどっちかしか存在しなくて。三毛猫の遺伝子は女しか存在しないんだって。たまーに神様の手違いか何かで生まれるんだけど、結局みんな死んじゃうみたい。イデンシガクテキに。なんでまおは長生きだったのか難しくてよくわかんないけど」
三毛猫はにゃーんと鳴くと、かろやかなバック宙でまおちゃんの姿になる。今まで見たどんなドラマよりもどんな手品よりも夢みたいな光景に、私は拍手も忘れてぽかんとしていた。
マボロシ? マボロシじゃない。だって、魔法使いみたいなまおちゃんが叱られたみたいにしょんぼりしてるから。この光景が私の妄想なら、間違いなく魔法使いは自慢げに腰に手をあててるはずだ。
まおちゃんは袖の先にちょこんと出た指先をいじりながら、おずおずと私を見た。
「黙ってたのは謝るよ、ごめん……。けどね、まお何百年か生きてきたけど、出会い頭の人間にバラすのは大抵仲良くなれないっていうか……せっかく楽しく一緒に回ろーって話になってたのに、やだなーって……」
「そ、そうじゃなくて。私が思ってたのは、まおちゃんが男の子だったなら言ってほしかったなって……」
「え?」
「まおちゃん、猫又だったの? それはすごいびっくりだよ。妖怪だったなんて全然分かんなかった。けど確かに、まおちゃんちょっとネコっぽい」
「ちょっ、えっ、待って待って? 勘違いって、怒ってたのそっち!?」
「お、怒ってないってば」
気まずい顔で袖をいじっていたまおちゃんが弾けたように私を見る。私はといえば、ほっぺたが熱くなっているのを感じながら彼を見つめ返していた。驚いた顔のまおちゃんと照れたような私の目があって、どちらからともなく噴きだしてしまう。
そう、そうだ、当たり前だ。あのお兄さんがまおちゃんだったとしたら、姿を自由に変えられるのだとしたら、まおちゃんは普通の人間なわけがなかった。そんなことにも気づかず別のことに慌てていた自分がバカみたいで、私は笑いながら顔を覆ってしまった。恥ずかしい。
まおちゃんは言う。
「まおのこと女の子だと思ってた?」
「……うん。スカート履いてるし、かわいいし、仕草とかもずっと女の子だと思ってて見てて。……その。失恋のこととか、男の子だったら言わなかったかもしれないのに」
「女の子のふりしてたら長生きできると思ってたんだぁ、昔。ねえ、まおが、おばけでも平気? 嫌じゃない?」
「嫌じゃないよ。むしろ変身とか、なんかそういうのかっこいいし。まおちゃんが言う通り猫又って初めて見たよ」
質問に一つずつ答えていくごとに、彼の表情からふにゃふにゃと力が抜けていく。「なんだあー、心配して損しちゃった」と笑うころには、まおちゃんはすっかりいつもの調子を取り戻していた。
口もとに両手を集めてくすくす笑ったあと、くりんとしたアーモンド型の目で私を見つめる。その視線はどこかのアイドルよりよっぽど女の子らしくて可愛くて、それなのに私は心のどこかでどきっとした。
『ギクッとした』じゃなくて『驚いた』じゃなくて、高鳴るような火照るような、うっすらと色づくような、そんな。
「黙っててごめんね。そういうことなら、まおから言うことは一つだけだよ」
そう言ったまおちゃんは、前髪ごしに私の額にキスをした。思考回路が急停止する。それから一気に紅色になる。
いたずらっぽいような大人っぽいような顔で目を細めて、彼は笑った。
「由梨ちゃんはかわいいよ。女の子からの『かわいい』は信じられないんだっけ?なら、まおが男に生まれた意味もあるかもね。なんちゃって」
彼はわざとらしく腰を折って、かわいい上目遣いで私を見上げてみせる。きっと私は林檎より信号よりよっぽど真っ赤になっているのだと思う。
びっくりして上がった肩も、反射的に口元を覆ってしまった手の甲も元に戻せていない私の頭を、彼はぽんぽん撫でる。それからまおちゃんはするりと雑踏の中へ紛れ込んでしまった。聞いたことある、そう、猫ってどんな隙間でも入れちゃうんだ、頭さえ通れれば。まおちゃんは顔がちっちゃいから雑踏なんてないようなものなんだ。
後から考えればそんなことを考えてる場合ではないのに、私はそんなことを思い浮かべながら立ち尽くしていた。
「今日はありがとね! もっといー男見る目養うんだよっ!」
人混みの向こうで猫のしっぽがパタパタ揺れて、それから人波に紛れて見えなくなる。
「……ず、ずるいよお」
そう私が呟いたのも、きっと彼は知っているのだろう。
青、さかな。
透き通ったアクリルにたゆたう光のすじ。緩やかで美しい水の世界。
そしてそんな景色を背に私に微笑んだ彼のことを、私はしばらく忘れられないと思う。