表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

諸葛亮孔明

三国志の蜀の諸葛亮は麻薬兵とか利用してた気がする。あの短期で回復する軍と、タイ・ベトナムあたりとの交流を考えると麻薬を知っててもおかしくはないだろう。


不自然な動機で自ら南蛮制圧に赴いた諸葛亮。

ある時期を境に不自然に変わった同盟国主・孫権。

こちらも曹操死後しばらくして不自然な行動が目立つようになった曹操の息子・曹丕。

劉備・趙雲に気に入られ蜀の次代の武の柱だったのに、不自然な謀叛を起こそうとした魏延。


あまりにも『不自然』な変心が多い。




そこで例を紹介しながら私の見解を述べよう。


蜀が天下を取るのは、劉備死後の蜀では不可能に近い。しかし国の目的が漢朝再興である以上、最低限長安・落陽は必要。劉備が夷陵で消し飛ばした国力がない時点で、ナニか盤上をひっくり返す策がないといけない。そこで諸葛亮は内政充実を図ると共に、南中に目を向け細かく調査する事にした。そして、打開策を求めて南中各地や人材を調べるうちに、諸葛亮は妙な薬とその活用法。追い詰められていた諸葛亮は、目的の為にその情報と薬を利用しようと考えた。


それは南中にあった麻薬(か、それに類する物)。


これを効果的に使えば、まずまともな思考能力を奪い、怪我をしようと短期に次の戦場に投入する事のできる不死兵団(本当に不死な訳ではないが)が創設できる。勿論、痛みを誤魔化しているだけでなく、治療もしているだろう。しかし、兵達の戦場復帰は通常よりも相当短縮できるに違いない。


自国に対しては、治りきっていない兵を戦わせる事が可能になり、麻薬を配る事で反抗的な将と兵の忠誠心(依存心)を上げ反抗心を無くす。元から扱い易い馬岱・姜維、内政・補給担当には当然麻薬は使わない。


他国の要人には、暗殺等の手は使わず、麻薬の献上といった心を壊す可能性を高める策。これは、それなりに若い世代にこそ有効だろう。


しかも、この時代の薬学では麻薬らしき存在は華佗しか可能性がない上に、華佗は死亡し、弟子には技術が伝わっていない。もう少し後になれば何晏がドラッグを発表するが、参考にしたかはともかくおそらく別物だろう。つまり諸葛亮全盛期で麻薬という存在は、暗殺以上に国に害があり、更に認識外からの一撃、という事。



このように麻薬を利用すれば、自国を強化し、敵国を自壊させる策に化ける。





さて、次は個別の人材についても言及していこう。



まずは自ら南中に赴いた諸葛亮から考えてみよう。

諸葛亮の南中制圧は225年。しかしながら、準備段階はおそらく夷陵戦前の魏帝禅譲(220年)前だろう。各国の情勢を睨みながらいくつかの手を打ち、麻薬もその一つと考えるなら調査→発見→試用→正式採用は218~223年が妥当。何故なら、魏の建国期の重臣が次々亡くなり隙ができていた機会を逃すとは思えない。この時点では、更に魏国内を混乱させ、涼・擁州を取る為の一手だっただろう。しかし関羽・張飛の死。おまけに劉備が夷陵に赴き大敗。国の将と兵の主力を失い、荊州失陥が確実になる。逆に魏と呉が蜀に侵攻してくる始末。そこでこの危機を凌いだ後の戦略を練り直した。


試しの一手に蜀を裏切った孟達に、南中調査の過程で得た麻薬を献上する。そのまま孟達が使えばよし、曹丕に献上するもよし、魏国医師団に広める(麻酔薬や精力剤になる)もよし。仮に効果がなくても損は少ない。


だが諸葛亮は、ある程度の効果があったと見たからこそ南中へ自ら赴いたのではないだろうか?大量の麻薬の仕入れと人物確認の為に。だから諸葛亮自ら赴き、孟獲に対して七度の釈放という厚遇と、南中への手厚い措置が行われた。これは戦略的に重要な取引だったから、この待遇のように私は考える。



次に孫権と曹丕について述べてみよう。


侵攻自体は天険を持つ蜀にとっては危なくない。しかし、攻める事も難しい。ならどうするか?魏呉が争う未来は見える。ただ呉と国交回復するだけでは蜀に先がない。麻薬は好戦的になる傾向がある。


これらの情報を諸葛亮が調べていたなら、孫権への献上品に麻薬を混ぜて、兵を挙げやすく誘導するに違いない。孫権はどちらかというと守りの人であり、本分は内政と人材活用にある。そうした人が兵を挙げても失敗する確率は高い。しかも、麻薬が好戦性を高めて『一度勝つまでは』と勝利に固執しやすくもなる。そうして孫権のバランスを崩せば、内政も人材活用も崩れていくだろう。実際、諸葛亮死後にタガが外れたようにおかしくなっていったのは、麻薬の使用量が増えて禁断症状が出てたせいじゃなかろうか?


これは曹丕に関しても似たような事が言える。孫権と似たタイプの内政と人材活用に優れた君主が曹丕だが、彼には身内の問題(父と弟と嫁)が山積みだった。そんな時に側近から、「街で流行ってるこの精力剤(麻薬)、すごい効き目ですよ。陛下もいかがですか?」と勧められ、試しに使えば本当にすごい効果だった。夜の生活もさることながら、力が溢れて何故か戦えば勝つと妄信するようになっていく。司馬懿や陳羣に止められても、孫権同様に勝利に固執する事に。しかし何度挑んでも負ける。そこで、薬が足りないと考えつい用量を超えて使いすぎ、体を壊してしまった。



孫権も曹丕も、220年前後から急に好戦的になる謎。それ以前のほとんどの戦で部下に任せていた内政型の君主だったのに、二人の戦を苦手としている君主が同時期に大きな戦場に立ちたがる偶然。私は麻薬を利用してそれができる人材として諸葛亮が怪しいと思うのですが、皆様はどうでしょう?






さて、最後の例として蜀将・魏延についても述べてみましょう。


魏延は、元は荊州の武将で主君を裏切って劉備に付いた過去がある。しかし劉備は軍人としての彼を認め、蜀攻略戦、漢中攻防戦で大いに活躍した。劉備や趙雲黄忠等は、魏延は粘り強く武勇もあり、指揮官としても非凡さがある先が楽しみな武将。と評価している。


余談だが、良い軍人は文官と上手くいかない事が多い。関羽や張飛、呂布、董卓、孫策、周瑜等がそれに入るだろう。勿論必ずではなく、趙雲や夏候惇等、比較的政治に向いた性質を持つ武将もいる。


話を戻そう。

魏延は劉備軍加入から、劉備を含め武将達からの評価が高かったが、文官からは嫌われていたといってもいい。文官筆頭の諸葛亮が、露骨に嫌う姿勢を見せていた事も一因だろう。嫌われていれば普通反抗するし、舐められないようにするのは戦国にあって当然の処世術だ。


魏延は、劉備の漢中奪取から長く漢中指揮官を努めあげ、大きな手柄はなくとも死ぬまで漢中を防衛した。諸葛亮の第一次北伐で彼が提案した長安奇襲は、連携さえ充分なら勝算は高かっただろう。しかし双方の被害予想と先を考えると、この時点では諸葛亮の案で充分ともいえる。


結果的には第一次北伐は、撤退する事になり魏延が途中で負傷するアクシデントもあったが、ほとんどの軍は無事に漢中に辿り着く。例外は、敗北原因である馬謖の軍と副将の王平、後詰めの高翔の軍くらいだったから、諸葛亮は人選以外に落ち度はない。


ただ思い出して貰いたい。魏延は諸葛亮に反抗的であり、今回撤退中に怪我を負った。そして治療に用いられるのは・・・そう、麻薬である。


違う武将であれば安全性を研究する時間がなかった今回で使用するかわからないが、魏延なら話は別だ。彼を麻薬の依存症にしてしまえば、薬欲しさに反抗的でなくなる可能性は高い。少なくとも命令を聞くようになるだろう。多少バカになって、死にやすくなるかもしれないが、命令系統の整備は急務だ。


諸葛亮はリスクを減らす方向の言動がほとんどで、人材活用については孫権・曹丕に及ばない。国の武の柱になりそうな魏延を育てるよりも、嫌いで信用ができずに排除する選択をこの時か、この少し後(馬謖斬首後)でした気がする。


後は、ある程度近くで経過観察して孫権に献上する分量を調整しつつ、自分の死の直前におかしくなってきていた魏延を殺す策を用意しておいた。それが不自然な謀叛の真相かもしれない。







皆様、私の説はいかがでしたでしょうか?


諸葛亮孔明という偉人の印象を壊してしまったらすいません。ただ、孫権・曹丕・魏延の変心理由がどうしても納得できずに、こうして陰ながら主張するのもいいかなと思い、アップしてみました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ