恐慌
太陽が既に沈んだ夜道。それにしても暗いのは、月や星々の光が厚い雲で遮られているからである。バケツを引っ繰り返したような雨が、強い風によって斜めから吹き付けているのだ。
そんな中、普段なら消えているはずの明かりが、小学校の体育館から漏れていた。台風かと思わせるような強い風雨で、川の近くの住民に避難勧告が出ていたのである。
"酷い雨ですね"
僕は既に避難していた人達に一声かける。生憎とこの街の住人ではない僕は、知り合いもいなければ着替えなんかも持っておらず、ハイネックの服を脱ぐことなく持っていたタオルで濡れた髪や身体を拭いていく。
体育館の中では大人や子供たちがそれぞれ集まって話しをしていた。どちらも不安そうな表情に変わりはないけど、話している内容は全く違う。
大人たちは外を見ながら川の氾濫のことなどで、子供たちはこんな時期だからなのか怖い話をしているようだ。
そして、丁度話し終えたタイミングだったのか、一息ついた少年と視線が合い、思いっきり驚かれてしまう。何事かと親達がこちらを見るので軽く笑いながら詫び、少年達へと近づいた。
"怖い話でもしてたのかい?"
そう話しかければ、見知らぬ僕に少し警戒しながら「うん」と頷く。さっきまでしていた話の影響もあって怖がっているのかも。
"暇だし、加わってもいいかな。一つだけなら僕も怖い話を知ってるんだ"
突然の申し出に子供たちは相談し合い、一瞬大人たちへと視線を送ってから頷くと、四人で出来ていた輪を広げて僕が入れるようにしてくれた。
その事に礼を告げながら胡坐を掻いて座れば、子供たちの視線が僕に集中する。どうやら次の怖い話をするのは流れ的に僕らしい。
それならば、と喉の調子を整えるように一つ咳払いをすると、身体を軽く屈めて少しばかり低い声色で語り始めた。
◇◇◇
それは七月に入って、暑く寝苦しい夜が続くとある日のこと。
一人の少年が自分の部屋で眠りに就こうとベッドで横になっていた。彼が眠るのは下に机なんかが収納できるベッドなんだけど、椅子を踏み台にして上っているから場所を取る梯子は取り払われていたんだ。
ベッドの直ぐ横にはカーテンが掛かっていて、そこには外に張り出した出窓がある。小さい頃はそこからベッドに上ったりして遊んでいたみたいだけど、今はその出窓が彼を悩ませていたんだ。
その日は台風でもないのに凄く風が強くてね。轟々とうねる風の音、庭に生えている木の枝葉が揺り動かされ、彼の出窓をキィキィと引っ掻いているんだ。黒板を爪で引っ掻くのと同じ、嫌な音さ。
それがどれ位経ったんだろう。何せ両手で耳を塞いで目を瞑って、電気は豆電球まで消していたからね。
三十分か一時間か……とにかく、気が付けば外をうねる風の音が止んでいた。当然、ガラスに当たる枝葉も無くなり、これでようやく眠れる。少年は耳から手を離して、ホッとした気持ちで身体から力を抜いたんだ。
先ほどまでは考えられないほどの静寂。
そしてそんな中で微かに響く音。
その音は部屋のドアノブを限界まで回して、ストッパーに当たった音だった。力一杯に捻ったというより、静かに音を立てないようにしながらも、限界まで回してしまったようなそんな小さな音。
当然、その音はまどろみの中にいた彼の耳にも届く。
最初に少年の脳裏に過ぎったのは、酔っ払って帰ってきた父親が顔でも見に来たのかということだった。でも、これは直ぐに間違いだと気付いた。彼の父親は一週間ほどの出張に行っていて、帰ってくるのは三日後だと母親から聞いていたからね。
ならその母親かとも考えたが、こちらは近くにある寝室から出てくるような音は聞こえていなかったんだ。
この考えに至った時、彼の心臓は一度大きく脈打ったよ。まどろみの中にあった意識は徐々に覚醒し、血液が手足へと早く流れて身体を起こそうとしたんだ。
だけど、彼は横になったまま。部屋に入ろうとしている何かを警戒して起きないわけじゃない。……身体が動かなかったのさ。
金縛り。テレビや雑誌なんかで見かけてはいたけど、まさか彼自身が掛かってしまうとは夢にも思っていなかっただろうね。
この恐怖で頭に血流が一気に流れて、細部にまで血を巡らせる。まるで脳がもう一つの心臓のように伸縮を繰り返し、血液を流そうとしているかのような気分だったのさ。
そしてゆっくりと開かれるドア。物音を立てないようにと静かに開こうとしているんだろうけど、ギギィィィとホラーには付き物の音を微かに響かせている。
彼の心臓は激しく何度も脈打ち、身体を起こそうと手足や頭を必死にもがいていた。何かがやって来る、それまでに早く起きようと必死だったんだろうね。
だからだろう、ドアの開く音は確かに聞こえていたけれど、その後で何かが近付いてくるような音は聞いていなかったんだ。
それに気付いた彼は一旦もがくのを止め、物音の少ない部屋に耳を澄ませる。侵入者がいるなら足音で気付けると思ったんだろうね。でも、聞こえてくるのは時計の秒針がチクタクと時を刻んでいる音だけだった。
そこで彼はわざとらしさを自覚しながらも、寝言を発しながらドアの方向へ寝返りを打って身体を横に向ける。ここで身体が動くことに気付く。
だけど、恐怖から即座に起き上がることは出来ず、一先ずは部屋の状況を確認しようと、薄っすらながら瞼を開けたんだ。
イタ
そいつはボサボサに乱れた長髪で顔が微妙に隠れ、歳を取っているが男か女かは分からなかった。何故なら少年がパニックに陥っていたというのもあるけど、ソレがベッドの淵に両手を掛け、目から上だけを出して彼を見つめていたからだ。
血が滲んでいるかのような赤い目は大きく開かれて輝き、その目を見てしまった彼は叫ぶことすら出来ず、先ほどまで煩いほど叩いていた心臓は逆に静まっていくかのように、どんどん萎んでいく感覚に陥っていた。
血塗られたような血走ったような目は、彼を見ているかのようで何も無い虚空を見ているかのよう。その一瞬、もしくは数分の沈黙の後、それは両手を放して淵を潜り彼の視界から消えた。
でも安心なんか出来るはずはない。少年が眠っているのは普通のベッドじゃなくて、下が物置になっているベッド。奴はそこに潜ったのだから、当然今いるのは彼の真下。
動けず言葉も発せない。少しでも物音を立ててしまうと何かされそうで、今は呼吸の音でさえ押さえ込むように浅く行う。その分、心拍数を上げる心臓の音がやけに大きく聞こえ、その音が奴に聞こえてしまわないかと恐れていたんだ。
ただ、彼もこのままではいけないと考えたのか、周囲に視線を走らせる。鏡の反射で下を覗こうと考えたんだろうね。
少しだけ浮かせた顔を物音立てないように動かし、普段使っている部屋の鏡を探してみるけど、直ぐにそれが成功しないことに気付く。
今朝も使った小さな鏡は、ベッドから抜け出て下に降りてから使う位置にあるんだよ。ベッドに寝転んだまま下を覗けるような場所には無いし、豆電球もない暗闇だから見えるかどうかも疑わしかった。
仕方なく彼はベッドに身体を預ける。天井を見つめながら思うのは、その内朝が来て全ては夢だったという希望。そうなって欲しいと願い、強く強く瞼を閉じたんだ……。
デモ ネガイハトドカナイ
ギシリとベッドに負荷のかかる音。
心臓が強く脈打つのが早いか目を見開くのが早いか、普段なら天井を映す彼の視界にはソレが大きく映し出されていた。
それは顔。少年に覆いかぶさるようにして長い髪をダラリと下げた奴の顔が、目を開けた瞬間に飛び込んできたんだ。
彼は悲鳴を上げることすらできず、それどころか息を飲み込んでしまい呼吸が止まってしまう。目は大きく見開き、口はただ空気を求めるかのようにパクパクと動かすだけ。
次の瞬間、彼の首に細い指が掛けられ、ギリギリと強く強く締め付けられる。それは首を絞めるなんて生易しいものじゃなくて、首の骨が折れるんじゃないかっていうほどの強さ。
今度はうまく呼吸が出来ないんじゃなく、物理的に息が吸えない。苦しい。助けて。死にたくない。少年が声にならない声を上げても、誰にも聞こえない届かない。
パニックに陥った彼は身体をもがいて抜け出そうとしてみても、上から押さえつけられてしまったかのように余り動けず、どんどんと意識が闇に飲み込まれていく。
そして、薄れ行く彼の目に最後に映ったそいつは――
ハハハ ワラッテル
狂ったように、泣きながら楽しそうに――
その後、家からは一人の遺体が発見されたんだそうだ。そして誰も住まなくなった家だけが今も静かに建っていて、噂だとあの晩と同じ風の強い日になると、ガラスを叩いて助けを求める少年の声が聞こえてくるんだとか。
◇◇◇
僕の話が終わっても子供たちは何の反応も示さない。青ざめた表情で僕から距離を取ろうとしてるのか、友達同士で引っ付いてこっちを見ている。そんな静かな空間で雨音だけが体育館の屋根に当たって響いていた。
ここに来てからそれほど時間は経ってないけど、雨脚はだいぶ弱まったみたいだ。
"眠る前にこの話を思い出さなければ大丈夫。でも、もし脳裏を過ぎってしまったとしたら、そいつはもうドアの前でじっと佇んでいるのかもしれない"
最後にそう告げて僕が立ち上がれば、子供たちはビクッと身体を反応させる。そんな様子が面白くて、ついクスリと笑ってしまった。そして僕は体育館の出入り口へと向かう。雨はまだ止んでないけど問題ない。
さぁ、次はどこに行こうか、なるべく多くの子供に聞いて欲しいな。それで聞いた子供たちは喜ぶんだろうか、それとも変な話するなって怒るのかな、怖がっちゃうかもしれない、いや怖い話だからこそ楽しむのか、それとも……
アハハ タノシクナッテキタ