畠くんが猫になった日
私の前の席に座っているクラスメイトが、休んだ。
そのせいで、いつもは気付かれない居眠りも注意されるし、日直は1人でしなくてはいけなかったし、回ってくるプリントをいちいち立って貰うことで無駄な体力を消耗したりと、散々だった。
明日休んだら私も休んでやろうかと、いつもより遅くなった帰り道で企んでいたとき、前を猫が横切った。
ぱっと見て、黒猫ではなかったことに何となくほっとし、こちらをじっと見ている猫にゆっくりと近付いた。
余程人懐こい猫なのか、目の前に顔を近付けても逃げもしない。
お互いに長い間見つめあって、私はふっと、本当に何となく思った。
「お前、畠くんでしょう」
そんな訳ないのに、猫の鋭い眼が真ん丸に開かれた気がした。
私がそれに驚いて固まっていたら、目の前の猫の口が開いた。
「何でわかったんだよ」
畠くんは、私の前の席の、クラスメイトだ。
どうやら彼は、猫になってしまったらしい。
畠くんは、クラスの人気者だ。
彼がいると、辺り一体盛り上がるし、楽しい雰囲気になる。只のお調子者かと思えば、喧嘩の仲裁に入ったり、悪いと思ったことを素直に言い、叱ったりもする正義の味方のような面もある。
これがムードメーカーというやつか、と彼と初めてクラスが同じになって一月も経たずに理解した。
更に彼は、容姿、成績、運動神経まで良いという、普通の人ならばどこか欠けているだろうものが、全て揃っていた。
そんな存在を女子たちが放っておくはずがない。
彼の周りに彼女たちが集まるのは、自然の摂理の如く当たり前のように思えた。
他の男子も、畠ならば仕方ないという暗黙の了解のようなものがあったように思う。
だけど、彼はそんな羨ましがられる状況には傲らず、彼女たちとも節度ある付き合いをしていたようだった。
そんな彼にますます周囲は好意を抱き、畠くんは、クラスの、いや、学年の人気者になった。
一月で畠くんを理解すると、二月目には、うちの学年は特殊であるということを知った。
何と、信じられないことに、畠くんに負けず劣らずな人気者があと3人もいるというのだ。
私がはっきりとその存在をこの目で把握したのは、畠くんと同じクラスになって二年目、その3人と同じクラスになって一年目の春のことだった。
それはもうクラスの女子は色めきたった。
身近な紳士の畠くんか、甘いマスクの澤くんか、カリスマ性溢れる鷹くんか、母性愛擽られる阿佐くんか。
そんな4つの派閥が出来るのにそう時間はかからなかった。
彼等は皆、それが当たり前であるかのように、何でも出来るし、何でもこなせた。
何かをする度、彼女たちがきゃあきゃあと黄色い歓声を上げ、ここは動物園だっただろうかと何度首を傾げたかしれない。
クラスの男子は、この4人と同じクラスになった時点で諦めていたのか、女子にアピールという名の求愛行動をする勇者はどこにもいなかった。私は初めて男子が可哀想だと思った。
女子とは、怖いものだ。
誰かが抜け駆けをしようものなら、それは弾き出され、潰されていく。
彼女等は皆のものだという協定を結ばなければ、安心して自分のグループにも居られないのだから。
私は遠くで見ていたからそのような協定があるのだということしか知らないが、それに入っている知り合いは「あそこは地獄だよ」と恐怖に顔を真っ白にしていた。何があった。
だが、確かにそうやって彼等は、いや、平穏は守られていた。
その事実に気が付いたのは、皮肉にもそれが壊された時だった。
彼女、矢吹彩が転校してきたことによって。
「何で猫になったのか、覚えてないの?」
私は隣に座っている、器用に胡座をかいている茶毛の猫に聞いた。
猫に真剣に物事を尋ねるなんて、余程寂しい人かちょっと頭の危ない人だと思うだろう。私でも思う。
それでも、私がこの猫に問いかけるのは、その小さい脳を使ってきちんと言葉を返してくれるからだ。
「それがさっぱり。気付いたら猫になってたんだ」
腕を組んで首を傾げる猫なんて、そうそうお目にかかれないだろう。
カシャリと携帯を向けて音を立てると、何撮ってんだ金とるぞ、という脅しがかかった。脅す猫も貴重だ。
ムービーを撮ろうと向けた携帯を猫パンチで弾き飛ばされた。ああ携帯。
「って何で漫才やってんだ。あんたも真剣に考えろよ」
そんなこと言われても。
さっぱり。と言われたこちらの身にもなってほしい。
状況も証拠もヒントもなく、どうやって考えろというのだ。
どこかの名探偵でも匙を投げる。
「何かないの?例えば……うーん、その前に何かやってたとか」
投げやりに質問した内容にしては、なかなか的を得ているのではないだろうか。
もしかしたら、きっかけが掴めるかもしれない。
「うーん……やってたこと……学校終わって、家に帰ってて………あ!猫と遊んでた!」
もうすぐで床に着きそうなくらい下がっていた頭が急にぴこん!と上がった。
その可愛さに悶えていたら「おい、聞け!」と肉球でぺしぺし叩いてきた。やめて……!私のライフはもうゼロよ……!
「分かった!猫と遊んでたらいつの間にか猫になるんだ!」
そんな馬鹿な。そんなので猫になってたらそこらじゅう猫だらけだわ。
きらきらとした目を向けられ罪悪感を感じつつも「それはない」ときっぱり否定しておいた。
しょんぼりと下がる耳が愛しすぎる。
触ろうと伸ばした手を、近付く笑い声に気付き下ろす。
私たちは、取り敢えずということで公園のベンチに座っていた。
だが、公園は公共の場。誰が来てもおかしくない。
「畠くん、お家に帰ろうか」
猫のきょとんとする顔って、鼻血を誘発させる効果があると思うんだ。
畠くんを抱えた手とは反対の手で鼻を抑えながら、私は家に向かった。
「今日からこちらのクラスで過ごすことになります、矢吹彩です。こちらに来てまだ日も浅いので、分からないことがあったら教えて下さい。よろしくお願いします」
そう言ってぺこりと頭を下げた彼女は、とても可愛らしかった。
美少女という言葉が相応しいだろう彼女は、心に木枯らしを吹かせるこのクラスの男子にとって、瞬く間にマドンナという存在と相成った。
逆に女子は、自分より可愛い存在というのは基本的に気にくわないと思うのが常らしい。
初めは気を使ってか言葉少なにも話しかけていた女子たちもいたが、よく男子に声をかけられるものだから、自分たちより男子に愛想を振り撒いていると、毛嫌いする者が増えていった。
そうして自然と、矢吹彩に話しかけるのは男子に限られていった。
だけど、彼女が男子に声をかけられるのも理由があった。
彼女は、本当に可愛いのだ。
明るい声、豊かな表情、溌剌とした笑顔、然り気無い気配り、女の子らしい仕草、偶に見せるどこか抜けているような行動、全てが男心を擽るポイントとなることが見ていて分かる。
そして、心惹かれるのは、あの4人も例外ではなかった。
1人、また1人と彼女に落ちていく彼等を見て、女の子たちはギリギリと歯を噛み締めるしかなかった。
だって、皆、彼等を本当の意味で振り向かせることなど出来なかったのだから。
いつの間にか、矢吹彩と4人はいつも一緒にいるようになっていた。
勿論、私の前の席に座る畠くんも。
「ありがとな。お前が家に泊まらせてくれなかったら、俺、野垂れ死んでたかもしれない」
そんな大袈裟な。
猫になった畠くんを家に連れて帰り、余りに不憫な畠くんにご飯もお風呂も提供すると、畠くんはとても感激した。
お前程のいいやつも珍しいな!と目を輝かせて私を見る畠くんに、君は猫として生きていてほしいものだと伝えようか凄く迷った。だって可愛い。
いや、駄目か。何せ彼女が悲しむから。
「見つけてくれたのがお前でよかったよ」
私の鞄に入ったままそんなことを言う畠くんに、顔を見られなくてよかったなあと思った。
今の私の表情はきっと、とても畠くんに見せられるようなものではなかっただろうから。
私じゃなくて、彼女に見つけて貰いたかった癖に。
心の中で呟いた言葉は、私の醜い心をありのまま表しているようだった。
「畠は今日も休みか」
担任の呟いたその言葉に、教室はざわざわとざわめき出す。
風邪か、インフルエンザか、骨折か、とそれらしい理由が上がるなか、事故?事件?と野次馬を発揮する声も上がり、もしかしたら宇宙人に浚われたのかも!と有り得ない説も出始めた。
静かに、という担任の声に徐々におさまる教室のざわめき。
私はと言うと、いつ畠くんが、ぶっぶー!皆不正解!正解は、俺は猫になった、でした!と鞄から飛び出さないか、はらはらしていた。
しかし、私の心配は杞憂に終わり、畠くんが鞄から出てくることはなかった。
ホームルールも終わり、再びざわめき出す教室で安心していると、ふっと目線の先にいた矢吹彩が見えた。
私はそれを見て驚いた。
何故なら、いつも明るく笑顔で真っ直ぐ前を向いている彼女が、唇を噛み締め虚空を睨むようにして俯いていたからだ。
だが、近くの男子に声をかけられた瞬間、ぱっと表情は切り替わり、いつもの彼女の笑顔が戻っていた。
気のせいだったのだろうか、とそれを頭の隅にやり、授業の準備をし始める私の耳に鞄の中から呟く声が聞こえた。
「俺の、せいかな」
私は言葉を返すことなく机に教科書を置いた。
ぱしん、と高い音が食堂に響き渡った。
何事かと野次馬精神で様子を見に行くと、あの4人の中の、財閥グループの跡取りである鷹という男の婚約者と矢吹彩を囲んだ集団が出来上がっていたことがあった。
婚約者殿と彼女は互いに向き合い、しかし、彼女の方は左頬を手で抑えていた。
もしかすると、あの高い音は、婚約者殿が矢吹彩を平手打ちしたものだったのだろうか。
何と浅はかな。傷つけた方が不利になるに決まっているのに。
けれど、彼女たちの表情を見るとどちらが傷つけられたのか分からないな、と思った。
だって、傷つけたはずの婚約者殿の方が顔を泣きそうに歪め、唇を噛み締めていたのだから。
こんな騒ぎが彼等に届かないはずがない。彼女関係は特に。
野次馬を割って入ってきたのは、きっとこの騒ぎの原因でもあるだろう鷹だった。
「……麗香、これはどういうことだ?」
婚約者に向けるには冷たすぎる視線をよこし、彼は彼女の背を支えた。
その様子に婚約者殿は、更に顔の中心に皺を寄せ、不快感を顕にしていた。
「…貴方のことを、『可哀想な人』と言ったのよ。雅人は、可哀想なんかじゃ、ないのに」
拳を固く握りしめる婚約者に、彼は無情にも刃を突きつけた。
「あ?彩がそんなこと言うわけないだろ?そう思っているのは、麗香、お前の方なんじゃないのか?」
その言葉に、婚約者殿は愕然とした表情をしていたことが記憶に強く残っている。
ああ、馬鹿だなあ、と思ったような気もする。
きっと、彼は知らないのだろう。
彼の婚約者が、愛情を知らない彼に愛し愛されようと影で努力していることを。
彼の婚約者が、親に愛されなかった彼に向ける周りの同情の目を、彼にひた隠しにしていたことを。
彼の婚約者が、例え自分でなくて彼女でもいいから、愛するという気持ちを味あわせてあげる為に危害を加えないでほしいとファンクラブに頼み込んでいたことを。
きっと、知らないのだろうね。
婚約者殿の健気さを認め、今やファンクラブは鷹と婚約者殿を幸せにしようという傾向にあったことを。
見ていただけの私ですら、知っていたというのに。
今思えばこの瞬間から、保ってきた平穏が崩れ始めていたんだろう。
それから彼女等は少しずつ、今まで決して手を出さなかった矢吹彩に危害を加え始めた。
初めは女子同士のグループワークでもわざと1人余らせたり等の軽いものだったが、堪えた様子の見られない彼女にだんだんとそれはエスカレートしていった。
そしてついに、それは起こった。
「あんた!いい加減にしなさいよ!」
確か婚約者殿の親友だという黒髪の女子が、矢吹彩に怒鳴っていた。
それはまたも食堂で、彼女等は食堂で騒ぎを起こすのが好きなのだろうかと遠くから眺める私は呑気にそんなことを考えていた。
けれど、次の矢吹彩の告げた言葉に私は戦慄した。
「あなたたちこそ、いい加減にしてください。私と彼等は好き同士。それのどこがいけないのですか。皆好きだから選べないのは、確かに少し可哀想ではありますが、それをあなたたちに因縁をつけられる謂れはないはずです。誰にも好きになってもらえなかったあなたたちには。私の想いを踏みにじるような真似、しないでください」
それならば、彼女たちの想いは踏みにじってもいいのだろうか。
凍る空気の中、黒髪の彼女は悔しそうに叫んだ。
「それなら、麗香の想いを踏みにじったあんたは、何なのよ………!」
彼女たちは、矢吹彩が美しいから、モテ囃されるから、自分たちに話しかけないから気に入らないのではなかった。
自分たちの想いを無駄なものだと、そう言われ続けているような行動に、腹が立ったのだ。
今まで冷静に見守ってきていた彼女たちは、もう我慢の限界だった。
ざわついていた野次馬のある一点から怒鳴る声がした。
公共の場で起こる時点で嫌な予感はしていた。
嫌な予感は当たり、二人を囲み始めた野次馬に割って入ってきたのは、渦中の4人だった。
「だあれ?僕の彩ちゃんを困らせてるのは?」
にこりと阿佐が笑う。
「よって集って、どうして誰も彩を助けようとしないのかな?」
うっそりと澤が微笑む。
「最近、彩からいじめられているって聞いたから気を付けてはいたが、ここまでとはな」
ぎらりと鷹が睨む。
そして。
「最低だな、あんたら」
畠くんが、怒った。
よりにもよって、貴方が、それを言うんだね。
野次馬から離れた私は、そっと目を伏せた。
「俺、彩が好きだって言ってくれるんなら、それが俺だけじゃなくてもいいって、そう思ってたんだ」
畠くんは唐突に、私の部屋でぽつりと呟いた。
学校から帰った私は明日提出の課題をするために机に向かっていたので、畠くんの方へ向き直ろうとすると、「そのままで聞いてくれ」と力なく告げられた。
「だけど、3人に向ける笑顔が自分よりも楽しそうに見えて、焦っていったんだ」
嫉妬なんて、畠くんでもするんだね。
いつもひょうきんな彼は、嫉妬等という煩わしいものとはかけ離れた存在だと思っていた。
手を止めて聞き入る私に気付かず畠くんは、「だから、言っちゃったんだよ」と笑った。
「俺だけを好きになってくれって。そうしたら、彩、途端に不機嫌になってさ。次の日から目も合わせてくれなくなったんだよ。あれには参ったな。ああ、なんて馬鹿なことしたんだろうって」
「うん、馬鹿だね」
つらつらと話していた畠くんを遮って、私は自分の考えを述べた。
だって、そうでしょう?
「一途な想いを無下にされて自分のことを馬鹿だって言ってる畠くんが」
私は振り返って畠くんを見た。
畠くんは目を見開いて驚いている様子だった。
私は固まっている畠くんの首根っこを掴み、有らん限りの大声で言った。
「自分の想いを否定されて自分を馬鹿だって言うんなら、今まで畠くんを本当に好きになってくれた子たちに、全力で土下座しろ!」
息を吐ききった私はもう一度、大きく息を吸った。
「君には、自分を否定する資格なんてない!」
そう言った私に、畠くんは目からぽろりと雫を溢した。
お風呂を済ませた私は、畠くんに背を向けるように布団に潜った。
あれからずっとだんまりだった畠くんに、私からも声をかけることが出来ずに、結局一言も言葉を交わしていない。
明日からどうしよう、と少しだけ不安になっていた私の背に、小さく声がかかった。
「ありがとな」
思わず口角を上げながら、「どういたしまして」とだけ返した。
私の意識が薄れる前、畠くんは呟いた。
「どうしてあんたは、俺が俺だって分かったんだ?」
さあ?なんでだろうね。
私は答えることなく、夢の中へと旅立っていった。
「え、ごめん。普通に男だと思ったわ」
ああ、懐かしい。
入学して間もない頃、髪を短くしすぎた私は中性的な顔立ちも相まって、よく男子と間違えられていた。
その時も、悪気はないのだろうが男みたいだと言われ、大丈夫よく間違えられるから、と笑っていた。
けれど、私の心はまた1つ、黒い塊が沈んだ。
男に間違われる度、私の中に黒い塊が蓄積していった。
もう忘れたかのように近くの友達と笑っている男子に声をかけたのが、畠くんだった。
「おい、あんたさ、謝り方おかしいんじゃない?あんたが女みたいだって言われてそんな謝り方したら、絶対怒るだろ?」
そう言って、畠くんは男子にきちんと謝らせていた。
いいよいいよと笑顔で答えていたら、畠くんは私にも注意してきた。
「あんたも。嫌ならもっと怒っていいと思うぞ」
そのまま颯爽と去っていった畠くんに、私は暫くの間唖然としていた。
我に返った私は、私の中にあった黒い塊が綺麗さっぱりなくなっていることに気付いた。
きっと、これが畠くんを目で追うきっかけだった。
目を覚ました私は、丸まっている畠くんに近づき、その頭を撫でた。
ぴくりと耳が動くが、起きる気配はない。
それを見て、やっぱり可愛いなあと思いながら、私は畠くんを見つめた。
人間に、戻らなければいいのに。
そうすれば、少しの間は一緒に居られるでしょう?
そんな醜い感情に鼻で笑いながら、私は畠くんを撫で続けていた。
彼等に嫌われることを恐れた彼女たちは、1人、また1人と矢吹彩に関わることをやめていった。
元の状態と変わらない、しかし、ギスギスした雰囲気が増した教室で私は気付いた。
麗香、と呼ばれた婚約者殿はどこへいったのだろうか?
休憩時間となればいそいそと婚約者の元へ来て、調理の授業があれば料理を持ってきて、昼になれば一緒に食べましょうと食堂へ連れていく姿が、なくなっていた。
私の疑問は、クラスメイトの返答によって解決された。
「麗香様?あの人も可哀想にね。婚約破棄されて、あまりのショックに転校していったって聞いたよ。鷹様のこと、本当に好きだったからねえ」
そう、ありがとう。
関わりの少ない私は、それだけを言って情報収集をやめた。
あまりに、彼女が可哀想だったから。
それでもやはり、彼等の心を動かすことが出来なかった彼女が。
そうして、その翌日、畠くんが休んだのだった。
学校へ着いた私たちは、担任の告げた言葉に冷や汗をかいていた。
「畠が、家にも戻っていないらしい。誰か畠の居場所を知っている生徒はいないか」
教室が、昨日の比ではないくらいにざわついた。
それはそうだ。確か、今日で4日目のはずだ。
親御さんが心配しないはずがない。
逆に今まで何も言われなかったのが不思議なくらいだ。
そう思っていた私は、下から聞こえた「よく人んちとか泊まってたから、それで気にしてなかったんだと思う」という声に納得した。
だが、流石に4日目ともなれば違和感に気が付かないはずがない。
時間がないようだ。早く人間に戻る方法を見つけなければ。
自分の気持ちに蓋をして、私は強く鞄の持ち手を握った。
ちらりと見た彼女の青ざめた顔を畠くんも見ているだろうに、畠くんは何も言わなかった。
生徒が溢れかえる昼間に出来ることはなく、生徒がほとんどいなくなった放課後に私たちは試行錯誤していた。
畠くんの頭を黒板消しで叩いてみたり、長い廊下を駆け抜けてみたり、教室の真ん中で二人でお経を唱えてみたりと学校で出来ることをしてみたのだが、畠くんは未だ猫のままだ。
勿論、猫と戯れるというのは何回も実証済みだ。逃げられる方が多かったが。
どうしようか、と二人で悩んだ結果、とりあえず全ての教室を回ってみることにした。
畠くんと並んで歩きながら、少し前から疑問だったことを聞いてみた。
「畠くんって、よく私のこと、あんたあんたって言うけど、私の名前覚えてる?」
「当たり前だろ?あんたの名前は畠山。後ろに座ってんだから、流石に知ってる。しかも名前近いし……ってあんた聞いてんのか?」
「ん?え、うん。聞いてるよ」
初めて自分の名前が呼ばれたことに自分でも気付かないうちに感動していたらしい。
にやける口元を抑えながら音楽室の前に来ると、中から話し声が聞こえた。
私と畠くんは無言で頷きあってくるりと踵を返し、次の教室へ向かおうとした。
しかし、「畠くんが」というやや高い聞き覚えのある声に私たちは足を止めた。
よくないとは思いつつも、気になった私たちは聞き耳をたてて扉の前に隠れるように座った。
「まさかちょっと無視したくらいで行方不明になるなんて、私、思わなくて」
「確かに、彩ちゃんに無視されるのは辛いけど、人様に迷惑かけることまでするなんてねー」
「人として常識がなっていないな。畠がそんなやつだとは」
「彩は気にしなくていいんだよ。全部畠が悪いんだから」
なんと、聞こえてきたのは畠くんの影口といっても過言ではない内容だった。
私は恐る恐る畠くんを見た。
澄ました顔をしているけれど、きっと心の中では嘆き悲しんでいるだろう。
私は畠くんを抱いてここから離れようと手を伸ばした。
けれど、次の言葉に私はその手をドアの取っ手にかけた。
「そうよね。畠くん、最近、ちょっと重いなって思ってたんだ。重い愛って人を変えちゃうのかもしれないね。不謹慎だけど、今畠くんがいなくてほっとしちゃった」
私は全力で一気に扉を開けた。
え、なに、という呟きを完全に無視して、私は言いたいことだけ吐き出した。
「あんたがいうな!好き同士だって言った、畠くんを独り占めした、あんたが言うんじゃない!どれだけの女子が、その言葉が欲しいって求めてたのか知らない癖に!」
「なあに、あんた。もしかして、畠くんのことが好きなの〜?」
阿佐にふざけるようにして問われたそれに、頭にキテいた私は、普段なら言わない本音で答えてしまっていた。
「そうだよ!好きだよ!紙みたいにつぶして笑う顔も、怒る時の真剣な顔も、授業中居眠りして先生にあてられた時のわたわたする姿も、真剣に机に落書きする姿も、シャーペンを耳にかけきれずに落としちゃう馬鹿っぽいところも、あなたを見つめる姿も、全部、全部、後ろから見てたんだから!」
グラウンドにいる彼女を見つめる優しい目をした横顔を、後ろから見ていた。
へえ、と感心していた気持ちが、いいなあと思い始めるのに、そう時間はかからなかった。
いいなあ、私も、あんな風に見つめられたい。
気付いた時には、とっくに畠くんのことで頭が一杯だった。
ああ、私、畠くんのことが好きだったんだなあ。
「ずっと、好きだったんだから!」
だから、畠くんに好きと言われたあなたは、そんなこと言わないで。
はー、はー、と荒く呼吸をする私の身体はふわりと何かに包まれた。
「はー、おい、気になり始めたやつにそんな情熱的な告白されて靡かない男がいたら、教えて欲しいもんだね」
私は、後ろから聞こえて来る声に、え、あ、は、と言葉にならない音を発する。
上から声が聞こえるって人間に戻ったの、いやそれよりも包まれてるって抱き締められて、てか待って気になり始めたやつってもしかして………と混乱している私を放っておいて、畠くんは彼女と3人に告げた。
「彩、ごめんな。本当に好きだったんだ。でも、今はこの通り、俺だけを想ってくれる彼女が出来たから、心配しなくていいぜ。これからは、良い友達でいような。お前らも、いい加減、目え覚ましたらどうだ?普通に考えて堂々と三股されてんだぜ?ま、個人の自由だけど。それじゃ」
私がパニックから解放された時には、家の前に立っていた。
どうやって帰ったのか、あれからどうなったのかなんてことより、私はやっぱり、畠くんのことばかり悶々と考えて眠りについた。
翌日、いつもより早く目が覚めた私は少しだけ早めに支度を終えた。
昨日のことを聞かなければと気合いを入れて玄関を開けると、そこには頭を悩ませる張本人、畠くんがいた。
畠くんは、固まる私に、行こうぜ、と手を引っ張った。
無言で歩く私に、畠くんは昨日のことを話した。
「何かさ、昨日のあんたの告白聞いて、人間に戻りて〜って思ってたらいつの間にか戻ってたんだよ」
そうなんだ。
「あれからあんた、何呼び掛けても答えないから、抱えて家まで送ってったんだぜ?」
それはすみませんでしたね。重かったでしょうに。
「まあ、そっからが大変だったけどな。家には警察いるし、親には怒られるし、学校へ電話したら担任にどやされるし、散々だった」
それはそれは御愁傷様でした。
棒読みで返す私に何のその、つらつらと喋っていた畠くんは、「って、あ、俺、そう言えば言ってなかったな」と言って足を止めた。
そして、私の目の前に来ると、ふわりと笑った。
「あんたが俺のために怒ってくれたの、すっごく嬉しかった。失恋したばっかのやつの言葉なんて信じられないかもしれないけど、俺、あの時、畠山のこと好きだって思ったんだ。どうか、俺の彼女になってほしい」
さっきまで、そんなことどうでもいいよ昨日の気になるやつとか彼女とかの方が気になって仕方ないんだけどあれってどうゆうことなの私は期待していいのいやもしかして友達としてとかそんなオチとかじゃないよねいや流石にそれは。と話半分にそんなことを思っていた私が馬鹿みたいだ。
私は泣きたくなるのを抑えて、無理矢理笑った。
「はい、喜んで」
答えた瞬間、畠くんが目と鼻の先にいて、唇に何か当たってるって思った時には、ちゅっとリップ音を鳴らして畠くんが離れていっているところだった。
いつの間にか学校に来ていたみたいで、周りから凄い叫び声が聞こえる気がする。
口をぽかんとあけた私に畠くんは顔を赤らめつつも、腹をかかえて笑った。
やっぱり、彼は猫だ。
私を気紛れに振り回して、捕まえようとした私の手の中をするするとすり抜けていく。
「畠くん!」
私は顔に熱が集まるのを感じながら、逃げる畠くんを追いかけた。
もうあるはずのない尻尾が、嬉しそうに揺れた気がした。