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君の為に

作者:篠崎春菜
部屋で本を読んでいて、息が白くなる。
そんな時間だ。



「もうすぐクリスマスだね」と直子が言った。十一月を終えて一週間、一日一回は聞いているように思うその言葉に「そうだな」と返しながら、俺は視線を上げることなく文字列を追う。そんな様子にももう慣れたのか、寒い寒いと言いながらコタツの電源をコンセントに繋ぎ、いそいそと足を突っ込んできた彼女の視線は、何をするでもなくじっと俺を見ている。
結局沈黙に耐えきれず、肩までコタツ布団を引き上げている彼女に俺から話しかけてしまうのだ。

「隙間から空気が入って寒い」
「えー、電源もつけてなかったくせにー」
「つけてなくても空気入らなければましなんだよ」

「仕方ないなあ」とぶつぶつ言いながコタツ布団を戻した彼女は、それでもまだじっと俺を見る。直子は大切な話をするときは相手をじっと見るのが癖だった。どうしてそうも真っ直ぐに相手を見られるのかと自分と正反対の妹を見ていつも俺は思ったが、彼女に言えば「ひーくんは都合悪い時目合わせないよねー」と言われて撃沈だ。俺が彼女のその視線が苦手だと知っていてやっているのだからやめるはずもないのだし、口で勝てるわけもないのに何か言えばこちらが不利になるのもよくわかっていた。

「ねぇ、ひーくん」
「何」
「今年も駄目なの?」

 いつも元気な妹が妙に心細げな声で言う。それだけで俺は言葉に詰まってしまう。何も答えない俺に「そっかー……」と残念な気持ちを隠しもせずに言うものだから、俺はそれにも弱ってしまうのだ。

「……もう家にピアノないだろ。お前もそろそろ諦めろよ」
「やーだよーだ」

 コタツに頭を預け、唇を尖らせて、全身で拗ねているよと表現する妹は今年で中学二年。彼女が小学三年生の頃に俺がピアノを弾かなくなってから、毎年毎年十二月には同じやり取りをし、珍しく直子が惨敗している。最近はしつこさも薄れ、喧嘩という喧嘩にもならなくなってきているが、初めの年は酷かった。

『ひーくんの馬鹿ー!!』

 子供の高い声で叫びながら俺に掴みかかり髪を引っ張って大暴れした小さな怪獣を今でも思い出せる。
 初めの頃は本気で怒られていたものだが、直子も徐々に納得したのか一向に首を縦に振らない俺に呆れてきたのか、最近はそういうこともなくなった。ただ、一年置きに「ねぇ、ひーくん、今年も駄目なの?」と切なそうに聞かれるのみである。正直言ってそちらの方が俺にはダメージがでかいのだが、怒ってくれと言うのもおかしな話だ。何も答えず静かに黙って彼女の声を受け流すように務めている。

「なーんで弾いてくれないかなあ……」

 ポツリと直子が言った。俺が目を瞑って寝たふりをすると彼女は小さくため息を付き、俺のベッドから毛布を引っ張って来て俺の肩にかけると静かに自室に戻って行った。



 ピアノを弾かなくなった理由は直子も知っている。
 彼女が小学三年生で、俺が小学六年生の時だった。俺が通っていピアノ教室の先生が、「弘樹くんが一番上手だから、一度皆で聞いてみましょうか」と言った。プライドというのは子供にもあるもので、俺は次の日、同じピアノ教室で同じ学校に通っていた同級生に、階段から突き落とされたのだ俺の背中を押した生徒が、あまりの衝撃に動けなくなった俺に向かって「生意気なんだよ!」と叫んだのを覚えている。冬の学校の冷たい廊下に顔をつっくけて、慌てて駆け寄ってくる先生や他の生徒達の声を聴きながら、俺がピアノを弾くのを喜んでくれていた直子のことを思い出していた。
 家へ帰ってきた直子が俺の手を見て泣き出したのを、俺は今でも鮮明に覚えている。

 落とされたことは怖かった。咄嗟に前に出た手が折れたことも痛かったしもう二度としたくないとは思う。だがそれがトラウマになっているとか、そういうことではないのだ。俺の手を見て泣いた直子と、数日後に迫っていた彼女の誕生日に、彼女が弾いてほしいと言っていた曲を弾いてやれないことの方が俺には大問題だった。
 楽しみにしていた誕生日に、『今年はひーくんのピアノ聴けないね』と心底残念そうに言った彼女の顔があまりにも悲しかったから、その時の俺は『来年こそは』と思うより先に『もうピアノなんか弾きたくない』と思ってしまった。全部をピアノのせいにした。今思えば、落とした奴が一番悪い。それでもなんでも、弾かせてくれない自分の手と、ピアノが悪いんだとその時は思った。

 その時の感情を、情けないことに今も引きずっている。



 町は辺り一面クリスマス一色になっていた。二十四日、クリスマスイブ。そして、直子の誕生日。予約していたケーキを受け取って戻ってくると、玄関にはまだ両親の靴がなかった。十九時には帰れるから! と朝仕事に行った両親は、本当にその時間まで帰ってこないだろう。十八時まで友達との約束があると出かけていった直子の靴だけがあった。
 時刻は十八時五分。本当にちゃんと帰ってきたんだなあと思いながら靴を脱ぎ、家へ上がると、ポーンとピアノの音がした。“ド”の音だ、と俺は思った。
 この家にピアノはない。俺がもう弾きたくないと言った日から、ピアノを見て顔を歪めるようになった五年前の今日から、この家にピアノはないはずだ。

 俺は思わず顔を上げた。静かに二階に上がると、もう一度ポーンと、今度は“レ”の音がした。二階には、俺と直子の部屋がある。当然ながら俺の部屋にピアノはない。寒がりな直子の部屋の扉は少しの隙間も空いていなかったが、ピアノの音は響いて簡単に外に出てしまっていた。今度は“ミ”の音がする。しばらく扉の前でじっとしていた。
 “シ”の音がして、ついに俺が耐えられなくなった。ノックもせずに扉を開けて、最後に“ド”を鳴らしたばかりの直子が驚いたように振り返ったのを見ると、目頭が熱くなったのがわかった。

「ひーくん……」

 泣きそうな顔で俺を見る妹の向こう。何度も何度も鍵盤を叩き、音を聞いて歌う直子と囲んだピアノがそこにある。

「……まだあったのか」
「……ごめんね。捨てるって聞いたから、貰ったの」

 申し訳なさそうに消え入りそうな声で言う直子が当時とダブる。泣かないでほしかった。元気な直子がしおらしいと調子が狂うのだ。
 俺は自分が手を握り締めているのに気付き、ハッとした。グーパーグーパーと動かしてみて、直子に向き直る。真っ直ぐに直子を見つめる俺とは対照的に、今度は直子が視線を逸らしていた。ああ、やっぱ兄妹なんだなあと思うと、なぜか笑えた。

「どいてみな」
「……え?」

 今まで何を引きずっていたんだろう。目を合わせなかったから、こんなに必要とされていたのにも気付けずにいられたのだと今は心底思う。ピアノの前に座り深呼吸をした。鍵盤に軽く手を置けば懐かしい感触が指先に広がる。

「久しぶりなんだから、期待すんなよな」

 目を真ん丸に開いて驚き、それから頬を綻ばせた彼女が幼い頃のようにピアノに駆け寄った。「何弾いてくれるの?」と近頃で一番嬉しそうな声に苦笑しながら、「聴けばわかるよ」と一言。
 一音目を弾ませれば不思議なほどに指が覚えていた。五年前嫌ってくらい聴いて、嫌ってくらい楽譜を見て、嫌ってくらいに弾いた曲は、感覚にしっかり刻まれている。
 隣で直子の歌声がした。『ひーくんのピアノ好きなんだもん』と言いながらピアノの周りで踊っていた彼女は、まだ俺のピアノを俺よりも鮮明に覚えていて、あの頃のように歌っていた。

 弾き終わり、歌い終わり、「疲れたー」と息を吐くと、暖かい部屋の中で直子が笑う。

「今まで聴けなかったぶん、いっぱい弾いてね」

 そんなふうに笑うから、過去に引きずられていた自分があまりに馬鹿馬鹿しくて、悔しいから「気が向いたらな」と意地悪を行った。

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