六章(2)
「うわー、腐ってんなぁオイ」
思わずリーファが声を上げるほど、シンハは見るからに滅入った様子をしていた。
表情は冴えないし、気怠そうで、椅子に腰掛けている姿勢もだらしがない。周囲にどんより雨雲が垂れこめ、茸でも生えてきそうな有様だ。いつもの姿からは想像もつかない。
リーファの無遠慮な台詞にも、シンハはため息をついただけで言い返さなかった。さすがにリーファも申し訳なくなり、曖昧に小首を傾げる。
「なんか、本当に具合悪そうだな。大丈夫かい?」
「一気に百年歳を取った気分だ」シンハが呻く。
「そりゃ死んでるよ」
思わずリーファは口を滑らせる。ロトが失笑し、シンハは机に突っ伏した。
「……別に、太陽神の加護がなくても死にはせんさ。慣れれば人並に生きてはいける、と大神官が保証してくれた」
「人並に、ねえ……とにかく、無理するなよ。気晴らしになるかと思って、進展を報告しに来たんだけど、聞くかい?」
リーファが言うと、シンハはむくりと顔を上げ、やっと姿勢を正した。
「おまえ一人でミルテと話せたのか」
「えっ……いや、違うよ、まさか!」
リーファは激しく首を振った。途端にシンハはまた、「なんだ」とぐったりする。どうやら、彼女が一人でも大丈夫となったら、さっさと『呪い』を解いてしまいたいらしい。
「ごめん。そっちの件は進展なかったんだけどさ、あのリネン屋のことでちょっと」
かくかくしかじかで、と事情を説明する。シンハとロトは揃って微妙な顔つきでそれを聞いていたが、次第に前者は何やら企む風情に、後者は嫌そうなしかめっ面に変わっていく。あ、しまった、とリーファは少しばかり後悔したが、今さら話を打ち切るわけにもいかない。馬を借りる許可も要る。
「……ってわけで、ティエシ村まで行くのに、城の馬を使わせて欲しいんだけど」
リーファがそう話を締め括った時には、聞き手二人の表情は見事なまでにくっきりと、明暗に別れていた。
「そうか、ならマウロに頼んで残雪を出して貰え。装具はなるべく古いもので、身元がばれにくいようにしろよ」
「分かった。クロに乗りたいけど、あいつじゃでかくて目立つもんな」
「……陛下」ロトの陰気な声が挟まる。
「それと雪踏みにも、鞍を着けさせておいてくれ」
「あ、やっぱり」
苦笑するリーファ。『雪踏み』は、シンハのお気に入りの馬だ。四肢の先が白い鹿毛で、頭と気立ての良い牝馬である。「陛下」とロトが剣呑に唸ったので、リーファとシンハは揃って振り向き、形ばかり申し訳なさそうに手を合わせた。
「ごめんロト。でもほら、一応許可貰わなきゃいけなかったわけだし……」
「どうせこのざまじゃ、部屋にこもって書類仕事程度しか出来ないんだ。だったら、おまえでも充分代理を頼めるだろう?」
「こいつもここで腐ってるよりは、外の空気を吸わせてやった方が、少しは具合も良くなるんじゃないかなー、とか」
「大袈裟な変装を考えなくても、この外見なら、王都の外に出てしまえば俺だと見破られる心配はほとんどないしな」
口々に矢継ぎ早の言い訳を羅列され、ロトのこめかみがぴくぴく痙攣した。二人は賢明にも口をつぐみ、身を寄せ合って噴火に備える。
戦々恐々と待ち受けることしばし。
結局、ロトはなんとか爆発を抑え、代わりに深い深いため息を吐いた。
「……仕方ありませんね。ですが、どうか安全にはくれぐれもお気を付けて。いつもと同じつもりでいないように、用心なさって下さい。危険な兆候があれば、四の五の言わずにとっとと逃げるんですよ。いざとなったら迷わず指輪を外して、太陽神におすがりして下さい。身分がばれようが恥ずかしい噂が立とうが、命には代えられませんからね」
いささか過保護じみた注意に、シンハは苦笑して「分かった」と応じる。リーファはその手にある見慣れない指輪に気付き、
「指輪を外せ、って、これかい?」
傍に寄ってしげしげと眺めた。細かい金細工の指輪だが、あまり目立たないようにわざと汚してあるようだ。その複雑なデザインからして、何らかの魔術具であることは容易に想像がついた。
「ああ。これが『呪い』の鍵になっているんだ。外せばすぐにいつもの通りに戻る。神殿に行って呪いを解いて貰う余裕がない場合もあるだろうと、大神官が気を利かせてくれたんだ」
「行動を読まれてるってわけだ」
「……そうとも言う」
間抜けなシンハの答えに、仏頂面だったロトが失笑した。
「やれやれ全く、どうしようもありませんね。リー、シンハ様のことを頼むよ。よく見張っておいてくれるかな」
「了解」
リーファはおどけて敬礼すると、「じゃ、先に厩で待ってるよ」と走りだした。
厩は居館から見て右手、城門から見ると左手にある。マウロというのは馬丁頭で、そろそろ五十に手の届く独り者の男だ。馬が女房子供の代わりで、かれこれ三十年は城勤めをしていた。
彼が馬丁頭になってから、新しく入った馬は妙な名前ばかりつけられている。国王ご贔屓の雪踏みなどは良い方である。黒馬だからクロだとか、新品の銅鍋のように赤っぽい栗毛だからナベだとか。今回リーが用意してもらう残雪も、名だけ聞けば結構だが、実は「泥混じりの残雪のような粕毛だから」という理由なのである。
そんな風変わりな男ではあるが、リーファのことは、城に来た当初から不思議と気に入っているようだった。馬が合ったのだろう。
「あ、いたいた。おっちゃーん」
リーファが手を振ると、一頭の馬にブラシをかけていたマウロが顔を上げ、嬉しそうに手を振り返した。
「おう、久しぶりだな、煤坊主。元気にしとったか?」
「お陰さんで。おっちゃんも元気そうだね。これから雪踏みと残雪を出したいんだけど、いいかな?」
「ははぁ」マウロはにやりとした。「また陛下がお出かけなさるかね。そんじゃ、鞍は古いのを出さにゃなんねえな。俺が雪踏みを捕まえるから、おまえさん、残雪を頼むわ」
マウロは言うと、ブラシを馬丁の一人に渡し、無口頭絡を取って牧場の方へ向かった。リーファも後からついていく。
無事に二頭に引き綱をつけると、厩へ戻して頭絡を轡のあるものに取り替え、丁寧にブラシをかけて鞍を載せる。リーファはここに来るまで、当然ながらまともに馬に乗った経験はなかったが、生来動物と相性が良いのか、言葉を覚えるよりも早く馬の世話に習熟したほどだった。
用意が整ったところで、外套のフードを目深に被った怪しい人物がやってきた。咄嗟にリーファは唇を噛み、笑いの発作を抑え込む。マウロが警戒し、厳しい顔で前に出た。
「マウロ、俺だ」
先にシンハが声をかけなければ、面倒な事態になっていたかも知れない。城に勤めて長いマウロも、今の状態のシンハに接するのは初めてなのだ。聞き慣れた声に驚き、胡散臭げにフードの下を窺おうと背を屈める。
「本当にシンハ様で?」
「本人だよ」リーファが苦笑しながら請け合った。「ちょっとわけがあってね、今だけ、ただの人になっちまってるんだ。だから、言いたい事があるならいい機会だよ」
「こら待て」
慌ててシンハが遮る。おや、とリーファは意地の悪い笑みを浮かべた。
「何か文句言われる自覚はあるわけだ?」
「う……。おまえな、人が弱ってる時に、嬉々としてそれを吹聴する奴があるか」
「ごめん、ごめん。つい面白くてさ」
いつもの調子のやりとりに、マウロもようやくほっとした様子で警戒を解く。
「いやどうも、こりゃ気が付きませんで……それで、今日はどちらまで?」
「ティエシまで行くだけだ。日暮れには、ここに馬を戻せるようにする」
心配するな、とシンハが苦笑した。マウロにとっては馬が第一、国王だろうが皇帝だろうが、ひょっとしたら神であろうとも、彼の最重要人物にはなり得ないのである。
「へえ、さようでございますか。雪踏み、陛下によっく気をつけて差し上げるんだぞ」
マウロはロトと似たようなことを言い、雪踏みの首をぱたぱたと叩く。シンハは複雑な顔で、フードの下からリーファに視線をよこした。
「……そんなに頼りないか?」
「オレはもう慣れたけど、最初はやっぱり、かなりびっくりしたね。ま、たまにはいたわられる側ってのもいいんじゃないの? 心配しなくても、オレが守ってやっからさ」
自分で言って、堪え切れず盛大にふきだす。シンハがため息をつき、リーファは笑いながらその背を叩いた。
マウロは二人に手綱を渡すと、お気をつけて、と送り出した。そのまま門から出るかと思いきや、シンハは牧場や菜園のある方に歩いて行く。面食らったリーファも、すぐに、未知の抜け道か何かがあるに違いないと察し、黙ってわくわくと付いて行った。
やがて二人は、家畜小屋や植木の間に埋もれるようにひっそりと佇む、小さな通用門に辿り着いた。城壁に這う蔦が周囲を取り囲み、知らなければ見付けられないほどの有様である。
鍵を取り出したシンハの後ろから、リーファは不安げに覗き込んだ。錠は外せても、扉そのものが錆付いて動かないのではなかろうか。
「なんでこんなとこに門があるんだ? しかも見張りとか何もなしに」
「今は使われていないからな。鍵は俺が持っているだけだし、何年か前にセレムに頼んで魔術の封印も施して貰った。よこしまな意図を持つ者は通れない」
「脱走はそうじゃねえって辺りが図々しいよな」
「うるさい」
ごちゃごちゃ言い合う内に扉が開き、急な丘の斜面を下りる小道が現れた。消えかけてはいるが、かつてはまともな道だった証に、石畳の一部が残っている。
首を傾げてもの問いたげな顔をしたリーファに、シンハは門をくぐりながら説明してくれた。
「この丘にあったのは元々、キープと小さな居館だけで、それを城壁が囲んでいた。つまり、非常時に逃げ込む場所でしかなかったんだ。ここに住むのは領主だけで、人々は丘のふもとに集落を作っていた。そら」
指差す先を見下ろすと、なるほど、細い小道が下っていった先に、つましい家々が肩を寄せ合っている。
「今の位置に街を造ることを決めるまでは、この道の方がよく使われていたんだ。ともあれ……この道に沿って行けば、じきに街道と合流する。ティエシはその先だ」
「はいよ、っと」
リーファはうなずくと、残雪の背にまたがった。シンハが門に施錠するのを待ち、二人は轡を並べて斜面を下って行った。