五章
五章
「こっこっ、こわ、怖くないぞぉ」
小声で呟きながら、リーファはびくびく周囲を見回していた。
ざわ、と風に木々が唸る。見上げると、雲の間から月が覗いていた。ホーゥ、と遠くでフクロウの声。
リーファは夜空を仰いだまま、耳を澄ませて辺りの気配を探った。
夜の闇そのものは、怖くない。それはむしろ、リーファにとっては有り難い隠れ家だった。言葉と拳の暴力をふるう大人たちもいない、蔑みと嫌悪の眼差しに射られることもない。とても自由な、自分だけの世界――ただし、あの世からのお客さんと出くわす時には、不自由でもほかの人間にいて欲しかった。
「出るなよ、まだ出るなよ」
ぶつぶつ。口の中で呪文のように繰り返し、微かな足音のした方を振り向く。ほとんど気配を感じさせずに、誰かが近付いていた。
「シンハか?」
「すまん、遅くなった」
ささやきで応じ、シンハは小さなため息をついた。
「ロトの奴が渋ってな。置いてくるのに手間取った」
「大事な国王陛下だもんなぁ」
リーファはにやにやしてからかったが、シンハは乗ってこなかった。代わりに、事務的な口調で問う。
「どうだ。出そうか?」
「ばっ、馬鹿! 不用意なこと言うな、人が出るな出るなって念じてるのに!」
「出てくれないと困るんだが」
「言うなっつってんだこの鈍牛!」
じたばたするリーファを尻目に、シンハは梯子を登り、小さな出入口の鍵を外した。ガタガタと閂を外す音がして、壁にぽかりと黒い穴が開く。リーファは渋々後から登り、中に入った。
キープの中は暗く、寂寥とした空気が漂っていた。明かりはシンハの持参した角灯ひとつ。そのかぼそい光に、室内の樽や木箱がぼんやりと浮かび上がっている。
「ここ、まだ使ってるんだ?」
「貯蔵庫としては、な」シンハが毛布を広げながら答えた。「実際にここに立て篭もることはまずないだろうが、備えを怠ってくたばるのは癪だ」
「癪だとかいう問題か?」
リーファは苦笑し、毛布の上にシンハと並んで座る。麦の袋が枕代わりになった。
「でもさ、備えったって、ここに貯めておける程度じゃ、王都の住民全員の食糧には到底足りないと思うけど」
「ああ……ここの物資は民のための物じゃない」
シンハの台詞に、リーファは自分の耳を疑った。他の王や貴族ならともかく、よりによってこの男の口からそんな言葉を聞こうとは。
思わずまじまじと相手を見つめる。と、シンハは冷めた表情でわずかに肩を竦めた。
「凶作に備えての備蓄は、他の倉庫がある。ここは最悪の事態に備えているんだ。……民が王を見限った時のために。あるいは、ここに立て篭もれる人数だけしか守れないような事態が生じた時のために」
「……なんか、厳しいな、それ。あんまり考えたくないや」
リーファは言って、ごそごそと横たわる。居館で寝起きし、街で暮らす普段の生活では、そんな殺伐とした出来事があり得ることなど、ちらとも考えない。非常事態を常に警戒していたら、神経が参ってしまうだろう。
だが、意識から消しても現実は消えない。いつ、どこで、何が起こっても、不思議はないのだという事実は。
それを、忘れたくても忘れられないのが、王や貴族といった立場の者なのだろう。中には都合良く忘れている者もいるようだが。
「城というのは、元々そうした性質の建物だからな。宮殿とは違う」
シンハが口調を和らげ、苦笑まじりに言った。
「おもしろ可笑しく暮らすためだけに、城を建てる奴はいない。何かと戦い、生き抜くための拠点として建てるんだ。まぁもちろん、平和が続けば頭のぼけた王や金持ちが、趣味で城を建てることもあるがな。ここは違う。本物の城だ」
その声には、実用として建てられたこの城に対する、誇りと愛着がにじんでいた。リーファは口元をほころばせ、ふと訪れた安堵に身を任せて目を瞑った。
そうだ、この城なら安心だ。
脅威から護ってくれる城だから。その事を忘れない人がいるから……。
やがてリーファが静かな寝息を立て始めると、シンハはフッと角灯の火を吹き消した。出るかどうかも分からない幽霊を、一晩中起きて待つこともない。用があるなら、昨夜のようにリーファが起こされる筈だ――当人にしては迷惑な話だろうが。
シンハはかすかな月光に浮かび上がるリーファの輪郭を見やり、微苦笑してから、静かに横になった。
ぴとん。
水音がして、湿った空気が鼻をくすぐった。リーファはまだ目を閉じたまま、意識だけ半分覚醒する。
(うわ……なんか、『出た』っぽい……)
この気配。冷気と湿気、独特の存在感。それでも落ち着いていられるのは、隣にシンハがいるおかげだろうか。
(起きなきゃ駄目かな。狸寝入りしてたら、見逃してくんねえかな)
それとも、余計にまずい事態になるだろうか。
そろっと薄目を開けて様子を窺う。視界の端に白い影が揺れた。
(あれ……?)
オレの所に出たんじゃないのか、と訝る。体を動かさず、片目だけもう少し開けてみると、そこにいるのは間違いなくあの少女の幽霊だった。ただし、今はシンハの方に近寄り、その傍らにふわりと座ると、まるで口付けしようとするかのように身を屈めて――
「うわああぁぁぁ!!」
自分でも驚くほどの声が出た。と同時にリーファは手を伸ばし、シンハを思い切り揺さぶる。少女の霊は身を退いたが、消えたり遠ざかったりはしなかった。
「起きろこの馬鹿! 油断しすぎだぞ、寝こけやがって!」
怒鳴りながら、リーファは無意識にシンハを背後に庇っていた。当のシンハは危機感のかけらもなく、大欠伸などしている。
「なんだ、勇敢じゃないか。おまえ一人でも大丈夫だったな」
「寝呆けるなぁ! 起きたんならさっさとオレを助けろぉ!」
声は裏返り、もはや何を言っているのか支離滅裂である。シンハは苦笑して立ち上がると、少女の霊に一歩近付いた。
相変わらず、少女は青白い顔で血を滴らせていた。ぴとん、ぱたん。ぱたた……っ、と、雨垂れのような音が思い出したように響く。
リーファはたじろぎ、後ずさって麦の袋に抱きついた。
「…………」
少女は無言で、リーファの方に手を差し伸べる。白い指にもべったりと血がついており、ぽとりぽとりと滴が落ちている。
『聞こえるか?』
シンハが静かにささやいた。サジク語だ。ぴく、と少女が身じろぎし、ゆらりと向きを変えて、彼の方に血塗れの両手を伸ばした。リーファはがくがく震えながら、瞬きもせずその様子を見つめる。
幽霊が何をする気かなど、分からない。だが、あの手で触れられると何か良くないことが起こりそうで、止めなければと気ばかり焦った。足が立たず、歯の根も合わないというのに。
危険が分かっているのかいないのか、シンハは半透明の手を避けようともせず、言った。
『よく聞け。もう痛みはない。傷もない。苦しみも、悲しみもない』
一言一言、ゆっくりとシンハが語りかける。言葉そのものが力を持っているかのように、少女の体についていた血が薄れ、消えていく。虚ろだった表情が、眠りから覚めるように生気を取り戻し、青白かった頬にうっすらと赤みまでさしてきた。
少女は伸ばしていた手を目の前に引き戻し、しげしげと眺めた。
『……きれい』
ぽつり、と呟きがこぼれる。血は完全に消えており、今まで隠されていた薄桃色の丸い爪、傷ひとつないなめらかな指が、ぼんやりと仄かな光を放っていた。
『あたし……あたしは……』
呆然と少女は宙を見つめる。暗闇の中で、その姿が次第にくっきりと明瞭になっていく。リーファはいつの間にか、恐れを忘れて見入っていた。
そのまましばらく少女はぼうっとしていたが、ふと、何かに呼ばれたように目をしばたたき、シンハを見上げた。
『あなたが、王子様?』
ずざ、と音がしたのは、リーファがひっくり返ったせいだ。当のシンハは目をしばたたき、微苦笑を浮かべる。
『生憎、王子だったのはかなり昔の話だ』
『でも……あたし……父さんは……』
少女は記憶を辿るようにうつむいた。その間にリーファはなんとか立ち直り、恐る恐る近付いて、シンハの後ろに隠れた。
「なんだよ、その子、おまえに会いに来たんじゃないか」
「馬鹿。俺がまともに『王子』だったのは一年足らずの期間だし、どっちにしろ今の俺の姿を見て『王子』だと言うなら、それは俺のことじゃない」
「あ、そうか。じゃ、弟の方かな?」
二人がひそひそと小声で会話する間、少女はじっと考え込んでいた。が、やおら顔を上げ、『そうよ』とはっきりした声で言った。
『どうしてあたしが死ぬの? あたしを殺したのは誰なの。父さんは大丈夫って言ったわ、心配ないって、上手く行くって。なのにどうして? あたしまだ、美味しいお菓子も食べてないし、都見物もしてない。王子様も見てない。どうして? ねえ、どうして? どうしてよどうしてどうしてどうしてドウシテ』
次第に早口になり、声も甲高くなっていく。空気がピリピリ震えた。リーファは身を竦ませ、シンハにしがみつく。
『知りたいか?』
シンハの声が空気を変えた。少女は我に返り、はっと視線を戻す。
『それが知りたいから、言葉の分かるリーの前に現れたんだな?』
『あたし……よく、分からない。でも……その人なら、大丈夫と思ったから』
おずおずと少女がリーファを見る。
『助けてくれると、思ったの。だって、同じだもの。カリーアの人だもの』
やっぱり。シンハとリーファは顔を見合わせ、ひとつ納得してうなずいた。
シンハは懐から小さなお守りを取り出すと、少女の方に差し出した。一見、可愛らしいペンダントに思えるようなデザインだ。
『これを持っているといい。痛みや苦しみを遠ざけてくれる』
「なんでそんなもん持ってんだよ」即座に突っ込んだのはもちろんリーファだ。「いやそれより、持ってろったって幽霊が持てるわけ……」
ないだろ、と言うことは出来なかった。シンハの手からお守りがふわりと浮き上がり、少女の首にかかったのだ。
リーファがぽかんと口を開けて絶句している前で、少女は嬉しそうに、はにかんだ笑みを浮かべてお守りを触った。
『きれい。ありがとう』
『礼には及ばん』
短く応じたシンハだったが、その顔は優しい笑みを浮かべていた。リーファは何とはなしに面白くなく、ごほんと咳払いする。
「おまえ、ガキには親切だよな」
抑えきれずに棘が出た。ちくりと刺されたシンハは、おや、とばかりに振り返り、皮肉っぽく笑いながら、リーファの頭をぐしゃぐしゃにかき回した。
「でっかいガキにも親切にして欲しいか?」
「やめろ! オレは十八だぞ、ガキじゃねーや」
自分の子供っぽさを自覚した後なだけに、からかわれると怒り三割恥七割。リーファは乱暴にシンハの手を振り払った。
そのまま膨れっ面でそっぽを向いたものの、シンハのくすくす笑いが耳を煩わせる。何か反撃しようとリーファが振り返ったと同時に、
『……父さん』
少女の小さなつぶやきが、空気を震わせた。気を削がれ、リーファは少女を見る。黒い双眸から、ぽろぽろと涙がこぼれていた。
『父さん、どこに行っちゃったの。あたし置いてかれちゃったのかなぁ。家の中、真っ暗だったもの。皆、どこに行ったのかな。どうして迎えに来てくれないのかなぁ』
(うわ……)
まずい。これはまずい。リーファはたじろぎ、うろたえた。子供に泣かれるのは苦手だ。特に、こんな風にしくしくと泣かれるのは。しかもこの場合、頭を撫でてやることもできない。何しろ相手は幽霊だし、もし触れたとしても触りたくないのだ。
困っているリーファに代わり、シンハがさり気なく身の上話を聞き出しにかかった。
『父親と一緒だったのか?』
『うん、そうよ。父さんと一緒に、馬車で来たの……』
ぽつぽつと、少女は生前の記憶を語り出した。
名前はミルテ。カリーアでよく見られる、白い小さな花の名と同じだという。
歳は十二。物心ついた頃には、既に隊商生活をしており、最初はカリーアと中部の諸都市を往復していたらしい。だが、いつ頃からかカリーアに戻らなくなり、今度は東へと移動を始めた。母親は、気が付いたらいなくなっていた。
何を商っていたのかは覚えていないし、商売のことはろくに教わらなかった。読み書き算術と簡単な裁縫、それに各地で仕入れた物語だけが、ミルテの『勉強』だった(お嬢さんだったんだな、とリーファはささやいた)。
父親が何の目的でシエナまで来たのかは知らない。商売だ、と言っていたように思う。何かいい話があったのだろう、しばらく上機嫌だった。物語で読んだような、華やかな暮らし、美味しい食べ物にきれいな服、広いお屋敷、それがみんな手に入る、と。
『王子様や王女様にも会えるよ、って。ううん、ミルテはお姫様になるんだよ、って。そう言ってたのよ、本当にそう言ってたの』
鼻をくすんくすんと鳴らし、『なのに』と言ったきりミルテは黙ってしまった。
話し疲れたのか、それとも泣き疲れたのか。そのまま眠るように、ミルテの影は薄れ、闇に溶け込んでしまった。
「あ、おい」
思わずリーファは手を伸ばす。だが、引き止めるには至らなかった。そうしたいのかどうかも、確信が持てなかったのだが。
じきにわずかな気配さえも完全に消え、夜風のささやきだけが残った。
「消えちまった……けど」
いいのか、とシンハを振り返る。幽霊の放つ光がなくなって、仄かな月光だけでは姿もよく見えない。
「ああ、また気力が戻ったら出てくるさ。お守りを持って行っただろう?」
声だけの返事。リーファは床を見回し、そういえばペンダントが落ちる音はしなかったな、と納得した。
「じゃあ、少なくとも今夜はもう出ねえかな」
「多分な」
シンハは眠そうに応じた。リーファも堪え切れずに大欠伸をする。
「とりあえず、寝るか……あふ」
ごそごそと手探りで毛布のある場所に戻り、ごろんとひっくり返る。近くでシンハも横になったのが分かった。
「しっかし、なんか物騒だよなぁ。お姫様になれる、だって?」
半分眠りかけながら、ぶつぶつぼやく。旨い話には裏がある。それが世の常識だ。ミルテの父親は何を当て込んでいたのか、誰を相手に商売をするつもりだったのか。きな臭いことこの上ない。
「どこから調べたもんかな」
むにゃ、とつぶやくと、もう眠ったと思っていたシンハから返事があった。
「まずミルテがいつの時代に生きていたのかを聞き出さんと、どうにもならん」
「ああ、そっか……」
「だから、続きはまた明日だ」
「りょうかーい」
間延びした返事を最後に、リーファはことんと眠りの中に落ちていった。