四章
四章
すぅっ……
空気が動く。風と言うほどでもない、涼しいそよぎがうなじを撫でる。
「う……ん」
もぞ、とリーファは身じろぎし、薄布団を引っ張り上げた。初夏とは言え、石造りの城の夜はまだまだ冷える。
心地良い温もりに顎まで埋まり、優しいまどろみの中に引っ込み……かけたところで、また冷気を感じ、リーファは渋々と薄目を開けた。
もう一枚、毛布を出さなければならないだろうか。
ぼんやりと寝呆けた頭でそんな事を考える。しかし、そうするなら一度ベッドから出なければならない。完全に目が覚めてしまうだろう。なんとかこのまま、寝直してしまえないだろうか。
眠い。だが寒い。成すべきか成さぬべきか。
うむむ、と悩んでいるところへ、あまり嬉しくない助言が入った。
『起きて……』
やっぱり起きなきゃ駄目か、とリーファはため息をついた。あーあ、と諦め顔になってもぞもぞと動きだし――
「っ!?」
いきなり我に返ると、弾かれたように飛び起きて、勢いでベッドから転がり落ちた。
声が出ない。金魚のように口をぱくぱくさせ、リーファはぶざまに尻餅をついたまま、壁際へ後ずさった。
いる。白い半透明の人影が、宙に浮いている!
「ぎっ」
ぎゃあ、と悲鳴を上げたいのだが、喉がこわばって動かない。目は漂う人影に釘付けになっていた。
それは間違いなく、昨夜見たあの少女だった。スカートからはまだ血が滴っている。ベッドの上に点々と赤い染みが落ち、花畑を描いていく。
『たす……けて……』
かぼそい声で懇願し、少女はこちらにゆっくり手を伸ばしてきた。
「ひっ」
そこまでが限界だった。
リーファは声にならない悲鳴を上げ、すさまじい勢いで部屋を飛び出していた。衝立てを蹴飛ばして、隣で眠る養父の上に倒してしまったことも、まったく気付かない。
逃げる先はもちろん、国王の部屋だった。抜け道を使う余裕もなく、暗い廊下を裸足で走り抜けていく。
王の私室には、当然ながら鍵がかかっていた。いつもなら、道具さえあればちょちょいと開けてしまえるリーファも、今この時にそんな余裕はない。顔をひきつらせ、必死でドアを叩く。
振り返ると、廊下の向こうで白い影が揺れた。
「――っ!!」
ドンドンドンドン。嵐のようにドアを殴りつける。
一瞬前まで遠くにいたはずの少女が、背後にふわりと現れた。首から背骨に、凍り付くような悪寒が走る。少女の手が肩にかかるのを感じた、刹那。
「きぁ……!」
甲高い悲鳴を上げ、少女はその場から消し飛んだ。同時にガチャリと開錠する音がして、ドアの隙間からシンハが迷惑そうな顔を覗かせた。
リーファは相手に何か言う暇を与えず、室内に体をねじ込んだ。即座にドアを閉め、震える手で鍵をかけようとする。だが、霊の息吹で凍り付いてしまったのか、指が思うように動かない。
泣きだしそうになったところで、シンハの手がリーファの手を包み、鍵を回した。大きな手の温もりと、静かなカチリという音に、ようやっとリーファは安堵の息をつく。
と同時に、誰かの足音が部屋の前へ駆け付けた。
「陛下、ご無事ですか?」
当直の近衛兵だ。さすがに物音を聞き付けたらしい。シンハは「大事無い」とそれを下がらせると、リーファをソファに座らせた。
「また出たのか?」
穏やかな声が耳に心地良い。リーファは無言でうなずき、改めて深いため息をついた。腕をさすって温め、ドアの方を見やる。幽霊を警戒してではなく、立ち去った近衛兵のことを考えての仕草だった。
「ごめん、これじゃ、きっと、変な噂になる、よな」
「城に出て来られたんじゃ、仕方ないさ。おまえの他にも目撃者が出れば、夜中にこの部屋に誰かが逃げ込んだところで、妙な憶測をする奴はいないだろう」
シンハは言うと、リーファにガウンをかけてやる。それから横に並んで座ると、慰めるようにぽんと頭に手を置いた。
「しかし、厄介なことになったな。城に出たからには、おまえについて来たんだろう。同じ西方人だからかも知れんな」
考えたくないことを指摘され、リーファはしかめっ面になった。が、自分でも問題は分かっているので、憮然としながら同意する。
「参ったなぁ……四六時中、おまえにへばりついてるわけにもいかねーし」
「それは俺も困る」
シンハは苦笑してから、ふと気付いて問うた。
「またサジク語だったか?」
「え? あ、うん……多分。助けて、って言ったと思う」
「助けてやれば、出なくなるんじゃないか」
「冗談じゃない!」即座にリーファはぶんぶん首を振った。「もう死んでるんだぞ、どうやって助けるんだよ!? 血塗れで痛い痛いって言われたって、死んでるんだからどうしようもないじゃないか! 薬も効かないし包帯も巻けないし、仮に出来たとしてもオレは嫌だからな、近寄りたくない!」
すさまじい剣幕に、シンハはやれやれと天を仰ぐ。
「だが、どうにかせんことには俺も安眠出来ん」
「もう昇天したんじゃねえの? おまえがドアを開けた途端、消し飛んだみたいだけど」
「いいや。大神官の話では、俺はその手の存在を寄せ付けない力はあるが、片っ端から消して回ってるわけじゃないらしい。ただなんとなく漂っているような『もの』は、抵抗なく浄化されていくが、意識的にこの世に残っている連中は駄目だ。聖水や儀式で祓ってやらない限りは昇天しない」
しかもそれだって、霊にしてみれば力技であの世へ投げ飛ばされるようなものだから、執着の強いものは必死で抵抗するのだ。あまりお互いのためにはならない。自発的に旅立ってもらうのが一番良いのである。
……というような事を説明され、リーファは何とも複雑な顔になった。彼女にとって幽霊とは、依然、関り合わぬに越したことはない、神に呪われた罪深きものなのだ。しばし渋面で唸った挙句、口にしたのは
「でも、オレは嫌だ」
子供の駄々のような一言だった。
シンハは無理強いせず、また、ぽんとひとつ頭を撫でた。
「分かった、大神官に相談して来る」
言って彼は立ち上がり、枕元に置いてあった黒い鞘の長剣を取ってきた。
「それまで、これをお守り代わりに持っていろ。この部屋にいれば恐らく出て来ないだろうが、万一のためだ」
「これ……伝家の宝刀だろ? いいのかよ、オレみたいな盗人に預けて」
思わず言ったリーファに、シンハは堪え切れず笑いだした。リーファもつられて苦笑し、鞘に刻印された太陽の紋章をそっと指でなぞった。初めて出会った時も、シンハはこの剣を佩いていたのだ。束の間、懐かしい気分に耽る。
リーファが顔を上げた時には、シンハはもう外出用の服に着替えていた。さすがは脱走王、身仕度が早い。
「今から行くのか?」
何もこんな深夜に、とリーファが呆れる。シンハは無造作にうなずいた。
「あまり人に見られたくないからな。行きがけにロトを呼んでおくから、来たら入れてやってくれ」
言うだけ言い、なぜ、という問いを受け付けずに隠し通路へと消える。リーファは剣を抱いたまま、所在なく茫然とするしかなかった。
ややあって、控えめなノックが二回。
「リー、いるかい?」
ささやき声はロトのものだ。リーファは剣をしっかり握ったまま、ドアに忍び寄った。まさかとは思うが、幽霊が罠にかけようとしているかも知れない、と警戒したのだ。
だが幸い、それは本物のロトだった。ドアの隙間から、決死の表情のリーファを見て笑い、おどけて両手を上げる。
リーファは彼を入らせてから鍵をかけ直し、シンハに訊き損なった質問を投げた。
「なんでシンハはあんたを呼んだんだ?」
「え?……まぁ、万一の用心、かな」
ロトは一瞬答えに詰まり、目を逸らして曖昧な返事をする。眉を寄せたリーファに、ロトはごまかし笑いを見せた。
「さぁ、君はもう寝た方がいい。見張り番は僕がしているから」
さぁさぁ、とベッドに追いやられ、リーファは納得行かないまま、むっつりと国王陛下の羽根布団に潜り込んだ。
しばらくして、布団がゆっくり規則正しく上下し始めると、ロトはほっと安堵の息をついた。
万が一。そう、万が一、この部屋に件の幽霊が出たら。
その時は、リーファの代わりに、わずかながらサジク語の分かるロトが話を聞いてやるように――と、そう頼まれていたのだ。霊を追い払ったり退治したりするため、ではなく。
(リーが聞いたら、怒るだろうからなぁ。人を餌にする気か、とかなんとか)
そんなつもりはないのだけれど。
ロトはリーファの寝顔をちらりと盗み見ると、苦笑をこぼしたのだった。
翌朝になっても、国王陛下はお戻りにならなかった。
午前中は気にしていなかったリーファも、昼を過ぎ、午後のお茶の時間になる頃には、さすがに不安になってそわそわし始めた。
脱走の口実に使われただけなんじゃなかろうか、という疑惑が胸を掠める。だとしたら、いやまさか、しかし、だとしたら。
(ロトに怒られる……っ!)
ひい、とリーファは頭を抱えた。ただでさえ今回の件では迷惑をかけているのに、その上、脱走の隙を与えてしまったとなれば、その怒りや如何に。直接リーファを責めることはないだろうが、国王ご帰還の際は雷の二、三発が落ちるだろうし、なにより、また胃に穴を空けられでもしたら申し訳なくていたたまれない。
(頼むよ、早く帰って来てくれよ)
リーファは祈るような気持ちで、国王の私室を覗きに行った。部屋は午前中に女中が掃除を済ませ、今はすっきりきれいな状態で、主人の帰りを待っている筈。だが。
「……!?」
ドアの隙間からそろっと首を突っ込んだリーファは、ぎょっ、と目を剥いた。
中には人がいたのだ。しかし、その後ろ姿は鮮やかな金髪。
「誰だッ!」
言いざま、室内に飛び込む。手は預かった剣の柄を握り、いつでも抜ける構えを取っていた。
(こいつ、いったいどこから入ったんだ? 誰にも咎められずに、一人でこんな所まで忍び込むなんて……いや、一人で出来るわけがない)
仲間がいるに違いない。そう考えたリーファは室内の隅々に神経を向けた。そのせいで相手のため息を聞き逃し、振り向いた顔を見た瞬間、あまりの驚きにあんぐり口を開け、剣を足の上に落としてしまった。
「あっ痛ぅ!」
思わず足を抱え、ぴょん、と飛び跳ねる。それを見て相手が浮かべた温かい苦笑は、間違いなくシンハ本人のものだった。だが、目はあの夏草色ではなく、深い海の青。それに、どことなく全体に違和感が漂っている。
「……シンハ?」
リーファは不安と疑いのまなざしを向ける。穏やかにこちらを見返す目は、それなりに美しい色ではあったが、見る者に畏怖の念を抱かせる力はまったくない。
「いったい……何があったんだ?」
驚きが去ると、泣きたくなるほどの心細さがひたひたと打ち寄せてきた。リーファはふらふらシンハに近寄り、その腕を掴む。
よく見ると、服も出て行った時と同じだ。後ろ姿でも、シンハだと気付くか、あるいは少なくとも、よく似ていると思って当然だったのに、なぜ別人だと断定したのか。
――それは、あまりにも気配が違っていたからだ。
リーファは既にすっかり慣れていたが、シンハには周囲を圧する独特の存在感があった。そのため、どこにいてもすぐに彼を見付けられるほどだった。なのに、今はそれがない。いつものシンハに比べると、目の前にいるのは、まるで死人のようだ。
「そんな顔をするな」
シンハが苦笑し、リーファを捕えかけていた絶望がふっと消える。リーファが手を離すと、シンハは少し疲れた様子で、崩れるようにソファに腰を下ろした。
「すまんが、ドアを閉めておいてくれ。あまりこの姿を人に見られたくない」
「あ……うん」
リーファは慌ててドアを閉めると、またすぐにシンハのそばに駆け戻った。
「それ、どうしたんだ?」
「こっちの方が、本来の俺だよ」
シンハは皮肉っぽい笑みを浮かべ、珍しいものでも見るように、自分の髪を一房つまんで眺めた。
「ただ、太陽神の力が強すぎて、容姿が変わってしまうんだ。太陽神本人に似るらしい。一度、心底本気で神を呪った時に、初めて分かったんだがな。自分がそれまで意識してさえいなかった力を根こそぎ取り上げられて、死ぬかと思った」
「じゃあ、今は……」
「大神官に頼んで、一時的に加護が弱まるようにして貰った。いわば、自主的に呪われたようなもんだ。おかげですこぶる調子が悪い」
おどけて言い、シンハは肩を竦める。リーファは「なんでそんな事」とうろたえた。少し考えたら分かりそうなものだが、すっかり取り乱してしまって頭が働かなかったのだ。
「こうしておけば、幽霊を吹っ飛ばさずに、まともに相手が出来るからな」
「ええっ!? ちょっ……待てよ、その状態じゃ無茶だよ!」
「心配するな、悪影響を受けない程度の力は残してある。これでも普通の人間よりはずっと、太陽神の加護が強いんだ。おまえも俺のすぐそばにいれば安全だ。今回は、お前は特に何もしなくていい。相手が出てきたら、俺がお前の代わりに話をする」
「だけど……」
渋るリーファに、シンハはやや強い口調になって言った。
「いつまでも逃げ回るな。目を逸らしても、『見る』力は消えてなくなりはしないぞ。おまえ一人で対処しろとは言わない、だがいつでもすぐに助けられるとは限らないんだ」
「…………」
返す言葉もなく、リーファはしゅんとうなだれた。と、シンハがその手を取り、引き寄せる。前屈みになったリーファの額に、シンハはこつんと自分の額をぶつけた。
「おまえ一人でも、ひとまずその場をしのげるようになれば、俺も少しは安心出来る」
「……うん。分かった」
リーファは小さな声で言い、目を瞑る。
(そうだ、甘えていいからって、いつの間にか頼りっきりになってた。これじゃ駄目だ)
他の事では、甘えるまいと自尊心を奮い立たせているのに、こと幽霊となるとすっかり子供になっていた。もう子供ではない、少しでもシンハの役に立ちたいと、そう願っていた筈なのに。
(やっぱり……まだまだガキなんだなぁ、オレ)
ちぇっ、と内心で舌打ちする。本当に子供だった頃は、甘えることなど許されなかったから、考えることも出来なかったから。だから今、こんな風に許されて、少したがを緩めすぎたかも知れない。
(頑張ろう)
うん、と決意して、目を開く。間近で見つめる碧い瞳は、別人のようでありながら、やはり底にはいつもの優しさがあった。リーファは何やら急に照れ臭くなり、逃げるように一歩離れると、少々わざとらしくシンハをじろじろ観察した。
「しっかし、なんか変な感じだなぁ。偽物臭いや」
「失敬な奴だな」
シンハが苦笑いする。その顔を見て、リーファは思わず「へぇ」と小さくつぶやいた。何だ、とシンハが問うように眉を上げる。だがリーファは答えず、何でもない、と慌てて首を振った。
一瞬、彼の顔立ちが先王と似て見えたのだ。リーファは先王とはあまり顔を合わせる機会がないが、これまでに何度か言葉を交わしてさえいる。だが今までは、その人がシンハの親なのだとは、実感したことがなかった。
(違うのは見た目だけじゃねえもんな)
髪や目の色だけではない。身にまとう気配があまりに違いすぎて、そもそもシンハに親がいることさえ、忘れていたほどだ。
そのせいで、彼はいろいろと苦労をしたらしい。今、似てるよ、などと言ったところで、慰めになどなるまい。
リーファはその感想を胸にしまい、明るい口調を装って、まったく別のことを言った。
「で、具体的に何をどうするんだい? 一緒に夜のお散歩でもするのかな」
「それがいいだろうな」シンハもあっさりうなずいた。「セスをこの部屋に避難させて、俺がセスのベッドを借りるという手もあるが、衝立ての下敷きにされるのは御免だからな。夜中に騒いで城の全員を叩き起こすと、後が怖いし」
「悪かったな」
揶揄されて、リーファはむすっと膨れた。養父のアラクセスは体があまり丈夫でないので、昨夜の狼藉に少々痛手を負ったのである。
「んじゃ、どこにする? 言っとくけど、あのリネン商店の近所は建て込んでっから、夜中に外でごちゃごちゃ話してたら、水ぶっかけられるぜ」
「と言って、あまり関係のない場所に行けば、向こうがおまえを見失うかも知れん」
ふむ、とシンハが考え込む。リーファとしてはもちろん、見失ってくれても一向に構わないのだが、さすがにそれは黙っておいた。
じきにシンハが、「そうだ」と顔を上げた。
「キープに行こう。城の敷地内だし、少々騒いでも文句は言われないさ」
「えぇー」
リーファは露骨に嫌そうな声を出した。
「あそこかよー。出入りの面倒くせー塔だろ? しかも年代物。別の何かが出そうで嫌なんだけどなぁ」
シエナ城の城壁内にある建造物は、通常の生活に使われている居館だけではない。礼拝堂と図書館と鍛冶屋と厩、それにキープがある。
このキープというのは、そもそもは最後の最後に立て籠るための塔である。シエナ城のそれは四隅に小塔を配した直方体の二階建て基部に、八角形の三階部分が載った形だが、ご多分に漏れず一階に井戸があり、出入口は二階にしかない。梯子でしか出入り出来ないのだ。
元々シエナはレズリアの東の辺境だったので、この城も防衛の為、キープと、申し訳程度の居館があるだけだった。それが、領土が広がり、安全になり、人が増えるにつれて増改築が進められ、ついに王都の地位をものにするに至ったのである。
そんなわけだから、今リーファたちが生活している居館よりも、キープは遥かに古い歴史をもっている。しかも数多の戦を経験した塔である。『出る』か、と言われれば、まぁ出るだろう、と答えるのが妥当な建物だ。
が、オバケ屋敷も生まれた時からお隣さんであれば、慣れてしまうものである。そうでなくともそこらじゅう探険しまくる腕白小僧だったシンハが、リーファのぼやきをまともに取り合うはずもなかった。
「だったら尚のこと、いい練習になるだろう。夕食後に出て来いよ」
まるきり気遣って貰えなかったリーファは、低く唸ってから、せめてもの仕返しに、嫌味っぽい口調でねっちりと答えた。
「御意に、国王陛下」