しなやかに伸びやかに
リーファが16歳、レズリアに来てまだ間もない頃の話。神殿修練生一人称。
神々に仕える決意をして大神殿を訪ね、まずは修練生になることを認められたのは、良かったのだけれど。
時々、大神殿などと高望みしないで、家の近くの神殿にお願いすれば良かった、と後悔してしまう。だって、とにかく広いんだもの!
修練生の間は、色々な下働きをすることになっている。掃除や洗濯、神殿菜園の草むしりから、厨房での皿洗い、あれこれあれこれ。
神殿の暮らし全体を把握すると同時に、自分に向いている方面を見つけるために、必要な過程なのだと聞かされた。机にかじりついて神々の教えをただ覚えるだけが、神々に仕える唯一の道ではないのです、と。
それはもちろん、解るのだけど。
「はぁ……」
つい、ため息をこぼした。広い礼拝堂で、神々の像に囲まれて這いつくばり、床石を一枚一枚磨いていると、時々気が滅入ってしまう。
一般の参拝者も入ってこない今こそ、ひとり心静かに、神々に向かい合う良い機会ではあるのだけど……
コトンッ
……え?
いやだ、ネズミかしら。でも、そんな……
「きゃあ!?」
いつの間に!
知らない男の子が礼拝堂の奥で、ああ、なんてこと! 祭壇に座って、お供え物の果物を……あああああ。
「ちょ、ちょっとあなた! 何やってるの!? そこから降りなさい!」
動転している場合じゃなかった。と、とにかくここは、きちんとしなければ!
すっくと立ち上がり、雑巾を握り締めて、精一杯厳しい声で叱りつける。聞こえなかったはずはないのに、男の子はきょとんとした顔で私を見るだけ。まるで気にした風もなく、梨を丸ごとシャリシャリかじり続けている。
どうしよう。厚かましい悪戯っ子だとばかり思ったけど、もしかして違うのかしら。
……どこか、悪いのかしら。耳が聞こえないとか、言うことがちゃんと解らないとか。
それとも、まさか……人ではない、とか?
だってあんな濃い色の髪、見た事がない。国王陛下は太陽神のご加護で真っ黒な髪をしておいでだと聞くけれど、この子も……黒くはないけど、この辺りでは見ない色だわ。
でも、でも、まさか。
用心しながらゆっくり近付く。逃げる様子はないけれど、少し身構えたかしら。ということは、やっぱりただの近所の子よね?
「降りなさい」
もう一回、今度はゆっくり静かに言ってみた。けど、やっぱり効果なし。小首を傾げて、何を勘違いしたのか、後ろにひょいと手をやって梨をもうひとつ取った。そして、私の方にずいと突き出して。
「~~・~・~・・?」
な、なに?
何て言ったのか、分からなかった。知らない言葉? でも、言いたいことは分かる。私にも、食べるか、って訊いたのよね、これは。
「食べません」
しかめっ面で首を振る。通じたみたい。男の子は肩を竦めて、梨を元の場所に戻した。
……きっと、同い年ぐらいよね。でも、すごく痩せてる。ちゃんと食べてないのかしら。おなかが空いているのよね。
それなら……これは生命神サーラス様へのお供え物だし、サーラス様なら、梨のひとつぐらい、きっとお許しくださるでしょう。
けれども、祭壇に座るのはいけないわ。
「ねえ、とりあえず、そこから降りて。祭壇は神様への捧げものを供える場所なの、人が座っては駄目」
身振り手振りを交えて、なんとか通じるまで繰り返す。ようやく男の子は、祭壇から降りてぺたんと床に座った。何がどうしていけないのか、さっぱり分からないという顔をしていたけれど。
「はあ……」
どうしたものかしら、これは。誰か、神官の方を呼ぶべきなんでしょうけど……その間に、どこかへ出て行ってしまうわね。それか、お供え物を片っ端から食べてしまって、厳しく罰せられるかもしれないし。
「あなた、名前は? どこから来たの?」
通じないのは承知で、訊いてみる。と、
「ナマエ?」
男の子は繰り返した。あ、良かった、少しは言葉を知っているんだわ!
「そうよ、あなたの名前。家はどこ?」
よく見たら、痩せてるけど服はちゃんとしたものだし、王都のどこかに家があるのかも。思わず身を乗り出して答えを待つ。男の子はにこっと笑った。
「ワタシ・ナマエ、りーふぁ、イイマス」
……リーファ? なんだか、女の子みたいな名前なんだけど、まさか……
「リー!」
きゃ!? び、びっくりした!
突然、誰かが大声で呼んだ。振り返ると、男の人が駆け込んでくるところだった。あれは、まさか……
「よー、シンハ!」
「!!??」
えええええええ!!??
ちょ、ちょっと待って、どうしてこの子がそんな、王様の名前をそんな親しげに!? え、まさか、本当に人ではなくて神様の化身だとかそういう……
「何やってるんだおまえ、こんな……あ、おい、まさか!」
陛下? なのかしら? 男の人がやって来て、床に胡坐をかいているリーファの前で、天を仰いだ。それから、知らない言葉であれこれ話しだす。リーファは怒られている自覚がないのか、ふんふんと感心したように聞いているだけ。
しばらくお説教した後で、陛下(?)がリーファの腕を取って立たせた。そして、ようやく私の方をご覧になった。
――ああ、やっぱりこの方は国王陛下だ。
鮮やかな緑の瞳に見つめられて、反射的に私はうつむき、ひざまずいていた。畏れ多い、気高い力を感じる。
「すまんな、邪魔をした」
「いいえ、とんでもないことでございます」
陛下が謝罪など、なさる理由はないのに。この子が一体何なのか、私にはわからないけれど。陛下がお連れになったのなら、どうして咎められるかしら。
すると、頭上からため息が降ってきた。
「ほら、リー。おまえも謝れ。まったく、俺がちゃんと食わせてないみたいだろうが」
ぐいと頭を押し下げられて、リーファが何か抗議した。なんだか親子みたい。
思わず失笑してしまい、私は恐る恐る顔を上げる。と、笑顔のリーファと目が合った。
「ゴメンナサイ!」
元気良く謝って、リーファは陛下の手を払いのけ、走り出す。
「あ、待て! くそ、なんで俺が……」
ぼやきを残して、陛下も大慌てで追いかけていく。
私はしばらく、自分の見聞きしたものが信じられなくて、ただぽかんと立ち尽くしていた。
それが、陛下が西方で拾ってきた元盗人の少女だとか、事情を聞かされたのは後日のこと。
それであんな髪の色をして、知らない言葉を話していたのね、と納得した。聖十神のことも知らず、祭壇が何なのかも知らないから、ああして平気で腰かけたり、お供え物を食べてしまったり。
……けれど、それでも。
それでもあの子は、まるで罰せられることもなく、恐れに縮こまることもなく、平気で陛下と話していた。まるで対等の相手みたいに。
それはやっぱり、あの子が特別だというしるしなのじゃないかしら。
そんな風に感じられて、もう一度会いたい、会って確かめたいと思っていたのに……それきり長い間、リーファは神殿に現れなかった。
「……あ」
思わず、声が漏れた。
臙脂色の制服、三つ編みにした焦茶色の髪。振り向いた顔には、あの日の面影があったけれど、体つきは随分変わっていた。もう男の子に間違えることはないだろう。
「お久しぶりですね、リーファさん」
挨拶をした私に、彼女はちょっと戸惑った様子を見せた。
「ええと……前にお会いしましたか?」
「はい。覚えてらっしゃらないかも知れませんけど、二年ぐらい前です。あなたが神殿に忍び込んで、お供え物の梨を……」
「あっ!!」
思い出した、と彼女は声を上げた。そして、照れ臭そうな苦笑を広げる。
「あ~~……その節はドーモ、大変ご迷惑をおかけしまして」
忘れてて欲しかったなー、なんて、おどけた口調で言いつつ頭を掻く。私もつられて笑ってしまった。
「あれはとても印象深い出来事でしたもの。とても忘れられません」
「あはは……んじゃオレも、体裁取り繕っても無駄かぁ。いやぁ、ホントごめんな。あの頃は全然、なんにも知らなかったもんだからさ」
「仕方がありませんよ。でも、あれから一度も来られませんでしたね? よほど厳しく叱られたのですか」
「いや、そういうわけじゃねえけど。ただ、んー……色々説明されたんだけどさ、やっぱりオレにはイマイチこっちの神様ってのがピンと来なくて。下手に近寄ったらまた面倒くさいことになりそうだし、それで避けてたんだ。でも入隊試験の時に、セレムがミュティア女神の祭礼を見せてくれてさ。それに、この前はレア大神官にもちょっと世話んなったし……たまにはお参りしとこうかな、って」
悪いことをしているわけではないのに、まるで言い訳のように理由を並べて、恥ずかしそうに目をそらす。ああもう、この人は。
笑みが広がるのを、止められなかった。
「あなたは、本当に……神々の愛児なのですね」
この二年の間に、私も様々なことを学んだ。神々の御心は、私たち人間の思惑では、到底はかれないものだということ。決まった約束事を守り、供物や礼拝を欠かさずにいることと、信仰そのものとは、必ずしも同じではないということ。
そして、神々の名前も教えも知らず、神殿の戸を叩くことが生涯なくとも、生き方を通じて神々を求め、喜ばせ、そして愛される人が存在するということ――。
「神々の、マナゴ?」
リーファが不思議そうに繰り返す。あの日、彼女が特別だと感じられたのは、まさにそういう事だったのだろう。
「ええ。あなたは特別に、神々に愛されておいでだということです。正直に言って、あなたに初めて会った時、少し不愉快でした。神々の祭壇に腰かけて、供物を盗み食いして、何の罪悪感も持っていないんですから。でも、そういうことではないのだと、最近ようやく分かったんです。神々が愛されるのは、ただひたすら従順に恐れ畏まっている者ではなく、日々の過ごし方を通じて神々を喜ばせることの出来る者……つまり、あなたのような人なんですよ、リーファさん」
確信を込めて、はっきりと言い切る。私だって、修練生とは言っても神官の端くれ。そのぐらいは分かるつもりだ。さすがに彼女も、そろそろ自覚しても良いはず。
――と、思ったのに。
「ぶっ、まさかぁ!」
あろうことか、軽く一蹴されてしまった。
目を丸くした私の前で、彼女は心底可笑しそうにけらけら笑っている。
ひ、ひどい! あまりにも無礼だわ、神々の恩寵を笑い飛ばすなんて!!
「いや、レア大神官も似たようなこと言ってたけどさ、そんなわけねえじゃん? 神様が愛してるのは、まず何たってあんた達の方だろ」
「……!!」
「神殿に来るとか来ないとか関係なく、あんたらが『神様!』ってお願いする時はこっちの神様だろ。お祈りしたり、お祭りしたり、こんな風にお供え物をしたり……生まれた時から、一緒に生きてきてるわけじゃん。特別愛されてないはず、ねえって。おかしなこと言うよなぁ」
「…………」
言葉が、出なかった。
ああ、神々よ。私は何を見失っていたのでしょう?
この人に、神々のことを笑い飛ばして平気な人に、こんな風に言われるまで、神々の恩寵を忘れていたなんて。
知らず、目が潤んでいた。リーファが気付いて、心配そうに私の顔を覗きこむ。
「あれ、えっと……ごめん、オレ悪いこと言ったかな。大丈夫かい?」
「はい」
こくん、と小さくうなずく。苦笑がこぼれた。
「私、修行が足りませんね。あなたには負けました」
「?? よく分かんねーけど……」
「いいんです。こちらの事ですから、気になさらないで。それより、今日はどの神様にお参りを?」
「あ、うん、それはもう済ませたから。本当に何ともないのかい?」
「はい。おかげで、気持ちを新たにする事が出来ました。ありがとうございます」
負け惜しみかもしれない。でも、強がりではない。本当に、心からそう思う。この人のおかげで、私はまた、神々に新たな気持ちで向き合うことが出来そうだ。
私の顔を見て、リーファはちょっと微笑んだ。
「そっか。んじゃ……あ、これ美味そう」
「え? あっ、リーファさん! 駄目ですよ、それは!!」
「カタいこと言うなって。一個だけだよ。ご馳走様~!」
「駄目ですってば!」
止めようとしたけれど、とても間に合わなかった。彼女はひょいっと手を伸ばして、近くの祭壇から李をひとつ失敬し、そのまま私の手を振り切って走り去ってしまった。
あああ、不覚!!
走って追いかけたけれど、礼拝堂の外に出た時にはもう、彼女の姿はすっかり小さくなっていた。楽しそうに、得意げに、ぽーんぽーんと李を投げ上げては受け止めている。
「くっ……!」
反して私ときたら、これだけの距離でもう、息が上がっている有様。
「しゅ……修行が、足りませんわ……!」
次は負けるものですか!
決意をこめて、膝についた手を拳に握る。
私も、彼女のような強さを身につけたい。しなやかに、伸びやかに、無理をせずとも神々の御心を喜ばせられる、そんな強さを。
とは言え、とりあえず当面は……
「少し……運動、しないと」
はああぁぁぁぁ。
大きく息をついて、ようやく立ち直る。
あらためて深呼吸した空気は、いつもより清々しく爽やかに、胸の奥まで沁みていった。
(終)




