占有空間
『智慧~』の後、同年内の話です。愛の頭突き劇場。
うららかな昼食時、場所は行きつけの酒場。
客の入りはほどほど、顔なじみばかりが楽しげに飲み食いしている。その様子は一見、誰もがすっかりくつろいでいるように思われるのだが、しかし、この酒場の常態を知っている者であれば、漂う空気の微妙な違いに気付くだろう。
行儀の良さ、とでも言おうか。酔ってはいてもハメを外す者はなく、品のない冗談を飛ばすにしても常よりは小声。ちょっとした言葉から口論になりかけ、大声を上げた直後、我に返って照れ臭そうに和解する者もいる。
「いやぁ、おまえが来るとうちも和むねぇ」
亭主のオートスが皿を拭きながら、くっくっと喉の奥で笑った。カウンター席に座っている男が、エール片手に訝しむ顔をする。その前に料理の皿を置き、給仕の娘が笑った。
「本当、陛下がおいでになると仕事が楽でいいわ。誰もお尻を触ったりしないもの」
軽く揶揄する口調で言いながら、娘は店内の客を見回す。身に覚えのある何人かが首を竦め、しらばっくれて明後日の方を向いた。
この空気の原因である男、すなわち国王シンハは、夏草色の目をしばたたき、何とも言えない表情で皿のハムにフォークを突き刺した。
「この店でぐらい、昔の身分に戻りたいんだがな」
丸いパンを割ると、小麦の香ばしさが湯気と一緒にふんわりたちのぼる。料理もエールも、他の客と同じものだ。素材も調理方法もありきたりだが、安くて美味くて飽きが来ない。亭主の良心をあらわすかのように。
「戻るも何も、おまえはガキ大将の頃から何も変わっちゃいないよ」
オートスが愉快げに笑い、シンハも皮肉っぽい笑みを浮かべて言い返した。
「おまえもな。特に、こと食い意地に関しては」
「ふん。美味いメシを出せなくて酒場の亭主がつとまるかってんだ」
鼻を鳴らしはしたものの、オートスの手は正直に、中年らしく出っ張りはじめた腹を気にしている。
シンハがにやりとしたところで、カロン、とドアのベルが音を立てた。
「いらっしゃい」
オートスが反射的に主の声で客を迎え、給仕の娘も「いらっしゃいませ」と愛想良くそれに和する。答えたのは、少しかすれ気味だが溌剌とした若い女の声だった。
「よ、お邪魔……って、あれ? また脱走してんのかよ」
言われてシンハも振り向き、おや、という顔をする。警備隊の制服を着たままのリーファが、いつもの大股歩きでやってきて、隣にどさりと腰を下ろした。
「美味そうなもん食ってんなぁ。オレにも同じの頼むよ」
注文しながら、手はもう早速シンハの皿からパンの切れ端をつまんでいる。
「こら、勝手に取るな」
「いいじゃん、腹ぺこなんだよ。後で返すからさ」
たしなめられても一向気にかける様子がない。リーファはもぐもぐ口を動かし続けた。オートスが笑いを堪えて肩を震わせながら、料理を用意する。
「あんたはシンハがいても変わらんね」
首を振り振りつぶやいたオートスに、リーファは目をぱちくりさせた。ハムを一切れ口にほうり込んで、「何が?」と問う。横でシンハが緑の目を天に向けたが、もちろん彼女は見ていない。
「うちみたいな酒場でもな、国王陛下がおいであそばすと、皆多少は緊張するのさ」
オートスは言い、小声で「お行儀いいだろ?」とささやきながら視線で店内を指す。リーファはそれを追って客たちに目を走らせ、ふうん、とうなずいた。
「そう言やそうだね。でも仕方ないんじゃないかい? いくらお忍びったって、こいつ、図体でかくて目立つんだからさ。店に居座られちゃ否応なく目に入るし、気にするなって方が無理だよ」
あっけらかんと失敬なことを言われ、シンハが渋面になる。
「俺はいったいどんな巨人だ? 図体がでかいとは言うがな、実際のところ身長はセレムの方がずっと高いし、横幅ならこいつの方がでかいんだぞ」
こいつ、と指さしたのはもちろん、カウンター向こうの亭主である。オートスは唸り声で抗議し、塩壷を投げるふりをした。リーファはちょっと笑ってから真面目に応じる。
「実際どうかって言うよりもさ、なんていうか……『気分的に』? でかいように思えるんだよ。そりゃおまえは現実にはさ、こうして一人分の場所におさまってるわけだけど、おまえがいるだけで部屋全体がいっぱいになってるような……違うや、ええと」
適当な表現を探し、リーファは口ごもった。普段は何の支障もなく意志の疎通が出来ているから、本人もまわりも失念しているが、彼女にとってエファーン語はまだ、使いこなせない言語なのだ。困っているリーファの前に、オートスが皿を置いて言った。
「ほい、お待ちどう。言いたいことは大体わかるよ。うちの隊長さんは昔っから、いるだけでその場の空気を支配する力があったからな」
かつての幼なじみで部下でもあるオートスは、シンハに含みのある視線を向ける。複雑な顔になったシンハをよそに、リーファは「そうそう」と嬉しそうにうなずいた。
「そういう感じ。なんて言うんだっけ、そういうの」
「一言でいうなら、存在感がある、ってところかな」
ふむ、とオートスが考えながら言うと、リーファは「それだ」と手を打った。そして、シンハに向き直って、途切れた説明をやっとこさ締めくくる。
「だからさ、しょうがないんだよ。存在が邪魔なんだ」
…………。
しばし時間が止まった。それからオートスが盛大に噴き出し、会話を聞いていた店内の客たちは笑うに笑えず、顔を引きつらせた。シンハはカウンターに突っ伏しそうになった上体を強いて立て直し、
「『感』を省くな、『感』を!」
半ばやけくそ気味に抗議するや、リーファの皿からぶ厚いハムの一切れを奪い取る。
「あっ、何すんだよ、取りすぎだぞ!」
慌ててリーファが取り返そうとしたが、シンハは素早く、ほとんど丸飲みで片付けてしまった。
「うるさい。不敬罪で没収!」
「ひっでー! ちょっとした言葉の間違いじゃねえか! ちょっ、待てこら、オレの昼飯だぞ! 返せ、このっ」
皿を行き来するハムや野菜を追いかけて、フォークがガチャガチャ騒ぎ立てる。残る片手はエールのマグを奪い合い、しまいには頭突きが炸裂した。
呆気に取られてその様を見ていた客たちが、とうとう堪えきれなくなって、どっと笑い出す。しかし当の二人は笑うどころでなく、既に真剣試合になだれ込んでいた。
夕刻、城に戻ったリーファは部屋に入るなり、勝手に私物化している図書館の辞書をひもといた。養父のアラクセスは目をぱちくりさせ、小首を傾げる。
「何かあったのかね?」
「んー……まぁ、ちょっとね。昼間、シンハの奴と酒場で出くわしてさ」
事の顛末を説明しながらも、指は行を追っている。探す言葉を見付けた途端、リーファは針で指を突いたかのように顔をしかめた。
「しまった」
舌打ちして唸り、正しい単語を手近にあった紙に走り書きする。アラクセスは娘の様子を見守っていたが、どうやら作業を終えたと見ると、
「どれ、見せてごらん」
手を出してメモを要求した。リーファが差し出した紙に目を走らせ、アラクセスはふむと考えると、ひとつふたつ、言葉を訂正した。
「こっちの方がいい。言いたかったのは、こういうことだろう? つまり……」
と、彼はウェスレ語でその文章を説明する。リーファは神妙にうなずいた。
「考えてみりゃ、あいつならサジク語もウェスレ語もわかるんだから、そっちで言えば良かったんだ。無理して頑張って、ひどい事言っちまうなんて」
あーあ、と深いため息。アラクセスは優しく微笑むと、娘の肩を叩いた。
「陛下ならわかって下さるよ。でも、反省しているのなら、ちゃんと言い直しに行った方がいい。あの方は昔、まさに『存在が邪魔』だとしてお命を狙われていたのだからね。悪気はなくとも、過去の亡霊を突きつけられたのでは、良い気分はしないだろう」
「えっ……」
「知らなかったかね?」
おや、と意外そうに問われ、リーファは呆然と首を振った。
「親に似てなかったせいで、いろいろ揉めた、って。それだけしか」
「いろいろ、か。まったくあの方は」アラクセスは苦笑した。「双子の弟君がおいでだからね。いろいろの度合いも激しかったというわけだよ。さぁ、遅くならないうちに行きなさい」
促され、リーファはおとなしく「はい」とうなずいて駆け出した。
控えめなノックに対する「入れ」の声は、いつもと変わらないように聞こえた。
国王の私室に入ったリーファは、後ろ手にドアを閉めながら、室内に他の者がいないことを確かめてホッとした。シンハはどうやらこの後、先王夫妻と夕食の予定らしく、少しは国王らしく見える服を着て、袖口のボタンを留めているところだった。
「どうした?」
問う口調はさりげなく、昼間の事などなかったかのようだ。服が違うせいもあり、酒場で頭突きした相手はそっくりの別人かと疑いたくなる。リーファは首を振ってそんなもやもやした気分を払うと、思い切ってシンハの前までずかずか進んだ。
そして、
「ごめん!」
有無を言わせぬ勢いで謝罪し、頭を下げる。
「帰ってから辞書を引いて調べたんだ。オレ、そんなつもりじゃなかったけど、でも知らずにひどい事言って、本当に」
ごめん、ともう一度謝りかけたところで、ぽんと頭を撫でられた。上目遣いに見ると、少し照れ臭そうな苦笑が目に入る。リーファはホッとして顔を上げた。それから、分かってる、と言いたそうなシンハを手で制し、言葉を続ける。
「ちゃんと言い直すよ。つまり……」
ごほん、と咳払い。それから先刻調べた単語を思い出そうとして、あれ、と眉を寄せる。どうやら低頭した勢いで、ぽろりと転がり落ちてしまったらしい。慌ててポケットをさぐって紙切れを取り出す。上からシンハが興味津々と覗き込んできたので、リーファは急いでそれを握り潰した。
「ええっと、つまり、シンハは存在感があって、どこでどんな格好してても、そこにいるって分かるから、実際以上に大きく感じられるんだよ。だから、どうしても気になってしまうってことで……『邪魔』なんてつもりじゃなかったんだ」
そう言ってから、リーファは自己嫌悪に顔をしかめた。
「言葉に慣れてきて、もうすっかり分かったつもりになってたのが悪かったんだな。サボらずにちゃんと勉強してなきゃいけなかったのに」
「そんなに気にするなよ」
シンハは苦笑まじりに言って、またリーファの頭を軽く撫でた。その手に甘えてしまいたいのを堪え、リーファは「でも」と反論しかける。シンハは彼女の表情から、何を懸念しているのかを察したらしい。にこりともにやりともつかない、微妙な笑みを浮かべた。
「心配するな」
短く言って、ふと、リーファの頭に置いた手をこめかみの方へ降ろす。一瞬身構えたリーファの額に、こつんと軽く、シンハの額が合わさった。
お互い言葉には出さなかったが、その仕草で信頼が伝わるのが分かった。
――大丈夫、ちゃんと分かっているから。何があっても、何を言っても、根底にあるものは揺るがないから。
「……うん」
リーファは小さくつぶやいた。これ以上、謝罪も言い訳も必要ない。相手が自分を信じてくれているのだから、自分も相手を信じよう。迂闊な言葉ひとつで傷つくことのない、あるいは傷ついても自らを癒せる、それだけの強さを備えているのだと。
そう決めると、自然に笑みがこぼれた。安心と照れ隠しとが半分ずつの笑み。
込み上げる衝動を抑えきれず、リーファはくすくす笑い出すと、シンハの肩に両手をかけた。そして、合わせた額に力を込める。
その変化に気付いたシンハが軽く眉を寄せ、それからにやりとした。お返しとばかり、額を強く押しつける。
「ぬっ。やるか、この野郎」
リーファが反発すると、シンハも「この石頭」とやり返す。牛が角を突き合わせるように、二人はぎりぎりと額で押し合った。
ノックの音がしなければ、そのまま頭突き合戦が再開されていたかもしれない。慌てて二人が停戦すると同時に、側近のロト青年が入ってきた。
「陛下、食事の用意ができ……」
言いかけて、何とも複雑な顔で絶句する。リーファとシンハは揃って「何か?」ととぼけ顔を作ったが、赤くなった額を隠すことは失念していた。
ロトは眉間を押さえて深いため息をつき、憂いを湛えて首を振った。
「大体何をやっていたか察しはつきますがね。原因は何です?」
言われて二人は顔を見合わせ、赤い額に気付いて失笑した。ロトにじろりと睨まれ、シンハは慌てて笑いを引っ込める。
「大したことじゃない。こいつが俺のことを、図体がでかくて邪魔だと言うから」
しれっと責任を押し付けられ、リーファは思わず「ええっ」と不満顔になった。
「そりゃ……そうだけど、オレは謝りに来たんだぞ?」
「そもそもの発端はおまえだろう」
「頭ぶつけてきたのはそっちじゃないか! オレはちゃんと、おまえは目立つってだけだよ、って言い直したのに」
「どっちの責任か、なんて訊いてませんよ」
うんざりとロトが口を挟んだ。そして、疲れたようにリーファを一瞥し、辛抱強い口調で諭した。
「いいかい、リー。陛下は図体がでかくて目立って邪魔かもしれないけど、そのぐらいで丁度いいんだよ。でなきゃ、脱走されたが最後、見付けられないじゃないか。分かったら今後は、かさばって目障りで鬱陶しくても邪険にしないで我慢してあげるように」
「なんだか悪口が増えてないか?」
シンハが控えめに抗議したが、ロトは完全にそれを無視した。
「陛下はその額を隠すか冷やすかしてから、食堂においで下さい。お急ぎを」
では、と一礼し、ロトはすたすた出て行く。先に着席して待っている面々に、遅れるとの旨を伝えに行くのだろう。
取り残されたリーファは、横で暗雲を背負い込んだシンハを見上げ、気の毒そうに言った。
「あいつにも一回、頭突きしてやったら?」
「俺の頭が割れる」
シンハは唸るように答えたが、その顔に浮かぶ苦笑は温かい。
つまりは『頭突き』の必要などないわけか。そう納得すると、リーファは「ちぇっ」と小さくつぶやいて、拗ねたように口をとがらせた。
「なんだ?」
シンハが怪訝な顔をする。リーファは「別に」と言い返すと、くるりと背を向けた。
「オレも腹へったから、晩飯にしようっと。昼間、誰かさんにいっぱい取られたし」
わざとらしい口調で言いながら歩き、扉に手をかける。外に半歩出たところで振り返り、リーファはびしっとシンハを指さし、いわく。
「今に見てろ。オレだって結構、石頭なんだからな」
「……は?」
もちろん、シンハには何のことやらさっぱり分からない。リーファは不親切にも全く説明しようとせず、バタンと扉を閉めた。
置き去りにされたシンハが困惑したのはもちろんだが、しかし、本当に困ったのは、その後しばらく、わけもわからず対抗意識を燃やされたロトの方だったとか……。
(終)




