七章 罠(2)
「うあッ!」
熱風をまともに受け、リーファは腕を顔の前にかざす。フィアナは後ろに吹き飛ばされ、芝生の上をかなり遠くまで転がっていった。
それが合図だったのか、あちこちに隠れていた人間がバラバラと現れ、それぞれの仕事を始めた。何もないように見えていた庭の各部で、彼らが呪文を唱え、杖を地面に突き立てていくと、それを結んで光の線が走り、新たな図形を描き出した。
その中心に立たされたダンは、炎に包まれたまま逃げることもできず、聞く者の正気を狂わすような叫びを上げながら炭となっていく。
それは、たとえ炎の輝きがなくとも、正視できない光景だった。
リーファは炎から目をそらしたままフィアナに駆け寄り、手を貸して起き上がらせた。
「何をしたんだ?」
「昼間、地面にいろいろ埋めてもらったでしょう」
言いながら、フィアナはぐしゃぐしゃになった髪を指で梳く。
「あの中に、爆薬もあったのよ。どこから来るか分からなかったから、あちこちに埋めたんだけど……魔術の炎にのみ反応するもので、学院にはいつも備蓄があるのよ。量によって威力は変わるんだけど、あのぐらいで正解だったわね」
ふう、とため息をつき、フィアナは服についた芝を払って、ダンの方を見た。リーファもつられて振り返り、炎が弱まってきているのに気付く。
相当な高温の炎だったらしく、死体を焼いたというのに嫌な匂いもほとんどしない。地面に崩れた小さな山は、人の形など一部さえもとどめていなかった。
白い炎が弱まってゆくと、炎とともにダンを封じ込めていた結界の図形も、薄くなって消えて行く。やがて、炎の中にぼんやりと半透明の人影が見えてきた。
司法学院のケープをまとった、背の高い少年。まっすぐな瞳と、ぎゅっと引き結ばれた唇に、その気質があらわれている。
「あなたが、ダンですね?」
穏やかな声が問い、リーファと少年の影は、そろって振り向いた。
「レア大神官……」
そこにいた人を認め、リーファは口の中でつぶやく。無意識に、手をぎゅっと握りしめて。
このままダンは、大神官の手であの世に送られるのだろうか。それはたぶん、間違ってはいないのだろうけど。けれど……。
「リーファさん」
声をかけられ、リーファはびくりとした。なぜここで自分が呼ばれるのだろう。不審に思いながらも彼女が「はい」と返事をすると、大神官はにこりとして言った。
「その子の話を、聞いてあげてください。どうやら私のようなおばさんよりは、歳も気質も近いあなたの方が、いいみたいだから」
「え……オレが、ですか」
リーファは戸惑って、ダンの影と大神官とを交互に見た。レア大神官がうなずく。
「話を聞きたくないの?」
「いえ、そんなことは。でも、オレなんかが……」
リーファはダンに目を移し、不安げに問いかける。
「……話してくれるか? 何があったのか、ありのままを」
しばらく返事はなく、重い沈黙が降りた。ダンの影はじっとリーファを見つめ、立ち尽くしている。炎の踊る音だけがパチパチと静かに響いていたが、それもやがて小さくなり、ついには消えた。
ややあって、しびれを切らした大神官が口を開きかけた時、ダンの声が聞こえた。
〈聞いて頂けるのなら……お話しします〉
それはもう、肉体の声を伴っていなかった。心に直接聞こえる、悲しみに満ちた声。
ダンはゆっくりと語りはじめた。
僕とグリフィンのかかわりは、もうシリルからお聞きになりましたか?
そうですか。なら、あの日のことだけお話ししましょう。
あの日――ちょうど五日前の夜。僕は、グリフィンからの呼び出しに応じて、彼の家に行きました。司法学院の入試に向けて、最後のまとめをしたいから、と……その言葉を疑いもせずに。
彼があの下宿屋に移ってからは、一度も会っていませんでした。それまでは魔法学院の寮や酒場で時々会っていましたが、彼は魔法学院ではおおっぴらに司法の勉強もできないし、このままではまた落ちてしまう、とこぼしていました。
だから、彼が寮を出たと聞いた時も、ああ、本気で司法学院の入試勉強をするんだな、と思っただけでした。
……実際は、彼があの部屋で何をしていたか。あなたならご存じですよね。
僕は彼の家に行くと、少しの間、一緒に司法の勉強をしました。でもあの日、彼はそわそわして落ち着きがなく、じきに、休憩にしようと言い出しました。
何かがおかしいな、とその時に感じたんです。でも何がどうおかしいのか、わからなくて。珍しく彼がお茶をいれてくれたこともあって、僕は彼のすすめに従いました。
そうしてお茶を飲みながら、いつもの愚痴が始まりました。
「なあ、俺、また落ちるんじゃないかって心配なんだよ」
そんな言葉に始まって、環境が悪い、いつも何かに邪魔をされる……さかのぼって実家の暮らし向きにまで、彼の愚痴と不満は続きました。今ならわかりますが、その日の愚痴はつまるところ、彼が成そうとしている悪事に対する言い訳だったんです。
「……だから」
と、彼は言いました。これだけ自分は不運で不幸なのだから、
「ちょっとぐらいズルをしても、許されると思わないか?」
話がそこまで来て、さすがに僕も、今日は勉強のためではなく、この事を話すために呼ばれたんだと気付きました。
「まさか、ここまで勉強して来たのに、君はいまさらその努力を否定して、不正に走るつもりじゃないだろうな」
「これだけ努力したからこそじゃないか!」
彼は怒って即座に言い返しましたが、それはまずいと思ったのか、急に声の調子を変えました。……今でもはっきりと思い出せるぐらい、まとわりつくような気色悪さの、猫なで声でした。
「もちろん実力で受かる自信はあるさ。おまえが勉強を見てくれたんだからな。だけど、不測の事態っていうのはいつも起こり得るだろう? 可能な限りの安全策をとりたいと思うじゃないか。おまえがほんのちょっと協力してくれれば、それで……」
僕はもう、一言も彼の言葉を訊きたいとは思いませんでした。怒りのあまり立ち上がって、僕は彼をぴしゃりとはねつけました。
「君にはほとほと愛想が尽きたよ。僕に悪事の片棒を担げって言うのか? よくもそんなことが言えたな! 君にはもう、司法学院を目指す資格すらない!」
そのまま僕は部屋を出ようとしましたが、扉に手をかけた時、彼の嗚咽が聞こえて、立ち止まりました。あの時、それを無視して立ち去っていれば良かったんです。でも……さすがに、その時は言い過ぎたと思いました。それで引き返したんです。
彼はテーブルに肘をついて、両手で顔を覆っていました。
「怖いんだよ。また落ちたら、俺はどうしたらいい? 俺が高給取りになって、たっぷり恩返しすることを期待してる両親や親類連中に、なんて言えば?」
僕は彼が気の毒になって、諦めちゃいけない、と諭しました。魔術師でも出世の道はあるし、僕にできることがあれば、それが法に触れない限り力になろう、と。
グリフィンは顔を上げて、しおらしく謝りました。
「ありがとう。悪かったよ、ヤケ起こして変なこと言って」
そうして彼は、お詫びに、とペストリーを出して来ました。蜂蜜とシナモンをたっぷり使った奴で、たぶんあれは……味をごまかすためだったんでしょう。
僕は正直あまりほしくなかったんですが、食べなければ彼をまだ非難していると思われそうで、それを受け取ってしまいました。
彼が期待するように見ているので、その場で少し食べざるを得なくて、僕は……それを、口にしました。変な味だなと思ったので、一口か二口でもう横において、試験勉強を再開しました。
兆候があらわれたのは、それからいくらも経たない頃でした。ひとつの問題について論じ終わらない内に、手足がしびれてぞくぞくしてきたんです。僕は不安になって、グリフィンの顔を見ました。
――彼は笑っていました。
その時になってやっと僕は、彼になにか毒を盛られたと悟ったんです。彼の目的が最初から、僕に悪事の片棒を担がせることだけにあり、それが果たせなかった今、彼は自分のたくらみが露見するのを恐れて、僕の口を封じようとしているのだ、と。
僕は立ち上がろうとしましたが、できませんでした。激しく吐いて床に倒れ、そのまま起き上がれず、汗がふきだして……苦しんでいる僕を見下ろすグリフィンは、相変わらず笑っていました。それは本当にひどく醜く歪んだ笑い顔でした。
「いい気味だ、俺を助けようとしないからそうなるんだ! おまえ、本心ではもう、俺が落ちようがどうなろうが構わないんだろう。自分はもう合格して、いい目を見てるんだからな!」
そんな風に言っていたと思います。その時にはもう僕は、あまりはっきり耳が聞こえなくなっていましたが……彼のあの顔は忘れられません。
その時ほど誰かを心底憎んだことはありませんでした。憎み、軽蔑し……彼の存在は邪悪以外の何ものでもない、たとえ死んでも彼のような人間の存在を許すことはできない、そう強く思ったんです。
しばらくして気が付くと、体が冷たく重く、確かに僕の意志は残っているのに、うまく動けませんでした。何も考えず、とにかく立ち上がろうとして、僕はそこにグリフィンがいることに気付きました。
「ははは、ははっ……どうだ、見たか、成功したぞ! これでおまえは俺の言いなりだ。問題を盗み出すことだって出来る。誰かに見付かったって構わないよな? 何しろもう死んでるんだから! ははは!」
彼が勝ち誇って笑うのを聞く内に、僕は膨れ上がった怒りを抑え切れなくなって、彼に飛びかかっていました。あとは、もう何をどうしたのか……無我夢中で、そこらにあるものをつかんで、彼の首を絞めたことはぼんやりと覚えています。
彼がぐったりと動かなくなって、ようやく僕は我に返りました。殺してしまったことを、後悔はしませんでした。ただ、どうしよう、と思っただけです。
少し考えて、僕は結局、グリフィンの遺体をシャーディン河に捨てることにしました。
彼は小柄でしたし、僕の体はもうあまり重いとか痛いとか感じなくなっていましたから、彼を抱えて河まで行くのは、たいして苦労しませんでした。
彼を投げ捨てた後、僕は部屋に戻って……僕がそこにいた痕跡を消そうと思いました。僕の鞄、司法学院のケープ、そういうものを全部暖炉で燃やしている内に、あの本を見付けて……。
あとは、皆さんがご存じの通りです。あの部屋に隠れていた僕は、あなた達がやって来たのを見ていました。あなたが本の燃え残りを集めるところも。
「それでおまえは、オレの後をつけてたんだな。あの紙を燃やして、諸悪の根源をこの世から消し去るつもりで」
リーファが言うと、ダンはこくりとうなずいた。聞いているのが大半、魔法学院の者であるだけに、辺りは重苦しい沈黙に包まれる。
と、フィアナが思い切ったように口を開いた。
「ダン、今のあなたなら冷静に聞いてくれると思うから、話すけれど……残念ながら、毒とか死者の使役とかいった類の研究が、数多くなされているのは事実なの。たとえこの学院の蔵書すべてを焼き払ったとしても、その知識が完全に失われることはないわ」
ダンの影が、苦悶の表情を浮かべる。リーファが不安になってフィアナを見ると、彼女は落ち着いた態度でゆっくりと言った。
「けれど、どうか私たちを信じて。魔術を悪用する者もいるけれど、同時にそれを防ぎ、無効にしようとする研究も、同じ魔術師達によってなされているのよ。魔術による悪事を防ごうと思うなら、危険な知識を葬り去ることでは解決にならないの」
そこまで言い、フィアナは目を伏せる。
「今回のような事件が起こってしまったのは、本当に……つらいのだけど」
ダンは黙ってそれを聞いていた。真摯な言葉に胸を打たれてか、その表情が穏やかなものに変わって行く。月光に透ける体で、ダンはふと空を仰いだ。
〈僕は……知識を焼き捨てることで、人の知恵を守りたかった〉
声ならぬ声のつぶやきに、リーファはやりきれなくなって、ぎゅっと目を瞑る。
人の知恵。悪しきものを封じ、正しい道を歩むための。それを、守りたかったのだ――と、その純粋な思いが伝わる。
「私たちが守ります。だから、あなたはもう神々の元で安らいでください」
フィアナが静かな決意をこめて言うと、ダンは顔を下ろし、寂しげに微笑んだ。
〈魔術師が皆、グリフィンとは違う、あなたのようなら……僕も安心なのに〉
それから彼は、レア大神官を振り向いた。
〈大神官様。僕はもう、どこにも出て行けないと思っていたんです。人を殺し、こんな風になってしまっては……。それでも、神々は受け入れてくれるんでしょうか〉
祈るような少年のまなざしに、レア大神官は深く、慈愛を込めてうなずいた。
「もちろんですよ。さあ、お行きなさい」
そして、一言二言、古代語の祈りをつぶやく。
――ダンの影はゆっくりと薄れ、月光に溶けるように消えて行った。白っぽい小さな灰の山だけを、あとに残して。




