三章
三章
連れ立って歩きながら、リーファは昨夜のことを改めてロトに説明した。眩しい陽光の下でなければ、到底口に出せない内容だ。
「……で、そのまま消えちまったわけ」
「不穏な話だね。王都でカリーア人が殺された、なんて事があったら、記録に残らないはずがないと思うんだけど」
ロトは真剣に考え込んでいる。その横顔を眺める内に、リーファはふと不思議になって問うた。
「あのさ、あんたはそういうの、作り話だとか思わないのかい?」
「何が?」ロトはきょとんとする。
「だからさ、そういう……オバケとかなんとかって、嘘だと思わないのかい」
「君はこんな事で嘘をついたりしないだろう?」
「いや、その、そうじゃなくてさ。確かにオレは何かを見たんだろうけど、実はオレの思い込みだとか、夢……ええと、白昼夢っての? とかじゃないのか、ってこと」
そこまで説明されて、やっと言いたいことが分かったらしく、ロトは「ああ」と納得の声を上げた。
「そうか、西方ではあんまり幽……ごほん、そういう存在がまともに受け止められていないんだね」
「うーん……確かにいることはいるし、見る奴もいるけど。あっちじゃ、『出る』奴も出くわす奴も、罪があるからだって話だったからさ。神様に呪われてるんだ、って」
昔の記憶がよみがえり、リーファは目を伏せて口をつぐんだ。
初めて見たのは、白いぼんやりした人影だった。盗人や浮浪者仲間からは、カラスの爺さん、と呼ばれていた乞食の老人だ。彼はその数日前に死体となって、いまいましげな顔をした役人の手で、どこかへ運び去られていた。
カラス爺がいたよ、と言ったリーファを、はじめは誰も相手にしなかった。だが、無視されたリーファがむきになって『見た』ことを強弁した為に、今度は嫌悪と蔑みの嵐が返ってくることになった。
(寄るな、穢らわしい)
(てめえといると呪いがうつる)
失せろ、汚い、クズめが。
そう罵る者達からして、盗人や浮浪者、乞食といった、教会に入れない者ばかりであったが、彼らにしてみれば、リーファは格好の餌食だったのだろう。自分らよりも明らかに『劣った』、かつ抵抗できない子供だから。欝憤の捌け口にはもってこいだ。
幼いリーファには、彼らがなぜ自分を蛆虫扱いするのか、その理屈が分からなかった。『見える』からだ、という理由は分かったけれども。
以来リーファは『見る』ことを極端に恐れた。それは、自分が卑しく呪われた最低の存在だ、という証だったから。
後に変わり者の司祭に出会い、必ずしもそれは罪や穢れではない、と教え諭されたおかげで、罪の意識を抱くことはなくなったものの、刻み付けられた恐れだけは残った。その自覚はないままに。
今もリーファは、なんとなく嫌な気分になって、頭を振っただけだった。
「なんか、変な感じだよ。あんたは今、まるで生きてる人間のことを話すみたいに、普通に言ってたからさ」
「僕らの方では、死者の魂も生きている時と同じように人格があるからね。生きている間にこれだけ、悩んだり迷ったりするのに、死んだからってすぐに迷わず昇天する人ばかりなわけがないよ」
ロトは笑って言うと、「もっとも、僕は出くわした事がないけどね」と肩を竦めた。
「羨ましい……あ、この辺だったんじゃないかな」
足を止め、リーファは周囲を見回した。
「確かこの道を歩いてて、あっちの方から」
声が、と横道を指差した矢先、まるでそれを待っていたかのように、何やら悲鳴と怒声が上がった。リーファとロトは思わず顔を見合わせ、それから慌てて走りだした。
「昨日の声かい?」
「んなわけねーだろ、ありゃ夫婦か親子喧嘩だ」
ガラガラドスン、と派手な物音も聞こえた。じきに、「お父さんやめて」「二度と来るな」「ぶっ殺してやるからな」といった、お定まりの文句が耳に届く。細い路地の角を曲がると、小さな店の前でずんぐりした男が顔を真っ赤にして喚き散らしているのが見えた。その太い腕に、十五、六歳ほどの娘が必死で取りすがっている。
騒ぎは派手だが、言葉通りの流血沙汰にはなりそうにない。リーファは気を削がれて立ち止まり、ロトに問いかけた。
「どうする?」
「さて、どうしようかな。野次馬的に首を突っ込むのはどうかと思うけど、見なかったふりも出来ないし。ついでだから、制服の威力を試してみようか」
おどけてロトは答え、自分の上着をぴんと引っ張った。栄えある近衛兵の制服、しかも胸の記章は太陽紋、つまり上級近衛兵のしるしだ。
「警備隊の制服よりは効くんじゃないか? 最近は舐められてるらしいからさ」
リーファは苦笑で応じた。もっとも今の彼女は、その警備隊の制服さえ着ていないので、問題外ではあるが。
二人がゆっくり近付く間も、男は店内の誰かを威嚇し、唾を飛ばして罵っている。
(結構いい服を着てるな……でも貴族じゃない。小金持ちの商人ってとこか? それにしちゃ土臭い気もするけど)
親子の身なりを観察し、リーファはふむと推理した。
(娘がくっついてるってことは、商取引じゃなくて、家族付き合いの悶着かな)
と、見つめる視線に気付いたのか、それとも助けを探していたのか、娘がはっとこちらを振り向いた。
「あ……」
咄嗟に何か言いかけたものの、その後が続かない。父親の剣幕を恐れて、言葉を飲み込んでしまったように見えた。
「何事か。騒がしいぞ」
娘の意を汲んで、ロトが声をかける。男はやっと第三者の存在に気付き、ぎょっとした顔を向けた。そして、慌てて帽子を取って曖昧にお辞儀をする。
「これは、どうも……申し訳ございません」
効果てきめん。リーファは眉を上げてちらっとロトに視線をやった。相手も一瞬だけ、まなざしで応じる。
「いったい何があった?」
ロトが重ねて問うと、男は渋面になって「大した事じゃありません」と手を振った。
「身の程をわきまえない馬鹿な若造が、うちの大事な娘をたぶらかそうとしやがったんで、手を出したらどうなるかを教えてやっただけです。もう帰ります、どうも」
不機嫌にそれだけ説明すると、男は「ほら行くぞ」と娘の腕をつかみ、半ば引きずるようにして連れ去ってしまった。
「……まあ、よくある話だったわけだ」
曖昧な口調でロトがつぶやく。リーファは親子の背を見送り、ちょっと頭を掻いた。場違いなところに居合わせてしまったようで、少しばつが悪い。
取り繕うように、リーファはふむと腕組みした。
「ふぅん、『何事か。騒がしいぞ』ね。格好いいな、覚えとこう」
「仮にも近衛兵だからね」ロトは苦笑を返す。「警備隊員が使ったら、ちょっと格好つけすぎだと思うよ」
「そうかい?」
「人にもよるだろうけど、多分ね。ちなみに、君の台詞に直すと『うっせーな、何やってんだよ』になる」
「ええっ!? なんかそれ、めちゃくちゃ柄悪くないか?」
他人の口から聞かされると、自分の言葉遣いがどんなものかがはっきりする。さすがにリーファも焦った。
「いつもの君の調子だと、こんなものじゃないかと思うけど」
「ええー、そこまで酷いかな。まずいな、ちょっと気をつけよう……。エファーン語を覚える時に、まともな言葉遣いにするいい機会だと思ったんだけどな」
思わず反省するリーファに、ロトは明るい声を立てて笑った。
と、そこへ、店の中から呻き声がして、二人に本来の用事を思い出させた。開け放しの戸口から中を覗くと、若者が一人、木箱や袋や、布地の山に埋もれている。急いで二人は駆け寄ると、怪我人を救出した。
「派手にやられたなぁ。大丈夫かい」
リーファは苦笑気味に言い、頭の埃を払ってやる。若者はむっつり「ああ」と応じ、仏頂面で片付けを始めた。礼を言う気分ではないらしい。
どうやらこの件については触れない方が良さそうだと察し、リーファはごほんと咳払いした。
「えーっと、言うのが遅れたけど、オレはリーファ=イーラってんだ。警備隊員になったばかりでね。あんたはこの店の息子さんかい?」
「警備隊?」
若者は手を止め、不審げに振り返った。顔には露骨に「嘘だろう」と書かれていたが、近衛兵がくっついている以上、それを口には出せずにいる。リーファは肩を竦めた。
「本当だよ。まだ配属は決まってないけど、二番隊に入れられた時には宜しくな。で、質問に答えてくれないかい?」
「あ……ああ、うん、そうだよ。俺はセウテス。店はまだ親父のものだけど、仕事は大半俺がやってる」
答えながらも、セウテスは不安げなまなざしで二人を交互に見た。遅まきながら、こんな所に近衛兵と警備隊員がいる事の不穏さに気付いたのだ。
「あの」急に彼はおずおずと卑屈な態度になった。「ここで何かあったんですか」
質問はロトに向けられていた。怯えた目で見つめられ、ロトは苦笑する。
「何かあったかも知れないし、何もなかったかも知れない。それを調べに来たところだったんだ。片付けを手伝うから、少し話を聞かせてくれるかな」
「は、はい。あ、いえその、ちょっと待って下さい、このぐらいすぐにやっつけちまいますから」
慌てて言い、言葉通りセウテスは乱雑に『やっつけ』ていく。どうにか格好をつけると、彼は改めて二人に向き直った。
「それで、お話って何でしょうか」
丁寧な言葉遣いの時は、ロトだけしか見ていない。無視されたリーファは心中でやれやれと呆れた。
(制服様々、霊験あらたかってわけだ。オレも早いとこ自分の制服が欲しいなぁ)
試験の時に着ていたのは予備の制服で、リーファ専用のものはまだ仕立屋にある。
(まぁもっとも、近衛兵の制服ほどの効き目はないかも知んねえけど)
あれこれ考えていると、ロトに肘で小突かれた。君が質問しろ、という事らしい。リーファは慌てて意識を切り替えた。
「あのさ、変なこと訊くようだけど、あんたはこの辺に外国人が住んでた、って話を聞いたことないかい?」
「外国人……っていうと、リオラとか、ロスキオンの?」
セウテスはきょとんとした。彼が挙げたのは、西隣と、少し南方の国だ。どちらもエファーン地方の一部で、レズリアとは昔から深い付き合いがある。
「いいや、うんと西方の民だよ。つまりオレと同じってこと。髪も目も濃い色の、サジク語を話す連中」
リーファの説明に、セウテスは完全に呆気に取られた。当惑に目をぱちくりさせ、「全然」と首を振る。いったいなぜそんな質問をされるのか、そもそもそんな連中が現実に存在するのかさえ、さっぱり分からない、と言うような表情だ。
無理もない。交易商人でもない限り、よその国、というのは遠いものだし、ましてや聖十神の手さえ届かないはるか西方とくれば、彼ら一般人にとっては荒唐無稽な絵空事同然である。そんな所の住人が『ここ』にいたか、などとは。
セウテスの心情を察し、リーファはちょっと頭を掻いた。
「そっか。そうだよなぁ……そんなのがいたら、噂になるよなぁ」
うーむ、と彼女が唸ったところで、不意にセウテスが「あ!」と声を上げた。何か思い出したのか、とリーファは期待したが、
「西方人って、じゃあ、あんたがもしかしてあの、陛下の……?」
言われてがくりと肩を落とした。
「どんな話を聞いたんだか知らないけど、確かにオレは二年前に国王陛下に拾われた、王城の居候だよ。なんだ、まだ噂されてたのかよ……」
「じゃあ、もしかしてあなたは」
と、セウテスはロトに目を向ける。ロトは軽くうなずいた。
「ああ、まだ言っていなかったね。国王陛下の秘書官を務めているロト=ラーシュだ」
「うっ……わ、し、失礼しました!」
とたんにセウテスはしゃちこばり、二人に向かって深々と頭を下げた。大袈裟な反応にリーファは面食らい、目をぱちくりさせて、ひそひそとロトにささやいた。
「すごいな。あの馬鹿王でも、こんなに畏れられてたりするんだ。初めて見たよ」
「あのね、リー。君が今まで見てきたのは、比較的陛下に近しい人ばかりだからだよ。いくらレズリアの民が王家に親近感を持っていると言っても、普通は国王陛下を馬鹿呼ばわりしたりはしないよ」
へーえ、などとリーファが感心していると、セウテスが恐る恐る顔を上げ、遠慮がちに訊いた。
「あの……ということは、何か重大なこと、なんでしょうか。いえ、そうなんですね? すみません、お役に立てなくて」
「いや、いいよ、そんな大袈裟なことじゃねえから」
慌ててリーファは手を振る。それからはたと、国王陛下の安眠を妨げるというのは、重大なことに入るのかな、と首を傾げた。
「いや、重大……かも知れない。けど、まぁ気にすんなって。それより、協力的になってくれたところでほかにも質問があるんだけど、いいかな」
それはもちろん、と応じたセウテスに、リーファは遠慮なく質問を浴びせ、気になっていたことをすべて聞き出した。
この店は亜麻布、つまりリネンを扱う卸商で、店主である父親は現在、契約先の農家や職人の家を回っているのだという。質はどうか、手順や出来具合をごまかしていないか、といった視察と、場合によっては契約の変更をするためだ。
レズリアで使われる布は、リネンと毛織物が大部分を占める。絹や綿はごくわずか輸入されるだけで、貴族や富裕層だけのものだ。また、リネンの中でも漂白したものは非常に高価になるため、やはり金持ち専用。
この小さな店が扱うのは、そうした高級品ではなく、庶民が日用に使うようなものだ。手頃な価格で質の良いものを、と、この場所で商いを続けてきた。なんと曾祖父の代から続いていると言う。
「その前はどうだったか知りませんが、さすがにそんな昔に、西方人がここまで来たなんて考えられませんし……ここに余所者が住んでいたことは、ないと思います」
「そうだなぁ。あんたのご先祖に西方人がいたようにも見えないし」
リーファは腕組みして、セウテスの容姿を改めて観察した。背はひょろっと高く、手足が長い印象だが、特徴と言えるほどではない。そばかすの散った顔や、艶やかな少し暗めの金髪、それに明るい茶色の目は、まるきり東方人だ。
「亜麻色の髪の亜麻売りさん、ってからかわれますよ」
セウテスは少しはにかんだように苦笑した。
「亜麻色?」リーファは首を傾げる。
「ええ。麻は収穫した後、何週間か水に浸けて余計な部分を腐らせて、繊維の束にするんです。その時の色が、ちょうどこんな色だから」
セウテスはそう言って、ちょいと自分の髪をつまんだ。ははぁ、とリーファは不意に気付いて納得する。
「そういう事を言うのは、亜麻農家の女の子だな」
はい正解。
セウテスは返事代わりに真っ赤になった。
(なるほどね。あの親子は取引先だったわけだ。それで付き合いがあって、まぁ……なんだか知らないけどゴタゴタした、って事か)
さすがにそこまで踏み込むのは、野次馬根性だろう。リーファはわざとらしくごほんと咳払いし、話題を変えた。
「ともかく、色々ありがとな。また何か聞きに来るかも知れねえけど、宜しく頼むよ。親父さんが帰ってきたら、念のために訊いといてくれるかな」
「西方人のことですね。わかりました。でも、あの……どうしてそんなことを?」
遠慮しながらも、セウテスは当然の疑問を持ち出す。リーファは曖昧な顔で、頭を掻いてごまかした。
「うーん、まだ何とも言えないんだ。悪いね」
「あ、いえ、こちらこそ出過ぎた事を。失礼しました」
慌ててセウテスは、また頭を下げる。リーファはそれ以上ぺこぺこされない内に、適当なことを言って店を出た。
リーファとロトは通りに出ると、あちこちの路地裏を覗いて回った。結果、やはり昨夜の幽霊はリネン商店の横にいたのだ、と確信するに至った。
「おかしいなぁ、確かにここだったんだけど」
「暗かったんだし、間違えたってことはないかい?」
「いっぺん見た場所は間違えねえよ。元盗人なんだぜ」
自慢にならないことを言ったリーファに、ロトが失笑した。リーファも自分で笑い、ぺろっと舌を出す。
「今のは聞かなかったことにしてくれよ。王様の身内が盗人じゃ、外聞が悪いもんな。こんな事が知れたら、せっかく協力的になってくれたのに、またそっぽを向かれちまう」
誰に、とは言うまでもない。セウテスの豹変ぶりを思い出し、ロトも「そうだね」とうなずいた。
「良くも悪くも、君には陛下の影が付きまとうだろう。助かる場面もあるだろうけど、逆に苦労する事も多いと思う。でも君なら、陛下の評判を落とすことなく、君自身の名誉を勝ち取れると信じているよ」
にっこりと信頼の笑みを向けられて、リーファは思わず赤面する。それから、参ったなぁ、と小声でぼやいて、照れ臭そうに苦笑した。
「とりあえず、今日はもう帰るか。これ以上の収穫はなさそうだし」
「そうしよう。城に戻ったらじきに夕食だろうしね。さて、陛下が約束通り決裁済み書類の山を出してくれるかどうか、楽しみだ」
二人が立ち去った後、路地はしばらく動くものひとつとしてなく、何食わぬ顔で沈黙していた。が、やがて地面から白い蒸気のようなものが、ゆらりと立ちのぼる。
(……イタイ……ケテ)
風がささやく。
しばらくして、人の気配を感じたセウテスが、客が来たのかと表に出てみたが、そこには誰もいなかった。ただ、何か奇妙にがらんとした――つい今し方まで人がいたのに、直前でふいと去ってしまったかのような空虚さだけが、通りに漂っていた。