二章
二章
当人達が平気でも周囲はそうはいかない、という事はままある。
シンハとリーファの場合もそうだ。何しろ国王の寝所に女がいつの間にか潜り込んでいるのである。起こしに来た側近が塩の柱になったとしても、当然の反応だろう。
「……陛下」
いつもなら自力で起きているはずの国王がまだ寝ていることに不審を抱き、部屋に入ってみたらベッドに女。これで誤解するなと言う方が無理だ。もっとも、誤解したくとも出来ないほどに事情を理解している場合は別だが、それはそれで何やら物悲しい。
「起きて下さい、二人とも! 人に見られたらどうするんですか」
ゆさゆさと荒っぽく揺すられ、二人はそれぞれ呻いて目を開けた。
「ん……? もうそんな時間か。しまった」
寝過ごした、とつぶやきながらシンハが伸びをする。その横で慌ててリーファが飛び起きると、そこらにうっちゃってあった上着を大急ぎで羽織って、
「ごめんロト! 後で改めて!」
詫びもそこそこに、隠し通路に飛び込んで消えた。
国王の側近で秘書官をつとめるロト青年は、朝っぱらから、一日分の総量に匹敵しそうな深い深いため息をついた。
「まったく……人に見られたら面倒な事になる、という自覚があるだけましですが、既に城内で暮らす者は大半が、薄々気付いているんですよ。妙な噂をいちいち消して回る私の身にもなって下さい」
「すまんな。だがおまえなら、雷に怯えてベッドに潜り込んできた犬を追い出せるか?」
「何も追い出せとは言いませんが……」
はぁ。またため息をついたロトに、シンハはふと意地の悪い笑みを浮かべた。
「おまえが魔除け体質だったら良かったのにな」
「な……!」
見る間にロトは赤面し、次いで強烈に苦い顔になった。おや、とシンハが目をぱちくりさせる。ロトは「もしそうなら」とそっぽを向いて吐き捨てるように言った。
「リーはきっと遠慮して、何か魔除けのお守りを作ってくれ、と学院長に頼むでしょうよ。今だって、ベッドに転がり込むのが本当にまずいと思っているなら、そうするはずです。リーがあなたの所に行くのは、魔除けだけが目的ではないんですよ」
棘々しい声音に、シンハは困って頭を掻いた。ややあってロトは、言葉に詰まってしまった口下手の国王に向き直り、むっつりしたまま「失礼、言い過ぎました」と詫びた。
不機嫌な秘書官を見上げ、シンハは温かみのある苦笑をこぼした。
「確かに、いつまでもこのままで良いとは思っていないさ。だがもうしばらく、あいつにはいつでも逃げ込める避難所が必要だ」
「ええ、分かっています」
ロトはそこでふと表情を和らげ、皮肉っぽい微笑を見せた。
「ちょっとしたやきもちですよ。避難所から追い出された身の上としては、たまには愚痴のひとつも言いたくなります」
「……俺が悪かった。寒い冗談はやめてくれ」
「半分は本気なんですけどね、隊長」
ロトはわざとらしくおどけた口調で言い、シンハの昔の肩書きを呼ぶ。シンハは片眉を上げ、にやりとした。
「残りの半分は嫌がらせか。まったく、なんだってこう俺のまわりには、遠慮しない連中ばかり寄ってくるんだ?」
ぼやきながら、いつものように顔を洗って服を着替える。ロトはそれが済むのを待ってから、外に控えている召使を呼んだ。数人の女中が滑るように部屋に入り、水を替え、テーブルに二人分の朝食を並べていく。シンハがしきたりを変更させた一例だ。庶民に近い育てられ方をしたこの国王は、食事の間じゅう部下が横で突っ立っているのが、気に入らなかったのである。
「それで、今度はなんだったんですか」
ロトが問うと、シンハは自分で紅茶を注ぎながら「幽霊だ」と応じた。
「街で出くわしたらしい。夜遊びするからだ」
「困りましたね。夜遊びはともかく、警備隊には夜勤もあるんですよ」
ただでさえ警備隊長のディナルには良く思われていないのだ。幽霊が、などと言おうものなら、ここぞとばかり「だから小娘なんぞは」云々と叩かれてしまうだろう。
「それだけが問題でもなくてな」
シンハが言い、向かいに座ったロトは「と言うと?」と眉を寄せた。
「サジク語を話していたらしい」
「それは……妙ですね」はて、とロトは首をひねった。「幽霊について詳しくは知りませんが、普通はいわくのある土地に出るものでしょう? 屋敷とか墓地とか。カリーアの幽霊が、わざわざレズリアの、しかも王都まで出張してくるとは思えませんね」
どこぞの脱走王じゃあるまいし、と付け足した部分は、ゴホゴホむせる音でかき消された。シンハはわざとらしく咳払いしてごまかし、パンをちぎる。
「だがカリーアからの移民がいたという話は、記憶にない。中部の旅芸人や商人なら、たまにここまで来ることもないではないが……だとしたら、ウェスレ語を話すはずだ。たまたまリーファがカリーア人だからかも知れんが、何かひっかかってな」
「分かりました、調べてみましょう」
ロトは案外あっさりとうなずいた。
「やけに物分かりがいいな」
「こと幽霊が相手では、あなたが自分で調べるわけにもいきませんからね。サジク語はあまり分からないんですが、リーを説得して連れて行きます」
淡々とそこまで言い、ロトはにやっとした。
「あなたは私が城にいると仕事を押しつけて逃げますが、私がいないと逃げ出せない程度には、責任感がおありですから。書類仕事も、さぞかしはかどるでしょうね」
「…………」
「言っておきますが、帰ってきたら焼きたての茶菓子で労ってやろう、なんて親切ごかしはお断りですよ」
「分かった。そこまで言うなら、夕食にはおまえが泣いて喜ぶ、決裁済み書類の山を大皿に盛って出してやる」
唸るように言った国王に、しかしロトは「楽しみです」と余裕たっぷりの笑みを返したのだった。
とは言えども、秘書官がいなくては片付かない仕事も多い。ロトは単に書類の整理や持ち運びをしているわけではなく、国王本人並にそれぞれの案件について把握し、あらゆる方面との折衝を行ってもいるのだ。
そんなわけで、ロトが幽霊の正体を探りに出られるようになったのは、午後になってからだった。
「リー、ちょっといいかな」
部屋まで呼びに来たロトに、リーファは怪訝な顔をした。
「珍しいね、あんたの方がオレに用だなんて」
「間接的に陛下の用事ではあるんだけどね」
ロトが苦笑気味に言った途端、リーファは用件を察して顔を引きつらせた。
「ちょっ……、待ってくれよ、まさか」
うろたえ、腰を浮かせて逃げの体勢に移る。ロトは黙って微笑むばかり。
「いや、あの、昨夜はオレも酔っ払ってたし、だからきっとあれは夢で……」
「だったら、怖がる必要はないわけだね?」
「いやいやいやいや、夢でも怖いもんは怖いぞ!」
なんだか論点がずれて来た。ロトはこほんと咳払いすると、リーファの机に歩み寄った。養父のアラクセスと共用なので、本や紙や辞書やメモで溢れ返っている。だがどうやら今は、感心にもエファーン語の勉強をしているところだったらしい。
「偉いね。読み書きの方もずっと勉強を続けているんだ」
「え……そりゃ、まぁ。話し言葉はほとんど不自由しねえけど、やっぱりまだ、難しい文章は読むのに時間もかかるし、辞書がいるからさ。そういうのもスラスラ読めるようにならないと、なんて言うか……」
リーファは珍しくもごもごと曖昧に語尾を濁す。ロトが目顔で先を促すと、リーファは照れ隠しなのか、口を尖らせて拗ねた口調で続けた。
「手伝えないだろ。あんたやシンハの仕事を、さ」
「…………」
驚きに、ロトの目が丸くなる。リーファはそれを呆れたのだと取って、無意味にばたばたと手を振り回した。
「いや、オレだってさ、本当に手伝えるとは思ってないよ! 王様の仕事なんてちんぷんかんぷんで、本っ当、わけわかんねえもん。何の必要があるのか分かんねえ行事とかもあるしさ、手伝いったって何すりゃいいのかさっぱりだし、でも、だけどさ、ほら、気持ちの問題ってやつ? ああもう、だからそんな目で見るなよ!」
しまいには真っ赤になって、リーファは両手で顔を覆った。言うんじゃなかった、と小さなつぶやきが漏れる。ロトはそんなリーファを優しいまなざしで見つめ、ふと手を伸ばしかけて……やめた。
自分の仕草をごまかすように、両手を背中に回し、指を組む。
「ありがとう。君にそう言って貰えて、僕も嬉しいよ」
ごく自然な調子で言い、彼はリーファが顔を上げるのを待った。指の間から、琥珀色の目がちらりと様子を窺う。ロトはそれに気付かぬふりで、とぼけて言った。
「これでシンハ様がもう少し仕事熱心になってくれたら、僕もずいぶん楽になるんだろうけどねぇ」
ぷっ、とリーファが吹き出し、ロトも堪え切れず失笑する。二人は顔を見合わせ、一緒になって笑い崩れた。
少し笑ってから、ロトはさりげなく話を戻した。
「僕もサジク語をもうちょっと勉強しなくちゃいけないな。まさか王都で必要になるとは思わなかった」
「……あー……やっぱり行かなきゃ駄目か」
参ったね、とリーファはため息をついたものの、すぐに行動に移った。開けっ放しの辞書を閉じ、机の上を片付けて外出の支度をする。
「どうせ行くなら、日がある内にやっつけちまおう。いくらなんでも、真っ昼間にあいつは出ないだろ」
「だといいね」
わざとロトは意地の悪い返事をする。リーファは渋面になったが、抗議はせずに靴紐を結び直し、背を伸ばした。
「よっし、と。んじゃ、行くか。昨夜の『出た』場所に案内すりゃいいんだろ?」
「うん、頼むよ。何かその幽霊の身元の手がかりも、見つかるといいんだけどね」
「幽霊って言うなー!」
「あ、ごめん」
反射的にロトは謝ったが、シンハ同様、こちらも拳を頂戴した。彼は殴られた頭を押さえ、どうして言ってはならないんだろう、と道々悩み続けることになった。