一章 魔法学院生の部屋(1)
昼下がりの酒場は、いくら王都シエナの城下町と言っても、まだ空席も充分ある落ち着いた雰囲気だった。
数人の常連客が、エールや果実水、あるいは茶を片手に、思い思いくつろいでいる。かすかに聞こえる街路の雑踏。使い込まれて木目の浮き上がったテーブルをのんびりと磨きながら、亭主が口ずさむ歌。それ以外に、穏やかな静寂を乱すものはない。
と、扉のきしむ音で、亭主が顔を上げた。
新しい客は若い娘ひとり。緩い癖のある黒っぽい焦茶色の髪を、一本の三つ編みにしている。金髪や明るい茶色の髪が大半を占める中で、その暗い髪の色は他国人の血を主張していた。
身に着けているのは、実用的と言えば聞こえはいいが、要するに地味で愛想のない、臙脂色のダブレット――王都警備隊の制服だ。そのおかげで、王都住民の大半は彼女が何者であるか一目で判った。
「よう、リー!」
亭主が陽気な声をかける。つい最近、特別試験で合格した警備隊史上初の女性隊員、リーファ=イーラ。それが彼女の名前だ。
時の人であるはずのリーファは、しかし、琥珀色の目にどんよりとした気配を浮かべて、返事のかわりに軽く手を上げた。熊のような姿勢でのそのそカウンター席に近づくと、ドサリと腰かけてそのまま突っ伏してしまう。腰の剣が抗議するような音を立てたが、目をやりもしない。
「どうした、随分お疲れだな。念願かなってやっと正式な隊員になれたんだ、それも警備隊始まって以来初の、女性隊員にして外国人隊員! 快挙じゃないか。もうちょっと景気のいい顔は出来んのかね」
亭主がカウンターの奥に回り、いつもの果実水を出す。リーファはもぞもぞ起き上がってマグカップを受け取ると、半分ほどを一息に飲んだ。
「念願ってもんじゃないよ」応じた声は少し低く、かすれ気味だ。「とりあえず自分に出来そうな仕事だった、ってだけさ。いつまでも盗みを続けるわけにもいかねえし」
乱暴な言葉遣いだが、彼女の口から出ると不思議と虚勢も厭味も感じられない。それが当たり前のような印象を受ける。人徳……とは、少し違うかも知れないが。
「国王陛下には拾ってもらった恩もあるし、か?」
にやりとした亭主に、リーファは馬鹿にしたような表情で鼻を鳴らした。
「別に。オレは自分のしたいようにしただけさ。あいつに義理立てすることなんか、何ひとつないね」
「おいおい、陛下をあいつ呼ばわりはないだろう」
「あんただって、しょっちゅう似たようなこと言ってるじゃないか」
リーファは言い返し、果実水の残りを飲み干して体を起こした。
「しっかし、ようやく食い扶持の稼げる仕事に就けたと思ったのに、まだ見習いだから街区に配備できない、とか言われてさ。本部で隊長に見張られながら、つまんねえ書類仕事をしてるか、さもなきゃ夫婦喧嘩の仲裁とか、落とし物を探せってんでドブさらいとか、野良猫の死骸の始末とか、んな事ばっかやらされてんだぜ!」
あーあ、やんなっちまう。うんざりとため息をついたリーファに、亭主はなだめるような声音をつくった。
「平和で結構じゃないか。おまえさんもこの街に来たばかりの頃は、言葉も通じないコソ泥だったろ。それがこうしてまっとうに警備隊員になれたのも、ひとつにはこの町が平和で、それ以上悪い方にはまりこまずにすんだお陰じゃないか」
「昔の話はやめてくれよ」
むす、とリーファはふてくされた。はるか西方で生まれ育った彼女は、ここに来てまだ二年あまりで、ようやく街の一員として馴染んできたところなのだ。自分がよそ者だと改めて指摘されるのは、嬉しくなかった。
「確かにここは平和だよ。だけど、どうせ警備隊に入ったんなら、ただの雑用係じゃなくてもっとマシな仕事をしたいね」
「だからって、大事件が起こって欲しい、なんて言わないでね?」
背後から、優しい声がやんわりとたしなめる。リーファは驚きもせず振り返り、予想通りの人物がそこにいるのを見て苦笑した。
「フィアナ……なんでおまえはいつも、オレの居所を当てられるんだ?」
柔らかく波打つ金髪と優しい鳶色の瞳、白い肌にふっくらした体つき。小さな手の指はほっそりとして儚げで、触れただけで散る繊細な花を思わせる。
リーファはことごとく自分と対照的な印象の義従妹を眺め、つくづく酒場にそぐわないな、などと考えた。逆に言うと、自分は酒場にしっくり馴染むというわけだ。……それもどうかと思うが。
「言っとくけど、別に今はさぼってるわけじゃないぞ。午後から非番なんだ」
「わかってるわよ。私も言っておくけど、いつも姉さんの後をつけまわしてるってわけじゃないのよ」
おっとりと笑い、フィアナは手提げ袋から布巾で包んだものを出して、カウンターごしに亭主に渡した。
「はい、学院長様からの預かり物です」
「ありがとう。じゃ、ちょっと待っててくれるかな」
包みを受け取り、亭主は奥に引っ込む。魔法学院に通って長いフィアナは、学院長とも親しいため、時々こうしたおつかいを頼まれるようだ。
「また薬かい?」
リーファは眉を寄せた。前にも何回か、亭主やその妻のための薬が届けられるのを、目にしたことがあるのだ。
「今度はどうしたんだよ。あんまり無茶すんなって言ってるだろ、オレに手伝える事は言ってくれりゃいいのに。どうせ暇なんだからさ」
「いやその、なんだ、まあ、たいしたことじゃない」
奥から出てきた亭主は曖昧な笑いで返事をごまかし、ワインの瓶を一本、フィアナに差し出した。
ははん、とリーファは皮肉な表情になる。あまり他人に堂々とは頼めない代物だったのだろう。学院長は当たり年のワインがあると、寛容になる性質だから……。
「心配して損した。フィアナ、戻るんならそれ、持ってやるよ」
空になったマグと代金を置き、リーファは立ち上がった。
「いいわよ、このぐらい。いつも重い本や実験器材を運んでいるんだから、こう見えても腕力はあるのよ?」
フィアナは笑って首を振ったが、でも、と言葉を続けた。
「このあと時間が空いているのなら、少し付き合ってくれない? もう半月ほど学院に出席してない人がいてね、ついでに様子を見て来て欲しい、って言われてるの。既に自分の実験を任されている人なら、半月どころか何ヶ月もこもりっきりになってもおかしくはないけど、まだ初年生だし」
「そいつは寮生じゃないのか?」
リーファは驚いて問うた。
王都には魔法学院と司法学院というふたつの学院があるが、どちらも立派な寮を備えている。特に魔法学院の方はまだ新しい学校なので、寮の部屋数に比べて学生の数はさほど多くなく、余裕があるはずなのだが。
「最初はその人も寮に入っていたんだけど、ちょっと変わり者らしくてね。一人でじっくり勉強できる環境が欲しい、って言って突然出てしまったんですって。寮だって個人部屋のはずだし、何より無料なのにね。ともかく、その下宿先が……まあ、そういうこと」
言葉を濁して肩を竦めたフィアナに、リーファはうなずいた。
「わかった、付き合うよ」
大都市のわりに治安の良い王都だが、貧民街がないわけではないし、周辺の地区もやはり、胡散臭い店や人が多いのだ。偏屈な自称学者や物乞いたち、盗みや恐喝を生業とする輩、法の定めすれすれの境界線を綱渡りしている者。
現国王になってからは、日陰も日陰なりに穏やかな状態を保っているが、用心するに越したことはない。
(そうでなくたって、中身がああなのに外見はこうだからなぁ)
義従妹の可憐な顔をなんとなく胡散臭い気分で眺め、リーファはふうっとため息をついた。
(騙された連中が、しょっちゅう余計な騒動を起こしてくれるのも、わかるよ。いい迷惑だったらありゃしねえ)
裏道で襲ってきた痴漢を、派手な魔術で建物の屋根まで放り上げてくれた時のことは、まだ記憶に新しい。一人で貧民街に行かせようものなら、またうんざりするような仕事が増えるだけだ。それなら最初から、自分がついていった方がマシというものだろう。
「ありがとう。それじゃ、行きましょ」
そんなリーファの心情を知ってか知らずか、フィアナはにこやかに言うと先に立って歩きだす。リーファも後について、店の外に出た。
初夏の陽射しがまぶしい。街のところどころに植えられている木々の枝は、鮮やかな緑のレースをまとい、風には草葉の香りが含まれている。
「うーん、散歩日和だな」
伸びをして気持ち良さそうに笑ったリーファに、フィアナも笑みを返す。
「酒場で管をまいてるより、いいでしょ?」
「言ったな」
リーファは苦笑して、小突くふりをした。
店を出て、石畳で舗装された道を少し歩くと、一番大きな通りに出る。町の南門から広場、そして城へと続く中央通りだ。北に向かってゆるやかな上り坂になっており、小高い丘の上に城が見える。
リーファとフィアナは中央通りを横切って、そのまま東南の街区へ向かった。川の近くで湿気が多い、貧民街の方へと。
フィアナが手にした紙片には簡単な地図が書いてあったが、その下宿屋を見つけるのには、かなりてこずった。入り組んだ裏町の路地は、方向音痴を先頭にしている限り、抜け出すことの出来ない迷宮である……と、そう気付くまでが長かったのだ。
「おまえは! 場所知らねえんだったら最初にそう言え!」
フィアナの手から紙片をひったくったリーファが前に立って間もなく、二人は無事、狭い路地に傾いでいるその家を見付けた。
「地図があるから大丈夫と思ったのよ。でもさすがに姉さんは、方向感覚が良いわね」
悪気のかけらもなくそんな事を言うフィアナ。リーファは汚い壁に手をついて、座り込みそうになる体を支えた。
確かにリーファは元が盗っ人というのもあって、方向感覚に優れている。王都に来てじきに、ほとんどすべての通りを把握してしまい、驚かれたものだ。が。
(違う、違うぞ。お前があまりに方向音痴すぎるんだ! 買い物して店から出たらもう、来た方も分からなくなってんだから! 通い慣れたはずの学院で迷子になって、捜索隊に救出されたことまであるだろう!)
ああもう。
しかし毎度の事なので、リーファはフィアナの欠点を指摘したりはせず、かわりに深いため息をついた。
「オレがいなかったら、一人で辿り着けてたと思うのか?」
とがめるような問いに対し、フィアナは無邪気に目を丸くして、あら、と軽く肩を竦めた。
「なんとかなったと思うけど。でも姉さんがいてくれて良かったわ、ありがとう」
「……どういたしまして」
力なく言い、リーファは玄関扉をノックした。
誰も出ない。はてと首を傾げながらもしばらく待ってみたが、中からは何の物音もしなかった。居留守を使っているような気配も、感じ取れない。
「お留守なのかしら」
窓を見上げてフィアナが言う。通りに面した窓は一階も二階も鎧戸が降りている。リーファは「さあね」と言いながら足を上げて、
「あっ、ちょっと、姉さ……」
フィアナが止めるより早く、扉をバンと蹴り開けた。
「何か言ったか?」振り返るリーファ。
「……乱暴なんじゃない?」
「建て付けが悪いんだよ、こういうとこの扉ってのはさ。鍵がかかってたんなら、今の蹴りぐらいじゃ開かないよ」
ほら、早く。平気な顔でリーファはフィアナを手招きした。フィアナは顔をしかめてため息をつき、やれやれと石段を上った。蝶番をキイキイ鳴らしている扉を押さえ、足元に気をつけながら一歩中に踏み込む。
「いまさらだけど、本当に姉さんって男らしいわね」
「蹴るぞ」
二人はところどころ床のへこんだ廊下を歩き、一枚の扉の前に立った。住人の名前を示す物は何もない。が、扉の隙間に何か紙が差し込まれている。
「なんだ? これ」
リーファは無造作にそれをピッ、と抜き取る。三つ折りにされた羊皮紙だ。広げてみると、魔法学院のシンボルが入った用箋で、丁寧な文字が整然と並んでいた。
「日付は四日前だな。それからここには戻ってないのか。内容は……」
リーファは眉を寄せた。難しい文章はまだ、すらすらとは読めないのだ。横からフィアナが覗き込み、簡潔に要約する。
「んー、まあ、早く出て来るか長期欠席の手続きをとらなければ、在籍資格にかかわるぞ、っていう脅しよ」
「どうやらこの部屋で間違いないな。一応もっぺんノックしてみるか。礼儀ってことで」
他人宛の信書を勝手に読んでおいて、どの口が礼儀などと言うのか。しかし彼女には彼女なりの基準があるらしく、その辺はあまり気にしていなかった。コンコン、と軽く扉を叩く。もちろん応答はない。
「さて、難儀だね。鍵は……」
かかっている。把手を回しても開かなかった。こんなみすぼらしい下宿屋でも、個室に壊れていない錠がついているとは驚きだ。
ドアの隙間に目をこらし、鍵穴の付近を調べる。内側に閂などの影は見られない。
「ってことは、外からかけたんだな。外出したまま帰ってないわけか」
つぶやきながらリーファは腰のポーチを探って、愛用の七つ道具を取り出した。ちょいちょいと鍵穴をいじること、わずか数秒。カチャリと歓迎の音が鳴った。
「姉さん、ひとこと言ってもいい?」
「だめ」
にべもなく応じて、リーファは用心深く扉を開けた。閉じ込められていた空気が扉の動きにつられ、ふっと流れだす。
(あれ?)
一瞬、妙な気配が鼻をついた。臭い、というほどではない。だが、何か異臭としか言いようのないような、奇妙な空気。何だろうと訝る間に、それは薄れて消えた。
リーファの後ろから室内を覗き込み、フィアナが不思議そうに言った。
「施錠の術はかけてなかったのね。それじゃあ、そんなに長く部屋を空けるつもりはなかったのかしら」
施錠の術を使えば、いちいちすべての窓を閉めたりせずとも、呪文ひとつで建物や部屋全体の戸締まりができる。錠が実際についていなくても構わない。
長期間にわたって留守にする場合、この術も併せて厳重に施錠していくのが魔術師たちのならいだ。そのぐらいのことは、リーファも一応知っていた。
「まだ呪文とか知らないんじゃないか? 初年生だろ」
「確かあれは、かなり初期に習ったはずよ。部屋で魔術の実験をしてる最中に、誰かがノックもしないで入ってきたりしたら、困るでしょ。だから」
「ふーん。それじゃ、外で何か厄介事に巻き込まれちまったのかもな」
言いながらリーファは薄暗い室内に入り、窓の鎧戸をガタガタと開けた。白い光がさっと差し込み、閑散とした室内を照らし出す。
魔術師の部屋にしては珍しく、室内はかなり片付いていた。
「いない……わね」
フィアナが室内をうろうろしながらつぶやいた。リーファも、何か手掛かりはないかと目を走らせる。勝手に物をいじって留守中に侵入したのがばれたら、色々と面倒になるので、触りはしない。部屋の主は外出後、単にふらりとどこかへ足をのばしただけかも知れないからだ。
机の上や周辺には、いくつか魔術の道具が置かれている。どうやらここの住人は、魔術の中でも、あれこれと薬草だの何だのを用いた実験を行うのが専門であるらしい。形から入る性質なのか、それとも凝り性なのか、初年生にしては多くの器材を揃えているようだ。
「妙ちきりんな物がたくさんあるなぁ。フィアナ、その学生ってどんな奴なんだ?」
リーファは褐色のガラス壜に映る自分の顔に向かって、いーっと歯をむいて見せたりする。フィアナは呆れ顔をしてから、本棚や器具を一通り見回して答えた。




