九章(2)
翌朝にはルクスだけでなくシンハまで、だいぶ顔色が良くなっていた。久しぶりに骨が溶けるまで横になっていたのが、少しは効いたらしい。
「大体おまえはさ」
リーファはもぐもぐ言った。階下から運んできた質素な朝食を頬ばっているのだ。
「働きすぎだよ。いくら他人より頑丈だからって、元を質せばただの人なんだろ」
今までならシンハが『ただの人』だなどとは考えもしなかったが、現状を見れば認識も変わる。これからはちょっといたわってやらなきゃいけないかな、などと考えながら、リーファは匙で麦の粥をすくった。どうやらあるじ夫婦はゆうべ夜更かしをしたせいで、朝っぱらから客のためにパンを焼く元気がなかったらしい。
「甘やかさない方がいいよ」
陰欝に唸ったのはもちろんロトだ。当のシンハはすっとぼけて窓の外を眺めている。
ささやかな朝食が終わると、都合四人は「さて」と情報の整理に取り掛かった。
まずリーファが、ルクスにこれまでの経緯を簡略化して教えた。
「オレがたまたま夜中にその……幽霊を見かけてさ。それがあんたの店の近所だったんだ。それで気になって次の日に行ってみたら、ウートのおっさんがセウテスをぶん殴ってるところだった」
その時に両家の事情を聞いたこと、翌日もう一度行ってみたら、父親が帰ってこない、とセウテスが気を揉んでいたこと。
「そこで友達の助けを借りて」と彼女はちらっとシンハに目をやった。「様子を探りにきたんだ。そしてあんたを見付けた」
無茶苦茶にはしょっているが、ルクスは気にした様子もなかった。まだややこしい話について行けるほど、脳味噌が復活していないらしい。目をしばたたき、そうですか、と呟いてから、問われるまでもなくぽつぽつと自分の話を始めた。
「あたしはね、ティッチも……ああ、つまりウートですが、彼もわかってくれると思ってたんですよ。ご存じの通り、うちで扱うリネンは庶民的なもんです。真っ白の高級品でなくていい。安いものだって、十年から使い続ければ、蜂蜜を溶かしたミルクみたいに、いい感じの色合になるもんです。だから、作り方も……」
そこで彼は顔を上げ、一同を見回した。商品についての話になると、途端に生気を取り戻したかのようだ。
「リネンの作り方はご存じですか? 刈り取った亜麻をまず水に浸けて、余分なところを腐らせることは」
「あ、その話だけはちらっとセウテスから聞いたよ。ローナが髪の色をからかうんだ、って言って」
リーファが笑うと、ルクスも微かに笑みをこぼしてうなずいた。
「そうです。繊維だけになった亜麻はきれいな金色なんですがね。ただ、腐らせるのに使った水は……全部、川にそのまま流れてしまう。川まで金色になっちまうんです。あたしはそれが、昔から気掛かりでしてね。こんなに川を汚したら、サーラス様に悪いんじゃないか、って。ちょっぴり作ってるだけならいいんですが、ここみたいに大がかりになると、その季節にはすごいもんですから。
ただ、ここからだとティエシ川もじきにシャーディン河に流れこみますから、薄まって分からなくなっちまいます。だから、村の者は誰も気にしてませんでね」
この話がどこにつながるのか分からず、リーファはただ曖昧にふうんと相槌を打った。が、ロトとシンハは流石に違った。
「そう言えば最近、今までとは違う方法を始めた亜麻農家があるとか聞いたな」
シンハが記憶を探る。ロトもうなずいた。
「ええ。確か水は使わず、畑地に置いて雨露にさらすという話でした。ただそれだと土の色が移って黒っぽくくすんでしまうとか、腐るまでに時間がかかるから納品も遅れるとかなんとか……試しに何枚か買ってみるとは言っていましたが、現物はまだ見ていませんね」
誰がどこで、といった部分をぼかしているが、城の物品の話だろう。厨房内で使うティータオルや召使部屋のリネン類なら、何も客室のように真っ白でなくていい。
リーファは二人の会話からルクスの話の帰結を察し、ぽんと手を打った。
「あんたはそっちに乗り換えようとしたわけだ。それでウートのおっさんと喧嘩になったんだな? その挙げ句、あんな納屋に閉じこめられてしまった、と」
「ええ」ルクスは弱々しく苦笑した。「と言っても、いきなり全部取引をやめるわけじゃありませんし、ティッチもあたしの話を聞いたら、うちに回す分ぐらいはその……新しい方法を試してみようとか、そんな風になるだろうと思ってたのに。まさかあんな事をされるなんて」
ルクスは頭を振り、小さく一言「狂ってる」と呟く。
あまり気が進まなかったが、リーファは詳しい説明を促した。
「ウートのおっさんは、いきなり狂ったみたいになっちまったのかい? あんたを閉じこめて、何をしたんだい」
「いきなり、と言うか……最初から、どことなく様子はおかしかったんで。あれは何なんでしょうかねぇ。あたしを出迎えた瞬間、何かにぎょっとしたような顔を、ほんの一瞬でしたが見せましてね。話をしていても、妙にぼんやりしているような……それでいて今後の取引の話になると、あっという間に不機嫌になりましてね。顔を赤黒くして、おまえは私を裏切るんだな、と」
そう言ってから、あれ、と訝るようにルクスは首を傾げた。
「ええ、確かそう言いました。彼のいつもの口調とはちょっと違う感じで。その後は何がなんだか。殴られたんだか、突き飛ばされたんだか分からないうちに、地面に転がってました。急に黒い霧がかかったみたいに、よく見えなくなって……気が付いたら、納屋に縛られていたんです。ティッチはそれから何回か夜中に来ましたが、まるっきり話が通じませんでしたよ。問答無用で連れ出して、用を足して――失礼――水だけは飲ませてくれましたがね」
「ウートのおっさんはあんたを閉じこめて、何か要求したりしたのかい?」
「要求と言うか……一番よく言われたのは、裏切り者、でしたかね。そっちがその気なら、こっちはおまえを破滅させてやるぞ、とか。おまえも道連れだ、とか」
そこまでしゃべると、ルクスは疲れたらしく、深いため息をついた。わけがわかりませんよ、とぼやく声は、嘘をついているようには聞こえない。それでも一応リーファは念を押した。
「あんたは全く心当たりがないんだね? 裏切りとか道連れとか言われることについて」
「取引以外では付き合いがありませんからね。セウテスはローナと親しくしているようですが……それだって多分まだ、手を握ってもいませんよ。あたしには、ティッチがおかしくなったとしか考えられません」
失礼、と断って、ルクスは水を飲んだ。リーファは腕組みし、うーんと唸る。ということは、どうやらルクスはたまたまウートに何ものかの霊が取り憑いた時に、運悪く訪問して、しかもその霊を怒らせてしまった、ということか。
(だけど、たまたまって言うにはあんまり……)
と、それまで黙って考え込んでいたシンハが、不意に口を開いた。
「ルクス、何か古いものを身に着けてはいないか?」
いきなり妙な質問をされ、ルクスは「は?」と目をぱちくりさせた。が、客商売が長いからか、ちょっと考えてからすんなり「ええ、はい」と応じた。
「古いと言っても、祖父か曾祖父か、そのぐらいの物ですが」
言いながら彼が懐から取り出したのは、一風変わった巾着だった。それを目にした瞬間、リーファは竦んで身震いした。
(父さん)
ミルテの声が聞こえる。こめかみで血管がどくどく脈打つのが感じられた。
端の擦り切れた革の巾着には、絡み合った蔦の模様が型押しされていた。その中に見覚えのある文字が隠されている。紐には小さな空色の石飾り。
無意識にリーファは手をのばし、ルクスの手からそれを受け取っていた。チャリンと鈍い音がする。重みはほとんどない。
「倉庫を整理していたら、出てきたんです。財布のようですが、見たことのない硬貨が何枚か入っていて……行きか帰りに、骨董品店に寄って見て貰おうと思っていたんですが」
ルクスの説明が、どこか遠くから聞こえるようだ。
「……知ってるよ。これが何か」
リーファは言い、巾着の中身を手のひらに開けた。すっかり黒ずんだ銀貨と、緑青の浮いた小さな銅貨が数枚ずつ。銀貨には、髭をたくわえた男の横顔が刻印されている。銅貨には植物の模様。いずれも、縁を飾るのは小さな文字だ。
「銀貨はカリーア。本当はドマン銀貨ってんだけど、預言者カリーアの顔がついてるからさ。これが手に入ると嬉しかったっけ。たいていはこっちの“葉っぱ”だったけど」
「カリーアの通貨だけか」どれ、とシンハが一枚取る。「中部のクレスやシェムは?」
「ないね。カリーアのだけ。この巾着も本当はお守り袋だよ。教会でこういうのをよく売ってた。確か、中身は……聖典の要約版みたいな、豆本だったんじゃないかな」
「金目の物ではなかったわけだ」
「全然。紙屑さ」
リーファは言ってから苦笑した。有り難い聖典を紙屑などとは、あの国で言おうものなら即刻、石打ち刑だろう。だが今の場合、問題になっているのは純粋なカネとしての価値なのだ。
中部の通貨なら、この東方でも両替して貰える。店によっては、そのまま使えるところもあるほどだ。だがカリーアの通貨となると、利用するのは難しい。溶かして目方で売ることも出来るが、手間がかかるし、そもそもほとんどの場合、貨幣には卑金属が混ぜられている。純粋な金銀の貨幣が作られるのは、よほど国の羽振りが良い時代だけだ。
「だから、これだけが残ったんだ。使い道のない貨幣と、売り物にもならない巾着袋。紙屑の方は多分、捨てたんだろうな」
リーファとシンハは顔を見合わせ、互いに納得してうなずいた。シンハは硬貨を巾着に戻しながら、残念そうに言った。
「昨夜ミルテがルクスに……特別な態度を見せていたから、もしやと思ったんだが。しかし、これがここにあるということは、多分……」
「持ち主は殺されてるだろうね」
傍で聞いていたロトが、次第に驚きの表情になる。
「もしかして」彼は上ずった声をもらした。「その巾着は……ミルテの父親の?」
曖昧な会話だけから推理したロトに、リーファはおどけて小さく拍手した。
「ご明察。昨夜ミルテが言ったのはね、ウートのおっさんがミルテを埋めたんだ、ってことと、もう一人いた、ってこと。つまり、今ウートのおっさんに取り憑いてる奴は、誰かとつるんで、西から来た無知な親子を騙くらかして全財産を奪った上に、殺して埋めちまったらしい、ってことさ」
そこでリーファは、ぽかんとしているルクスに目をやった。
「多分それは、ウート家とフォラーノ家、それぞれの先祖だったんだ」
沈黙が降りた。ルクスは話について行けず口を半開きにし、リーファたちはミルテの不幸を思いやって、言葉を失う。
しばらくしてやっと、ルクスが動転した様子で「待って下さい」と声を上げた。
「いったい、どういう事なんです? あたしには何が何だか……殺したのどうのって、そんないきなり……あ、そう言えば幽霊がどうとかって」
ルクスがうろたえているのを尻目に、シンハが腰を上げた。
「道々話そう。いつまでもこの宿にいるのはまずい」
「どこに行くんだ?」
リーファが問うと、シンハは皮肉っぽく「神殿」と答えた。
「相手が霊なら神官の出番だ。どのみちルクスを保護して貰う必要があるからな」
「こちらは丸腰ですからね」
やれやれ、とロトも応じて立ち上がる。言われて見ると、彼もいつもの制服ではなかった。剣も帯びていない。
「どっちにしろ、普通の剣じゃ効き目ないだろ」
リーファは見慣れない私服姿をつくづくと観察しながら言った。ロトはたじろぎ、意味もなく袖口を引っ張ったりねじったりして、虐待する。
「いや、相手がフォラーノさんを取り返しに、村の人を差し向けたりしたら、徒手では心許ないよ。ウートさん本人は何も覚えていないかもしれないけど、とにかく用心した方がいい。……そんなにじろじろ見ないでくれないか、落ち着かないよ」
「あ、ごめん。なんか面白くて」
「…………」
言うに事欠いて。
ロトはがっくり頭を垂れ、壁に手をついた。シンハが遠慮なく笑う。一人状況が理解できないルクスだけが、しきりに目をぱちぱちさせていた。




