37.答えはとっくに決まっている
「お前はどうしたい?」
水面に映る自分が問う。
俺は慌てて世界を見まわした。気がつくと世界は水面と青い空だけになっていた。
続く地平線によってその境目がわかるというだけの、境界線の曖昧な風景が目の前に広がる。居るのは影みたいに真っ黒い俺と、水面に映るもう一人の俺。
「お前はどうしたい?」
再び聞こえた声に黒い俺が、走りだす。パシャン、パシャンと足元の水を踏みながら。
「俺はどうすればよかった?」
三度目の声が聞こえた時、俺は水面側に居た。黒い俺に手を伸ばしながら水底へと沈んでいく。暗い世界、冷たい世界、沈む度色が無くなり俺は黒くなっていく。走って行ったもう一人の黒い俺はいつの間にか居なくなっていた。
(俺にはどうしようもないし、どうもしたくない……)
水底へはまだ、辿りつかない。
パチリと瞼を開ける。
「ゆ、め?」
飛び起きるようにしてベッドから上半身を持ち上げる。真っ先に手を見た。両の手が黒くなかったことに少しばかり安堵した。
引き続き、周囲を見回す。天井も周囲も見覚えがない。
(ここ、どこだ? 宿じゃない、な)
布団を捲りベッドから抜け出すために、足を動かす。途端、ベッドの下の柔らかい何かに足が触れて慌ててそれを引っ込めて、息を殺した。
「って、ラン。……ああ、そうか、ここレインの家か」
なんだか、精神的にドッと疲れて俺はベッドに再び倒れ込む。
ああそうだった、そうだった。段々と思い出して来た、行く当てなくて俺はレインの家に来たんだった。
そう、メイリーが居なくなっても俺は追いかけなかった。だからここに居る。
あの後、暫くは俺もレインも黙ったまま店の方に突っ立ていたけど、沈黙に耐えかねたのか「お風呂、ご飯、それともあたし?」みたいなアホな質問をレインが急にしてきたので「お腹すいた」とアピールしたらすぐに飯が出てきたんだ。
「どんどん食べてねぇ、ダーリンっ!」
キッチンに置かれた机の上に並ぶ温かな料理は(レインが作ってくれたと思えないほど)家庭的で、鼻孔がくすぐられるものだった。
足元でランがレインの出した肉料理をバクバクと頬張っているし、相当美味しいのだろう。
「レインさんって料理できるんですねー」
「何よ、その失礼な言い方……言っておくけど、ちぃっとも自慢したくないことにあたし家庭的な女なんだからねっ! 店だって汚くないでしょうっ!? 大体、何か食べるほどダーリンここに長居しないじゃないのぅ!!」
「あー、んー、そーですねー」
「何よその言い方ぁ。ふーんだ、昔取った杵柄ってだけですものぉ、どうせぇ」
「なんだよめんどくせぇなぁ、ちゃんと美味しそうだって思ってるって」
メイリーが帰ってから暫くは、ぎこちない顔をしていたレインだったが今では微塵もそんな顔をしていたとは思えない。
「なら、早く食べてよ。あ、あーんして欲しいのぅ? はい、あーん」
無視して、一番手近にあった煮魚料理を食べだす。
「うお、なにこれヤバイ。本気で美味しいんですけどっ!」
パサパサしてない、生臭くない!
ふふんと、レインが鼻で笑ったのは気に入らないが、本人の言うように料理の腕は確かなようだった。
どっかの誰かさんはパンに具をはさむことすらできないのに。
雲泥の差とはこのことかー。
甘やかした罰だったんですかー。
「れいん、ゴ飯、オカワリ! オカワリ!」
「あんたねぇ、飼い主こき使ってんじゃないぃわよ。あたしだってご飯食べたいんだからねっ!」
「らん、成長期。ゴ飯食ベターイ」
「横に太るだけでしょ、あんたは!」
「れいんハ太ル、らん成長!」
ドヤっとした顔でランは言ってのける。前足で催促する姿が可愛いです。
「このっ……あぁん、もう! わかったわよ、大人しく待ちなさい!」
ちょっと、遠い目をしてみる。
賑やかな食卓だ。
机の幅は縦横一メートルほどで小さく二人分の食事で机が一杯だし、キッチンに机があるせいか生活感に溢れている。
(普通の家での食事ってこんなんなんだろうなぁ)
実家じゃ一緒に食事してても無駄に大きな机の端と端で食事だし、出された食事はダイニングルームにわざわざ運ばれるから温かいものよりも冷めたものの方が多かったし。作り置き上等みたいなの多かったし……外食してもぶっちゃけ食事なんて腹に入れば良いみたいな感じだったからこう言うのってなんか、不思議で――なんだろうなちゃんとご飯食べてますって感じがするとでも言えばいいのかね。……メイリーとも誰ともこんな風に食べたことないのに、初めての家庭的な食事がレインだなんてなんか俺悔しい気分。
「もしもーぉし、遠い目してますけどー?」
いつの間にかレインが手を目の前で揺らしていた。
「いや、マジこれ金とれるレベルだし、魔具なんて売るより儲かるんじゃなって目算してました」
にこやかに嘘を口にしてみる。長年嘘吐きだったのでカミングアウト中でも軽やかに口から嘘が出るんだなぁ、これが。
「やぁよ、食べるのにそんなに興味ないもの。それにどぉうでもいい人なんかにご飯作ったっておもしろくもなんともないわ」
「でっすよねー」
レインは席にどっかりと座ると自分が作った料理を食べ始める。反対にランは食べ終えたようで、満足気に口の周りをベロリと舐めてから水を飲み始めた。
本で犬の躾を読んだことあるが、ご主人より先にペットが食事すると自分の方が偉いみたいな勘違いするって書いてあったのに、くそう、なのにうちのポニポニと違って主従関係しっかりしてるのはなぜだ!
「あたしだって、誰かにまた食事を作るだなんて夢にも思わなかったわ。……食事もしないとだし、眠らないとだし、どれだけ年月が経っても不便で嫌になるわ」
「それしなかったら死ぬだろうが。人間やめる気かお前は」
「あたし、人間?」
真顔でのレインの問い。暗い色の瞳からは何も窺えない。
どうやらただ、純粋に質問しているらしい。何の意図かはわらかないが。
「人間じゃなかったらなんのつもりだと、むしろ問いたい」
「……………」
彼女は黙ったまま、パンを駕籠から取り出し小さく千切る。パクリ、パクリ。そのまま無言で食事をし始めた。
「をーい、レインさーん?」
「なんだか毒気を抜かれちゃったわぁ」
「なにそれ、意味不明すぎてシャドくん引くんですけど」
「え、愛してるって? いやぁん、大胆告白ぅ」
ずずずっと、お茶を啜る。お、中々イケル味だ。東の国の一品かな。
「ダーリンってぇば、照れ屋さんでかぁわいいんだからん」
「勝手に言っとけ。ん?」
お茶を飲みながら不意にレインの食事する仕草がまるで、貴族連中がする上品なものだということに気付く。会話と奇行に騙されてじっくり見ることなんてなかったし、ついつい見逃していたが今思えば基本的にしゃんと背筋を伸ばされていたし、歩き方もどことなく庶民のそれよりもドレスを来て動く淑女たちのそれに似ていた気がする。
不意に疑問符で頭の中が埋め尽くされる。
これほどまでに見事な料理を作れる貴族なんて居る筈もない。
仮に貴族だとするなら、下流貴族か没落して料理を覚える必要があったと言うことになる。が、それだとどこでこれほどまでの魔術の知識を覚えてきたのかという疑問が湧く。
なら考えられるのは英才教育を受けられる余裕がある裕福な家庭の人間ということになる。
……………ない、ありえない。
出会って八年。仮にあの時を十代後半もしくは、二十代前半だとしたらお嫁に行くのにベスト時期だったはず。もしも二十代後半だったとしたら親が貴族だろうが商人だろうが相当切羽詰まって無理やりにでも結婚させていたはずだ。
実際、レインは美人な方に部類されるはずだし、知識豊富で家庭的となったらそう言った話がいくつかあったはず。家出したり、親と死別したからって結婚しないで他所の国にいれるとかないない。世の中の親族たちの執着心ってのは驚くほどなんですよ、怖いんですよ、自分たちの名誉とか見栄とかなんかいろいろあるからね!
なのにだ、実際は自国でもない場所でのらりくらりと過ごして三十代突入なんて認められるはずもない。
では、なぜ親も夫も居ないのか。
「女の幸せは結婚じゃないんだからぁあああ」という世の声が聞こえてきそうだが、そういうことを俺は言いたいわけじゃない。
良いところのお嬢さんが他国に一人でってことがおかしいと言っているのである。
今までレインに積極的に関わろうなんて思ったことがなかったので、考えたことなかったが世間体を気にしまくる世の中の連中が放任主義云々を掲げていたとしても赦すとは思えないのに、実際問題そうなっているからおかしいと言っているのである。
「なー、変なこと聞くけどさ」
「年齢と体重は乙女の秘密だから、教えられないわぁよ?」
バストサイズはなら教えてくれるのかよ。
いや、別に興味ないからな。メイリーより少し大きいぐらいじゃ俺の気は引けないからな!
「聞きたくねぇよ、うんなこと。じゃなくて、レインの親って何してのかなーとか、どこの国から来たのかなーとかって、いや、答えたくないならいんだけどさ、少し興味があったりなかったり」
語尾が尻つぼみになった。
なんだろう、これを聞くのってすごい負けた気がする。レインに関わりたいですって宣言しているみたいですごく嫌だ。なんか、悔しい。
「国はないし親は死んだわ、とっくの昔にね。……細かいことはぁ、どうでもよかったから忘れちゃった」
おっとと、ヤバイ。地雷踏んだ。俺の死亡フラグが建築される音が聞こえる。
てか、覚えてるけどこれ以上のことは絶対に言いたくないって顔に書いてあるぞ。
「は、もしかしてダーリンあたしが気になるの? 気になっちゃう感じなの? 愛なの? 恋なの? 家庭的なあたしぃにときめいちゃった?」
「ちげーし」
ハートを飛ばしてくる、レインを一喝する。
うまくいつもの調子で誤魔化された気がするが、これ以上聞くなって雰囲気なのはわかった。
やっぱり、俺からした彼女がそうであるように、彼女からした俺もそうなのだろう。
過去の話をきゃっきゃとしたりするような仲ではないわけである。信用に値するレベルではない。と、つまりそう言うことなのですよ。
「あー、飯うめー。茶うめー」
俺はせっせと食事に励むことにした。
そうだ、で風呂に入ってぬくぬくとした体で、用意されたベッドになだれ込んで寝たんだった!
いきなりの来客だったから、まあ、ベッドがやや獣臭いけど馬小屋や野宿に比べれば天国だよねーって思いながら、レインの地雷にはもう二度と触れるまいとか下らないことを思ってたら……。
「あー、そういやそんな感じで寝たんだった。忘れてた」
ここはなんだっけ、「余ってたからぁ客用に作った感じの部屋だったんだけど、今じゃランが自分の寝床にしてる部屋?」とかなんとか言ってたな。
枕を持ってベッドの上をゴロゴロしてみる。獣臭い、ああ、でも、可愛いランの匂いー。
って、おい。なんだかこれでは変態じゃないか。ランへの愛が強すぎてやや俺ってば暴走気味ー。ヤダワー、なんだか、自分なのにキモイって思っちゃうわー。
「なんか、目が覚めたな。水でも飲むか」
枕元の机の上に置かれているコップと水差しを手に取る。
レインさんってば、一時的な客である俺に対して気が利き過ぎな気がするね。我が家じゃ態々置くとかしてくれないよ、あんだけ無駄に広いのに……まあ、基本皆自分でコップに水注ぐとかしないで鈴鳴らしてメイド呼ぶからってのもあるんだけどね。
しかし、なんで貴族っちゅう生き物は自分で動きたがらないのか、謎だね。俺なんて水注いで欲しいとか思わないし、台所に行きたくもないから勝手に水差し買って来て部屋に常備してるのに。
注いだ水の匂いを嗅ぎ、それから右の人差し指を突っ込んで、濡れた部分を軽く口に含む。
(普通の水か……でっすよねー)
そのままコップに並々と注いだ水を呷る。
別に毒なんて今までの日常生活の所為で即死するようなものでもない限り効かないんだけど、ね。いやー、人間不信な所為かあの人の教育の賜物なのか――人が居ない場所だと自分が用意してない食べ物って何か入ってるんじゃないかと疑ってしまうんだよね。
人の目があるとそんなことする気まったく起きないのにね。なんでだろうね。
ちっともレインが俺を殺すとか思ってないんだけど、さ。
態々俺を殺そうとする人なんてむしろ、まだこの世の中に居るの。って感じなんだけどね。あ、いや、勇者が居たな。あいつ俺のこと殺す気満々だわ。あと、シュロムとか。今ならドルークさんも怖い。他にはって……俺のこと殺したがってる人以外に多くて思いつきたくないんだけどっ!
ベッドのすぐ下に居るランに手を伸ばしてモフる。ふわふわふー。
『お前はどうしたい?』
(明日から期限までに勇者に勝てる方法が知りたいね)
どうしたいもこうしたいもない。もう、俺は決めたんだ。傷つけても、傷ついても、メイリーだけ幸せならどんなことでもしてやるって。
その為なら、レインだって利用するし、メイリーだって傷つける。
そう、決めた。
『俺はどうすればよかった?』
どうしようもこうしようもない。もう、やり始めたことはやり終わるまでだ。
俺はランをモフりながら目を閉じた。ランが一匹ー、ランが二匹ー。次は水底へ沈まない夢が見たいものですな。ランが三匹ー。
グラスとグラスがぶつかり合う音が響く。
「次の杯が、祝杯になることを願って」
父親の言葉にグランツ・ミリューはアダラが狐と評する例の顔で笑った。
「……陛下、浅ましいお願いだとは存じているのですが……アダラ・プワゾンを、彼女をなんとか説得していただけないでしょうか。このままではあまりにもハイラントが不憫です」
「アダラには関わるなと何度言えばわかるのだ。あれは、あれだ。機嫌を損ねなければこちらには害がないと何度も言っているだろうが。……大体、次代の王になるならあれに恩を売っておくぐらいしろとお前は何度言えばわかるのだ。勇者の座さえもあんな影武者に与えおって、本当に役に立たんな」
普段よりも数段低い声にもグランツは笑みを絶やさない。
「小汚い小娘を連れて帰って来るわ、アダラの怒りは買うわ。まったくもってお前は次期国王になるという自覚が足らん。大体、あの影武者など別に余はどうでもよかったのだ。メイリー・ジャミルが他国へ行かないのであればそれで問題なかったのを、態々手を貸してやったのを忘れたのか?」
「無論、陛下のお優しいお心は忘れておりません」
国王はグラスを口に持って行き、更に酒を呷る。
「口ばっかり達者になるのではなく、そろそろ見合った働きをしてもらいたいものだな、フン」
どんどん減る国王の杯に対し、グランツの杯は最初の一口のみで一向に減らない。
「あのようないくら、あのリーフの子であっても、愚息の方ならば怒りを買うことはなかろうと思ったのに飛んだ誤算だ。まさか、戦い好きの西の国の人間が境界線の警備を他の者に任せてまで戻って来るとは夢にも思わんかった。まったく、これもそれもお前があーだ、こーだ言わなければ」
「誠に申し訳ございません、陛下」
グランツはどこまでもにこやかな顔のまま頭を下げた。
やっと酒が無くなり王が自室に引き上げたのは杯を交わしてから二時間も後だった。
(愚痴ばかり多い狸爺はこれだから……手伝う気がないならとっとと開放してくれればよいのに)
ハイラントのため、ひいては自分のために自分の父親――国王に今回の件では何度か頭を下げたが、現状はグランツが考えていたよりも彼にとってかなり面白くない結果になっているらしくこれ以上の協力は仰げないようだった。
(それにしてもアダラは厄介ですね、裏にどんな大物がいるのやら)
初めて面会をさせられた時から「逆らうな、刃向かうな、機嫌を損ねるな」の三拍子を押しつけられたがまさかあそこまで本気で刃向かうことを拒むとは思っていなかった。
だが、グランツからしてみればアダラにどれだけの強みがあろうとも、彼女はまだ自分たちの共犯者だ。
(仕方ない、ここは大人しく勝負内容で決闘を進めつつハイラントが勝てるように策を練るしかないな)
グイッとグラスに残った酒をグランツは一気に呷った。