34.振り子がゆらゆら
『もー、ぼくのせいよ。どうしてくれるのよ、ちゃんと責任とって助けてよね!!』
嫌いにもなれない、好きにもなれない、大切にもできない、一人にもできない。
メイリーを除いての唯一の例外。それがレインだった。彼女は、内側と外側のライン上でぐらぐらと揺れる振り子人形のようだった。
顔を真っ赤にして怒る。優しく笑えば、大きく口を開けて笑いもする。そんな風に表情をコロコロ変える大人は、知る限り彼女だけだった。
なのに、否、だからこそ、だ。
そんな表情ができる彼女が酷く冷たい顔もできることを知ってしまったからこそ、俺は彼女を中途半端な立ち位置にした。しておきたかった。
俺は、彼女に名前を呼ばれたことがない。
一度たりとして呼ばれたことがない。出会った頃は『ぼく』。その後は、ずっと今みたいに『ダーリン』。
それをどうして、内側におけるだろうか。無理だね、ないね。ありえないね。
助けて。と、助けを求めたとしても、この世界は誰も助けてくれないのだと知ってるのにどうやって、そんな人間を信じろっていうのか。俺はお人よしでも間抜けでも、鈍感でもないのだ。打算的にどれだけ自分を大事にするかしか考えていない自己中だってことを忘れないで欲しい。
確かに、うわべだけの愛だとしてもレインの傍は何だかんだで居心地がよかった。でも、それだけだ。どこか寂しくて、悲しかった。
……だから、自分でその振り子の倒れる位置を決めるのをやめた。いつか自然に、その曖昧な線引きから彼女が動くのだろうと思っていた。いつか勝手に、メイリーが離れていけばいいのにと思っていたのと同じように。
そんなことあるはずないのに。
まったくもって、酷い話だ。笑えるぐらい酷い話なのに、当たり前すぎて喜劇になることもないのだから。
大体、時間でどうにかなるものなんて一つもありはしないのだ。大人に近づいても勝手に強くはなれはしないし、それどころか、大人に近づくにつれ、大人だって助けてほしいと思っている。と、知ったぐらいだ。なんだ、これ。不条理だろ。
もっと世界よ、俺に優しくあれ!!
ちなみに、歪んだ愛情の塊である俺シャド・スペクターは、絶賛、今助けて欲しい。世界さんどうぞ、よろしくお願いします! 助けを切望しているよ!! ヘイ、優しさプリーズ!!!
「言っとくけど、このあたしに喧嘩を売るってのは、殺してくださいと同義よぅ?」
「あっそう」
だって、絶賛、扉を一枚隔てたところでキャットファイトが行われているんだぜ。
しかも、喧嘩の理由が俺の居場所がどこなのかってのだったりするから、困る。困っている。
何、俺のために言い争ってるんだよ、ふふーん、モテてるぜー。とか、思えないぐらい殺気だった現場なのでちっとも嬉しくないです。なんだこれ、逆にいじめなんじゃね?
「ここに居るんでしょ、シャドが他の場所に行くわけない」
本当にこいつ、俺のことわかり過ぎてて怖い。さすが、さすがすぎるぜ、メイリー。
……け、結局行く宛てがなくなったらここに来るってばれてるーっ!!
ふ、陽が沈んじゃって今日の寝床確保しに、レインのところに頼りに来ちゃったんだぜ。
だって、仕方ないだろ。春って言っても夜は寒いんだからっ! 外で何回も寝たくなかったんだよ! お金もなかったんだよ!! 男は一朝一夕でハードボイルドにもワイルドにもなれないんだよう!!!
人の優しさに縋りながら生きるずるい人間なんだよ、俺っていうのは!! 所詮ダメ男なんだよ。ヒモ体質なんだよ、困ったら女の人頼るダメ太郎なんだよ。しくしく。
「来てないものは、来てないのぉー」
「馬鹿みたいな喋り方やめて」
「馬鹿はあんたでしょー、人のこと嘘吐き呼ばわりするば、か、お、ん、なちゃん? 顔面崩壊もしてるし。親にせぇっかく綺麗に生んで貰ったんだから大切にしなさいよぅ。ついでに言うならぁ、その綺麗な顔でひっかかった男とさっさと結婚してくれるぅ? 人さまの恋路の邪魔なのぉーよ」
ちなみに、皆さまご存知? その昔、偉い人は女の敵は、女って言ったらしいです。
……女の子って、浮気したら恋人より相手の女を責めるらしいよ。怖いねー、なんでだろうねー。男だったら恋人責めちゃうよねー。どうみても、浮気ってした人が悪くね?
まあ、それは置いておいていいんだ。男が悪いとか、女が悪いとか。だって、そもそも俺浮気してないし。
そうなんだよ、浮気していない俺が今決めるべきは、入るべきか。男として女の争いには関知しないぜっ、と回れ右するべきかなわけだよ、うんうん。
あ、個人的に男の敵は女だと思います。涙とか卑怯な武器でしかない。心抉られる。男が啼こうがわめこうが、知らん顔できるけど、女の子にやられたら瞬間、頭真っ白になるよ。びっくりするよ。血の気引くからー。
(いやー、にしてもメイリーが弱いとかどんだけ夢見てたんだろうねー、子供のお、れっ! 弱くねーよ、全然、ちっとも弱くねーからっ! つかこいつらより強い人類とか滅多に居ねーんじゃねーの、ねーよ! レインですら怖いわ、もう、声からして殺意が満ち溢れてるわっ!)
ピンチなのは、いつだって俺。俺なんです。で、今すんごい助けてほしい。誰かこの現状を打破して欲しい。ザ☆他力本願?
本性を晒してみると言う決意はしたけど、男らしく物事に立ち向かう決意はないんです。メイリーのために勇者に立ち向かう為のしかないんです。それですら、スッカスカの財布から1ギニー出すぐらいの頑張りなんです。
「あんなのに興味はない」
「あらぁん? あ、ん、な、の? 誰が勇者って言いましたぁあ? あ、実は気があるんじゃないのぅ? プープププ」
「……っ。ない、ったらない! 勇者とも言ってない!!」
「今流行りの勇者様を興味ないだなぁんて、目をハートにして追っかけてる女の子たちにぃ刺されちゃうわよ? あは、むしろ、刺されちゃえばいいのにぃー」
いやいや、アイツ相当性格悪いよ、薦めんなよ。
数年もしたら目をハートにしてる奴らも、あの頃は若かったわーって懐かしんじゃうから、今だけ甘酸っぱい初恋抱えた乙女たちなのっ! 夢見てるだけだからっ!!
あと、メイリーは刺されません。全力で阻止します!! あの化物に似たから体だけは丈夫です。ちょっと刺されたぐらいなら死なない気がする。たぶん、きっと、なんか、大丈夫な、うん、そんな気がする。盾になれる気がするようなしないような、きがしないでもない!
「欲しいならあげる。いらない」
「あたしだってぇ、いらないわよー。ダーリンだけが好きなの、愛してるのよ。……だいたぁーい、他の男とか殺したいぐらい嫌いだからぁー、最初っから選択肢にな、い、の。あんたと違って」
にしても、声だけ聞こえる世界って、逆に怖いなぁなんて……。
だって、中がどうなっているのか、わからないからいつ殺傷事件的なのが起こるかとかわからないし。
「……違わない、私だって最初っから選択肢にシャドしかないっ!」
「ねー、顔面崩壊女ちゃん、人が下手に出てるうちにぃ、帰ってくれないと、誰かが助けてくれるなんて夢壊してあげたくなるんだけどぉ? ……本音を言うと、いい加減うざったいわけ。力量もわかんない馬鹿がいきがんないでよって、思うわけ。ダーリンが嫌がるからしないだけで甘やかされたお姫様風情とか余裕で殺せるのよ、あ、た、し」
怖いよ、怖い! 無理、チキン オブ キングな俺には入れないよ!!
まあ、この店の中魔法は容易に使えないって昔言ってたからな、うん、大丈夫。おかしなことにはならない。回れ右しようか……な。回れ右したいな。
(……ああ、俺不運。ついてない。この現場に来たくなかった)
レインという女は出会った頃からすでに、俺が世界を歪に見るよりももっと邪悪な心で世界を見つめてた。
他人が嫌いらしい。というか、そもそも人間っていうものが嫌いなようだった。この女、表向き人当たり良さそうにしてても恐ろしいくらい目の奥が笑ってないのだ。基本冷めてる、むしろブリザードが吹き荒れてる。
と、言いつつ、最初はまったく気付いていなかったわけですが。なんというか、基本俺と居る時は本当に表情がコロコロ変わるし、ちゃんと表情と感情が一致してたんだよね。
気付いたのは、ここに例の魔術式を描いた人がいるって噂を聞いてやって来た騎士団の連中をボッコボコにしてた時だ。
話を聞いて焦ってやって来た子供の俺の心は罪悪感で大層傷つき、そして、後悔で怯えていた。え、俺、こんな化物じみた奴に超上から目線で寄るな触るなって噛み付いていたのかと泣きたくなったものだ。
今ですら思い出したく……げふげふ、今となっては懐かしい思い出ではあるが、あの時の表情ったらない。恐ろしいとか、怖いとかそういう次元じゃなく、うちの母親レベルの、それ以上の化物だと思った。二度とああいったシーンには出会いたくない。
あっちの化物は、ちょっとは理由を考えるだろうけど、レインがあげる理由なんて理由とも呼べないことで、些細なことなのだ。実際に、本当になんとも思ってないような顔で、人を手にかけようとした瞬間を見た俺が言うんだから間違いない。
例えば、棚にほこりが積もってたから雑巾で拭いたが、邪魔だったから人を殺しました。と早変わりするのだ。どうやったらそんな解釈できるのって、聞きたくなった。聞かないけど!!!
彼女はやってきた騎士たちを見るなりいつもの人当たりの良さそうな表情のまま、周囲の被害など気にすることなく魔法をぶっ放したらしい。
らしいというのも俺が見たのは、ボロボロの騎士たちともう向かってこないことを確認したことがさも掃除が終わってスッキリしたかのような穏やかな表情の彼女だけだからだ。
しかし、この穏やかな表情だけでも、やったんだろうなぁと思った。
本当に清々しい顔をしていたんだよ、レインは!
この時、死者がでなかったのは彼女の気紛れによるものか、神による奇跡に違いないと思っている。どっちかっていうと、後者を猛プッシュするけどね!
『ねえ、罪滅ぼしのかわりにぃお願い聞いてちょうだい?』
そんなレインが、なぜ俺をこうして気にかけるのかっていう理由は知らない。最初は確実に興味本位だったことだけはわかる。笑顔で解剖とかぬかした時点で間違いない。
……正直、わかりたくもなかったから斜め思考の俺はなぜか気に入られてしまっただけで、――飽きたら捨てられるおもちゃと同レベルでしかないのだと思うことにした。
『んだよー、悪かったって言ったろー。変な騎士団がここに来るなんて思わなかったんだって言ったじゃん』
『あら、あたしのこの乙女心は傷ついたのにぼくったら謝っただけですむと思うのっ!? おかげで、ここじゃ魔術も魔法も使えないようにいろいろ細工とかあと、二度とあいつらが来れないようにするための細工とかとにかくいろいろ大変だったんだからね!!』
『あーはいはい、わかったよ、一つだけな。言っとくけど何でもじゃなく、叶えられそうならだかんな』
植物は好き、獣も好き。なのに、他人は嫌い、むしろ、人間を憎んでる。何がどうしてそうなったのかは知らない。最初っからそうだったわけではなさそうだが人の地雷は踏まないのが俺だから、もちろんこれも知らない。
そう言ったわけで、実はレインは店でいくら閑古鳥が啼こうが実は平気だったりする。――この間店に人が居た時俺は、すこしばかり怖かった。
『今日からぼくをダーリンって呼ぶわ、愛したいから。いいでしょ?』
常々なんで、他人であるはずの俺を内側になんてこの女は入れるんだろう。って、不思議だった。ということをカミング継続中なので、言おうと思う。
俺が影で酷いことを言われているのを知らないはずないのに。俺のことを愛してるとか言うからいつだってガクブルしながら傍にいた。
俺は、母親から『大丈夫だ』って言葉が欲しかった。
俺は、メイリーから『そのままでいい』って認めて欲しかった。
どちらも本物は手に入らなかった。レインが与えてくれる紛い物を恐る恐る掴んでた。
愛は無償ではない。欲しいって駄々をこねたからって与えてなんて貰えない。どれだけ愛したって愛してくれる保証もない。
けれど、有償だとわかっている愛は、脆くて……寂しくなるんだ。
『そんなのがお願いなわけですか』
『そんなのが、お願いなわけなのですよ。だぁって、あたしも……いろいろと寂しいんだもの』
見劣りするからいつお別れになるんでしょうねと、ビクビクだった俺ですが、ついにお別れですかと、ちょっと……一瞬、センチになったりしたのに!
(表情筋が動いているだけで、全然いつもどおり、サクっとそのままの表情で人を殺せそうな顔でした、マール)
キスしそうとか勘違いされるほど顔をおかげで覗き込んでしまったし。
別に、本気で肌年齢知りたかったわけじゃないよ。つか、知りたかったら手でいいよ。顔見るとかないから。
男シャド、心決めました。
「レイン。もういいから、やめなさいって」
「シャド……」
「……ダーリン」
ちょっと、嬉しそうなメイリーの顔とか。
すんげぇ、悲しそうなレインの顔とか。
できることなら入りたくなかったです、見たくなかったよ。見ーたくーなかーったよー。
溜め息をつきたいのを必死に我慢する。
ついでに、俺はメイリーをスルーして、レインのところまで迷わず歩く。
「シャドっ!」
メイリーが俺の服の袖を掴む。やめろ、離せ。俺は、お前の幸せ制作部隊の隊員となったのだ。あと、それよりずっと昔からなんだかんだで彼女に甘やかされてたんです。
つまり、お前を手放すと決めたらかには甘やかすのは、終り。他所の誰かを択びなさい。ってことなんだって。
「なんだよ」
顔は見ない。泣かないくせに、泣きそうな顔はお上手なのを知ってるから、見ない。
「帰ろう、迎えに来た」
「帰らないよ、つか、どこに帰るんだよ。家だって言うなら、あの化物じみた母親が居る場所は嫌だね」
「じゃあ、うちに来ればいい」
「……そういう問題じゃない」
メイリーは俺のことをよくわかってる。
わかりすぎてるから根本的な大事なことを見落としている。
「もうこういうの終わりにしようか、メイリーさん。……俺は、うんざりだよ」
「シャド?」
こう言う強く何かを言おうとするとキョトンとして、俺の名前を呼ぶメイリーが好きではない。むしろ、ものすごくイラっとする。
大事なことを話している時も、酷い言葉を投げかける時も、――人の話を本当に理解して聞いているのかと疑問になる。仕草が、態度がイラつく。
「家族も、周りも、……俺はお前と居るのも嫌だっていってんの」
袖を掴む手に力が籠る。
「俺は諦めてた。考えるのもやめて、流されて適当に飼殺されて……自分がこれ以上傷つかないようにしようって。……でもさ、それって違うんだよ、メイリー」
「言ってることが、わからない」
目の前にいるレインは相変わらず、悲しげだった。
「だろうな、お前はそういう奴だよ。俺が決めたことか、俺に関係することしか自分で決めないんだ。……俺さぁ、勇者が現れてやっと気づけたんだよ。俺は三年前のあの夏のことをちっとも赦せてなかったんだって、こんな場所には生きて居たくないって逃げ出したいって思ってるって」
勇者はただのきっかけ。本当はずっと、思ってた。気づいてた。気付かないフリをしてただけ。
「……それは、勇者と結婚しろって、言ってるの?」
「どっちでもいいよ、したいならそれで。ただ、一言言えるのはさ、俺はお前と結婚しないよ」
「わ、私は……」
掴んでいる服から細かい震えが体に伝わる。
表情は一度も見てないからどんな顔をしているのかは、知らない。知ろうとはしない。知ったらどうせまた、優柔不断の心がメイリー側に傾くんだ。
男の子ですから、自分。決めたら最後まで突っ走ってから後悔することにします。
「正直言うと俺はお前が羨ましいよ、優しい家族に、才能、なんだって持ってる。……なのに、それを平気でいらないって言うんだからさ」
レインの黒い目は、闇の底を連想させる。
それを見てると思うんだ。……レインってホント俺と良く似てるって。今も、愛に飢えた子供の自分がこっちを見てる気がするんだもの、あーあ、やーねー。
『捨てるの? もう、いらないの? 後悔しないの?』って、言うみたいにさ。
「ずっと目障りだったよ、あの母親と同じかそれ以上に。……でもまー、安心しなさい、俺ちゃんと勇者との果たし合いはやるからさ」
ピタリと手の震えが止む。手は力なく離れていった。
「ごめんなさい」
声は至って普通だった。
「おばさんもいってたよ、愛するより愛されるほうが女は幸せになれるらしい。どうぞ、お幸せになってください。……俺は向いてないよ」
「……………」
返答はなかった。代わりに足音がした。
「ところで、レインさんはいつまでそんなに不機嫌な顔なんざんすか?」
「……なんて言うべきか考えてるとこ。追いかけろって言おうか、あたしへの愛なのねぇって茶化すか」
眉は八の時、口はへの字。
悲しいから今度は、不機嫌へと大変貌です。
「どっちもしなくていいよ、別に」
なんていうか、肩の荷が下りた感あるし。
ああ、でも、やっぱり、心の中がぽっかりと穴が開いて寂しいのもだいぶ大きいか。
「女の子を泣かせるなんてぇ、サイテーよぉーにしとく」
「見てないからノーカンで」
泣いたらしいです。まあ、見てないんで、真偽のほどはわかりませんが。
「わぁお、女ったらしぃ」
「それより、勇者に勝てるドーピングと本日の寝床のご提供をお願いしたいのですがっ?」
皺の寄ったレインの眉間を小突く。
……どっちにしろ、気にしたところで追いかけるわけにもいかないんだからさ、無意味ってもんですよ。
悲しいけど、現実問題、そんなとこ。本当に悲しいことにね。
「レインも勝手に逃げ出すか、愛想つかしてくれると楽なんですけどねー。でも、まあ、しばらく一緒に居てくださいよー、寂しいですしー」
「あらー、愛があるからそんなぁことしないわよぅ。でもそうねぇ、寂しいなら一緒にいてあげてもいいわぁ」
ぎこちなく彼女は笑った。
人の幸せを願うってむずかしい、ものだね。と、つくづく思うよ。ホント。
シュロム・スペクターは、屋敷に帰るなり二階の書斎を目指した。
玄関を開けた先に食事もしないで出て行った子供たちを怒り心頭で待ち伏せしていた父親とめんどくさそうに二階を見上げるその友人が居たことに気付くこともなく、二階に上がったすぐそこで母親たちがにこやかに談笑していたのに挨拶をすることもなく彼は目指した。
目的の場所に辿り着くとその場所をぐるぐると回って、目的のものを見つけ出してはそれを見るなり床に投げ捨てる動作を繰り返す。
「シュロム、挨拶もしないでお前は何……何をやっているんだい、お前はっ!」
客人が居るにも関わらず挨拶もしないという無礼な振る舞いをした息子を追いかけてきたプレザント・スペクターは息子の奇行に声を荒げた。
息子の方はといえば、声に手を止めたものの振り向かずただ視線を下に落としている。
「あぁあ、写真立てにアルバムに、スクラップブックまでとりだして……」
床に投げ捨てられたそれらをプレザントは、かき集める。
「下にはデータ新聞までっ! まったくデータ新聞は魔具だというのに、壊れたら勿体ないじゃないか!! シュロム? シュロム聞いているのかいっ!?」
しつこく名前を呼ばれてからやっとずっと落としていた視線を彼は少し上へと、動かす。
「わからないんです」
言葉の端が震えていたことに気付き、プレザントは眉をひそめる。
「? 何がだい? この奇行がかい? 部屋の後片付けは自分でしなさいね」
「わからないんですっ!!」
シュロムは声を荒げる。同時に、手に持っていた別のアルバムが地面へと落ちる。
「父様は……わかり、ますか? シャドが……あれは、誰ですか……?」
肩を小刻みに震わせ、歪んだ自身の顔を両の手できつく押さえる。
「一体、何があったんだい?」
「……弟と他人を間違えました、本人が目の前に居たのに」
深呼吸をしてから「それに」と、シュロムは更に話を続ける。
「あいつは私がメイリーを好きなのも知っていました、メイリーが自分のことも好きなことも、他人がどう思っているか誰よりも知っていた。なのに……なのにっ!」
考えの纏まらない言葉だけが、口から飛び出す。何度も何度も。狂ったように。
「おれは、あの馬鹿に逃げれないようにしてくださいっていったじゃないですかっ! あれは駄目だ、あいつはいつか居なくなる。違う、もう、居ない」
「シュロム、意味がわからないよ。お前は何が言いたいんだい? 街でシャドに会って、影の薄い子だし見間違えたのもわかった。あの子がメイリーちゃんやお前のことを気付いてないフリをしていたのもわかった」
「違う、わかってない!! 父様は何もわかっちゃいない」
その姿はまるで、悪夢を恐れる子供のようだった。居るはずもない化物に対し顔を青白くし、ガタガタと歯を鳴らし震え怯えるそれに似ていた。
「弟を間違うわけない……なのに……違う、言いたいのはそんなことじゃない。……どうして、どれもこれもシャドの顔がないんですか……、なぜ、ピンボケしてたり変に光が入っていたり、影で顔が見にくくなっているんですか……」
床に散らばる写真、写真はいくつもあると言うのに一人の人物だけが不自然に写っている。
「あいつの髪の毛の色は何色ですか、目の色は……一体何色ですか?」
「あの子の髪の色は……、目の色は……」
その回答に乾いた哂いが響いた。