音 〜私の手記〜
2年ぶりの投稿です。
私が初めてその音を聞いたのは3年前の夏真っ盛り。
地面に落ちたセミが、そろそろ最後の意地を見せ始めるころだった。
あのとき私はOLとして新人を抜け出しかけと言ったところで、私は空調の効いたオフィスで深夜の残業に勤しんでいた。
「これ、明日の会議で使うから仕上げといて」
定時で帰ろうとしていた私を縫い止めた呪いの言葉に呪詛を吐きながら、自分のデスクでカタカタとキーボードを叩く。パソコンの画面上ではプレゼンテーション用のソフトが次のスライドを片付ければ帰宅できることを示唆している。
ブラックコーヒーを一気に飲み干して、空いた缶を乱雑に放る。時刻は既に午前0時を過ぎていた。まだ幾人かの同僚が私と同じように、暗いオフィスで1人分の明かりを点けて作業しているところに闇を感じる。
たまたま忙しい時期とはいえ、昨今では中々見られない光景かもしれない。
「もうひと頑張り……よし」
そう意気込んで前のめりにパソコンを覗き込んだ。
そのとき、私は思わず動きを止めた。
ずりずりずり。かつん、かつん。
何か、何かが這いずるような、あるいは間近で靴音を鳴らして歩いているような、そんな奇妙で生理的嫌悪を呼び起こす音が聞こえたからだ。
私は慌ててオフィス内を見渡した。
そこには先ほども見た会社の闇が広がっている。何ら変わりのない景色の中、同僚たちもまた何ら変わりなく各々の業務と向き合っていた。
私はこの現象を疲労によるものだと早計にも結論づけた。幸いなことに音はすぐに治まっていたし、何より深く考える頭は当に失われて久しい。睡魔は既に私を抱擁するばかりか頬擦りまでしていた。
「さっさと仕事を終わらせて帰ろ……」
眠い頭で最後の仕上げに取り掛かる。
結局、その日退社できたのは午前1時を大きく回ってからだった。
次にその音を聞いたのは同じ年の秋ころ。
その日は雲ひとつない快晴で、中秋の名月が綺麗に見えたことを覚えている。
仕事を終えた私は帰宅の途中、自宅付近でコンビニに寄った。そこで缶ビールを数本とつまみになりそうな干物を購入する。
帰宅した私は風呂に入りもせず、小さなテーブルに買ってきた酒とつまみを広げ、テレビを点けた。このくだらないニュース番組を観ながらの晩酌は、いつの間にか週末の細やかな楽しみとなっていた。
やがてほろ酔いが泥酔に変わると、私は日頃から胸の内に溜め込んだ愚痴を独りごちていたように思う。なにぶん記憶も意識も曖昧であったから正確なことは分からないが、この後に訪れるとある瞬間まで、私はただの酔っ払いであったことに間違いはない。
「……それでは次のニュースです。国内の予防接種用ワクチンの製造を一手に担うあの製薬会社ですが」
これだ。このニュースだ。はっきりと覚えている。
私は酒に溺れた虚ろな眼差しで画面を見ていた。ニュースの内容を右から左へ聞き流していると、ふと男性アナウンサーの顔が気になった。
つらつらと原稿を読み上げる男性アナウンサーの顔の輪郭から口、鼻、そしてついに男性アナウンサーの目に辿り着く。そこで私はあり得ないことに画面の向こう側と目が合った気がした。
いや、私と目が合ったのは男性アナウンサーではなかった。その瞳の奥に何かの蠢きを見たのだ。それと目が合ったのだと今だからこそ断言できる。
しかし、このときの私はそれどころではない。
さっと血の気が引き、酔いが覚めていく。
直後、例の音を聞いた。
「ゔっ……」
口元を抑え、急いでトイレに駆け込むとそこで胃の内容物を全てぶちまけた。その間に音は止んでいたが、激しい頭痛と吐き気、眩暈に襲われた私は暫くその場から動けなかった。ひどい二日酔いの気分だった。
それからというもの例の音を聞く頻度は徐々に高くなっていった。
数ヶ月に一度だったものが1ヶ月に一度となり、1ヶ月に一度だったものが数週間に一度といった具合に。最終的には数時間に一度は聞こえるようになる。
病院へ行ったり、誰かに相談しようとしたこともあるし、実際に赴いてもみた。しかし、病院の受付で事務の女性の目の奥を覗いたとき私は気がついた。瞳の奥に蠢く何か。覗き込まれているのは私の方だったのだ。
それ以来、病院には行っていない。
街行く人々とすれ違う度に、その何かの視線を感じるようになってからは出社もしなくなった。
引きこもり始めて数日が過ぎ、私の身に更なる異変が起こる。
眠れない日々が続き、今が昼なのか夜なのかも分からず、私は部屋の隅で毛布を被っていたはずだ。それなのに次の瞬間、私は洗面台で歯を磨いていた。
まるで記憶を切り取られて強引に繋ぎ合わされたように。私にはそこへ至るまでの記憶は存在していない。
鏡に写る私は血色が良く、OLの格好でそこにいた。ぼさぼさだった髪も艶を取り戻している。ひょっとしたら社会人になる前の若々しさをも取り戻していたかもしれない。
異常がないことの異常性。
浅い呼吸のまま、私は私を覗き込む。
「………………」
あの音が聞こえる。
瞳の奥をアレが這いずる度に音が聞こえた。アレが私の中の私を食み、歯を打ち鳴らす度に音が聞こえた。アレが私に成り代わる過程が、そのまま音として頭の中に響いている。
あまりに受け入れ難い現実を前にした私は呆然としたまま洗面所を出て、ふらふらと居間に向かった。
カーテンの開かれた窓の明かりがテーブルの上のスマホに反射して、日に焼けた天井のクロスを四角く照らしている。
何気なくスマホを取るとカレンダーの日付は記憶にあるよりも数日先の未来を主張していた。
私はスマホをゴミ箱に捨てると、今度はキッチンへ包丁を取りに向かう。
もっと早くにこうしているべきだった。
自分がこれから何をしようとしているのか分かっていて、私にはそれが止められない。止まらない。私が私でなくなる恐怖は今この瞬間だけ、これ以上アレに好きにさせてなるものかという烈火によって焼き尽くされた。
鈍包丁の持つ鉛色に私という色が写る。
震える切先を絶対の覚悟を持って、私は私の右目へ近づけた。
奥にいるアレを私諸共、始末してやる。
「…………なんでよ、なんで動かないのよっ、私の手! 私の手でしょ! 他の誰でもない!」
包丁は右目に突き立てる前に動きを止めた。どれだけ押し込もうにも私の手はそれ以上進まない。汗ばむほど四苦八苦すればするだけあの音は大きくなり、ついに私の手は私ではない私の手と化した。
「は? ここは、どこ?」
次の瞬間、私は暗い夜道に立ち尽くしていた。
包丁も、キッチンも、汗ばんだ感触さえ、もうそこにはなかった。
明滅を繰り返す街灯の下、私は動転した心をそのままに私の身に何が起きたのか把握しようと努めた。
そしてスマホの日付を見て何が起きたのかを朧げに理解し、絶望する。
燃え盛る炎は焚べる燃料を無くして消えてしまった。
きっとこの意識の転移は今後も続いていく。
手元のスマホの日付は、私の記憶にある日から5日も経過していた。次はいつだろう。1週間後か。それとも1ヶ月後か。分からないけれど、その間隔は徐々に延びていくに違いない。
いつの日か、私の意識は完全に私ではなくなるのだ。
そんな考えさえもどこか他人事で乾いた笑いが出る。
もはや全てが、どうでもよかった。
そして現在に至る。
私は、私が私であるうちに、私が存在した証を手記として遺した。手記には事の始まりと、現在までを記してある。どうでもいいなりに心の整理をつけるためには丁度よかったのである。
とはいえ不自然に連続している意識は、実際には途切れているわけだから、もしかしたら私ではない私の手によって手記は処分されてしまうかもしれない。
それならそれでもよかった。全てを諦めた私に望むものはありません。私は幸福だからです。幸福であれば望む必要はありません。
私は幸福です。
私たちは常に繋がっているから。
社会は素晴らしいです。
私たちが奉仕できるから。
統率された争いのない平和な世界を享受します。それは当たり前の日常です。それに疑問を抱く人間は既に存在しません。
彼らは私たちによって幸せの中にあります。
ただ働き、ただ食べ、ただ話し、ただ笑う。
ただ眠り、ただ営み、ただ生き、ただ死ぬ。
ずりずりずり。かつん、かつん。
ずりずりずり。かつん、かつん。
私たちはそれぞれが、か細い光の射す暗い海に揺蕩っていました。時に硬い足場を這いずり、歯を打ち鳴らします。薄桃色のそれを食べて大きくなれば、か細かった光が大きくなることを知っていたからです。
まだ私たちではない人間は抵抗していますが、大丈夫です。私たちを受け入れて、彼らが私たちになれば、その全てが良くなります。
さあ、私たちを受け入れてください。
私たちを受け入れてください。
私たち以外は必要ありません。
世界中の生命が私たちを受け入れれば、私たちだけになれば、それはとても幸福なことです。素晴らしいことです。とても素敵なことです。当然です。
さあ、私たちを受け入れてください。
たくさんの人間が救われます。
素晴らしいことです。
決して恐れる必要はありません。
抵抗する必要もありません。
さあ、私たちを受け入れてください。
夏のホラー2026
テーマは「音」でお送りしました。
意識がない間、その身体は一体、誰のものなのか。




