【第二部】 第一話 名前は、もう消えない
朝の光は、以前よりも柔らかく感じる。それは季節のせいだけではない。
公爵邸の窓辺で目を覚ますたび、私はそう思う。
カーテンの隙間から差し込む白い光。石の床に落ちる影。遠くで鳴る食器の音。
すべてが、もう「ここにあるもの」として私の中に収まっている。
――消えない。
その感覚が、確かにあった。
「……起きてるか」
扉の向こうから、低い声がする。
「はい」
答えると、すぐに扉が開いた。
セドリックが立っている。黒衣に身を包み、いつも通り無駄のない身支度。
けれど、その目は少しだけ柔らかい。
「リラ」
呼ばれる。
それだけで、胸の奥が静かに温かくなる。もう、ひやりとした隙間はない。
「朝食ができている」
「パン、ですよね」
「……なぜ分かる」
「匂いがします」
焼きたての香り。少し甘く、少し焦げた匂い。
以前と違うのは、それを「失うかもしれない」と思わなくなったことだ。
食堂には、白いクロスと湯気の立つ籠が置かれている。
苺のジャム。バター。湯気の奥で、朝日が揺れていた。
「今日も、名前は大丈夫そうですね」
私が冗談めかして言うと、セドリックは一瞬だけ眉を動かす。
「……試すな」
「でも、試さなくても呼んでくれますよね」
「呼ぶ」
即答だった。私は笑って、パンを割る。
柔らかい音。中から湯気が立つ。冬至を越えて、どれくらい経っただろう。
あの夜の恐怖は、今では遠い記憶の底に沈んでいる。鈴は引き出しの奥。
灯りは、特別な“命綱”ではなく、ただの生活の一部。それでも私は、時々、確かめる。
「……セドリック」
「何だ」
「私の名前、覚えてます?」
彼は手を止め、こちらを見る。
「忘れる理由がない」
その言葉に、嘘はなかった。だからこそ、私は安心して目を伏せる。
――幸せだ。
その事実を、否定する理由は何もなかった。
午前中は、それぞれの仕事をして過ごした。私は灯りの調整。セドリックは執務。
公爵邸の廊下を歩くと、使用人たちが自然に挨拶をしてくれる。
「リラ様」
「おはようございます」
呼ばれる。それが当たり前になっている。名前は、もう私のものだ。
昼過ぎ、セドリックが私の部屋を訪ねてきた。
「今夜、夜市へ行く」
「いいんですか?」
「問題はない」
以前なら、“目立つ”とか“危険”とか、そういう理由が先に出たはずだ。今は違う。
「……行きたいなら、行く」
その言い方が、嬉しかった。
夜市は相変わらず賑やかだった。
灯り。声。食べ物の匂い。
私とセドリックは、自然に並んで歩く。
距離は近いが、触れすぎない。
「変わったな」
不意に、彼が言った。
「何がですか」
「夜市の見え方が」
私は一瞬考えてから、答える。
「……前は、必死でした」
「必死?」
「名前を失わないように。存在を繋ぎ止めるために」
今は違う。
「今は、ただ歩いていられます」
セドリックは頷いた。
「それでいい」
その言葉に、私は深く息を吸う。
そのときだった。胸の奥が、ほんの一瞬、冷えた。
「……?」
立ち止まるほどではない。でも、確かに“揺れた”。
籠の中の灯りが、小さく震えている。
「どうした」
セドリックが気づいて、足を止める。
「……気のせい、かも」
そう言いながら、私は周囲を見る。屋台。人。笑い声。
その中に、ひとりだけ妙に輪郭の薄い人影があった。
立っているのに、誰も声をかけない。避けられているわけではない。
“見えていない”ような、不自然さ。
「リラ?」
「……今、寒くなりませんでした?」
「いや」
セドリックは首を振る。
もう一度、灯りを見る。揺れは、すぐに収まっていた。
「……大丈夫です」
そう言って歩き出すと、違和感も消えた。気のせい。そう思おうとした。
でも、歩きながら、私は振り返ってしまう。さっきの場所には、もう誰もいなかった。
帰り道、セドリックが言う。
「寒かったか」
「いいえ」
私は答えてから、付け足す。
「……でも、少しだけ」
嘘ではなかった。
「外套を」
彼は何も言わず、私の肩に外套を掛ける。触れ方は、いつも通り慎重だ。
「ありがとう」
「当然だ」
公爵邸の門が見える。灯りはもう揺れていない。
胸の奥も、冷えていない。なのに、なぜか、私は思う。
――あれは、私がかつて立っていた場所に、似ていた。
呼ばれず、気づかれず、それでもそこにいた、あの感覚。
部屋に戻り、私は引き出しを開ける。銀の鈴。
今は必要ないと思っていた、小さな音。
指で触れると、冷たい。
「……まだ、終わってないのかもしれない」
そう呟くと、扉の向こうから声がした。
「何か言ったか」
「いいえ」
私は振り返り、笑う。
「おやすみなさい、セドリック」
「……おやすみ、リラ」
名前は、確かに呼ばれた。それでも私は、その夜、灯りを枕元に置いた。
念のため。ただ、それだけ。
――その灯りが、次に揺れるとき。それはきっと、私のためではない。
そんな予感だけが、静かに胸に残っていた。




