最終話【結】:それでも、呼ばれた
名前は、最後に残るものだと思っていた。
声が消え、記録が失われ、世界が私を忘れても、
名前だけは、胸の奥に残り続けるのだと。
――でも、違った。
最後に残ったのは、
呼ばれたという事実だった。
*
朝は、静かに始まった。
いつもの鈴には触れない。
灯りも、すぐには点さない。
私は窓辺に立ち、薄い雲の向こうの光を見つめていた。
春はもう終わりかけていて、風の匂いが少し変わっている。
最近、世界は私を「はっきり」見るようになっていた。
使用人は道を空ける。
庭師は挨拶をする。
記録院の修道士は、私を呼ばずに、私に話しかける。
名前はない。
でも、消えもしない。
それは、奇妙で、少し誇らしい状態だった。
――私は、もう“呼ばれなくても存在できる”。
そう思えた、初めての朝。
だから。
今日は、試すことにした。
呼ばれなくても、
私はここにいられるのか。
*
朝の時間が、ゆっくり過ぎる。
廊下の足音が、遠くで止まる。
止まったまま、動かない。
胸がざわつく。
それでも、私は動かない。
呼ばれなくても、
私は消えない。
そう信じたかった。
――でも。
扉の向こうで、
小さく、確かな「間」が生まれた。
迷いの気配。
そして、ノック。
「……入っていいか」
低い声。
少しだけ、揺れている。
私は、微笑んだ。
「はい」
扉が開く。
セドリックが立っていた。
いつも通りの黒。
でも、その表情は、いつもと違う。
“確認”ではない。
“探して、辿り着いた”顔だ。
「……今日は、合図を出さなかったな」
「はい」
「消えたかと思った」
その言葉に、胸が痛くなった。
「……消えていません」
「ああ」
彼は、頷く。
「だが、呼ばないと、分からなかった」
私は、その言葉を否定しなかった。
それが、真実だから。
私は一歩、前に出る。
「……もう、呼ばなくても大丈夫です」
言葉にした瞬間、胸が少し震えた。
「世界は、私を認識しています。
あなたが呼ばなくても、私はここにいる」
セドリックは黙った。
視線が、ほんの一瞬、床に落ちる。
「……それでも」
彼は、低く言った。
「それでも、俺は呼ぶ」
胸が、きゅっと縮む。
「どうしてですか」
私は、静かに聞いた。
「もう必要ないはずです。
あなたの未来を削るだけです」
彼は、しばらく黙っていた。
その沈黙は、長くて、重い。
やがて、彼は言った。
「必要だからではない」
私は息を止める。
「選択だ」
彼は続ける。
「呼ばなくても、おまえは消えない。
それでも、俺は呼ぶ」
――それは。
契約でも、義務でもない。
ただの、意思。
「……それは」
私の声が、少しだけ揺れる。
「代償です」
彼は、はっきりと言った。
「未来が削れるとしても、
それを選ぶ」
私は、何も言えなくなった。
この人は、最後まで変わらない。
合理よりも、選択を。
安全よりも、意思を。
「……ずるい人です」
私が言うと、彼は僅かに口角を上げた。
「よく言われる」
*
私は、深く息を吸った。
「……だったら」
顔を上げる。
「私も、選びます」
彼の目が、私を捉える。
「呼ばれなくても生きられる。
でも、呼ばれたなら、応える」
私は、はっきり言った。
「それは依存じゃありません。
選択です」
セドリックは、少しだけ驚いた顔をした。
ほんの一瞬。
「……名が戻らなくてもか」
「はい」
「完全には、救われない」
「知っています」
私は微笑んだ。
「でも、完全じゃないから、
一緒にいられる」
沈黙。
そして、彼は一歩、近づいた。
触れない距離。
でも、逃げない距離。
「……リラ」
呼ばれる。
その音は、静かで、深くて、
今までで一番、迷いがあった。
迷いのある呼び名。
それが、胸に落ちた。
「はい」
私は答えた。
この瞬間、私は理解する。
名前を取り戻すことが、救いじゃない。
忘れられないことが、幸福でもない。
選び続けることだけが、
私たちを生かしている。
*
その日から。
セドリックは、毎日私を呼ぶわけではなくなった。
呼ばない日もある。
迷って、呼ぶ日もある。
私は、呼ばれなくても消えない。
でも、呼ばれたら、必ず応える。
名前は、戻らなかった。
契約も、完全には終わらなかった。
それでも。
世界は、私を見ている。
彼は、私を呼んでいる。
それで、十分だった。
――名前を失っても。
――未来が削れても。
それでも、私は呼ばれた。
それは、
この物語の、
唯一にして、最終の真実だった。
完結
『契約の代償で名前を失うらしいので、無口な公爵様に毎日呼んでもらうことにした(続編)』




