表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『契約の代償で名前を失うらしいので、無口な公爵様に毎日呼んでもらうことにした――その後の物語』  作者: 百花繚乱


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/8

最終話【結】:それでも、呼ばれた

名前は、最後に残るものだと思っていた。


 声が消え、記録が失われ、世界が私を忘れても、

 名前だけは、胸の奥に残り続けるのだと。


 ――でも、違った。


 最後に残ったのは、

 呼ばれたという事実だった。



 朝は、静かに始まった。


 いつもの鈴には触れない。

 灯りも、すぐには点さない。


 私は窓辺に立ち、薄い雲の向こうの光を見つめていた。

 春はもう終わりかけていて、風の匂いが少し変わっている。


 最近、世界は私を「はっきり」見るようになっていた。


 使用人は道を空ける。

 庭師は挨拶をする。

 記録院の修道士は、私を呼ばずに、私に話しかける。


 名前はない。

 でも、消えもしない。


 それは、奇妙で、少し誇らしい状態だった。


 ――私は、もう“呼ばれなくても存在できる”。


 そう思えた、初めての朝。


 だから。


 今日は、試すことにした。


 呼ばれなくても、

 私はここにいられるのか。



 朝の時間が、ゆっくり過ぎる。


 廊下の足音が、遠くで止まる。

 止まったまま、動かない。


 胸がざわつく。

 それでも、私は動かない。


 呼ばれなくても、

 私は消えない。


 そう信じたかった。


 ――でも。


 扉の向こうで、

 小さく、確かな「間」が生まれた。


 迷いの気配。


 そして、ノック。


「……入っていいか」


 低い声。

 少しだけ、揺れている。


 私は、微笑んだ。


「はい」


 扉が開く。


 セドリックが立っていた。

 いつも通りの黒。

 でも、その表情は、いつもと違う。


 “確認”ではない。

 “探して、辿り着いた”顔だ。


「……今日は、合図を出さなかったな」


「はい」


「消えたかと思った」


 その言葉に、胸が痛くなった。


「……消えていません」


「ああ」


 彼は、頷く。


「だが、呼ばないと、分からなかった」


 私は、その言葉を否定しなかった。


 それが、真実だから。


 私は一歩、前に出る。


「……もう、呼ばなくても大丈夫です」


 言葉にした瞬間、胸が少し震えた。


「世界は、私を認識しています。

 あなたが呼ばなくても、私はここにいる」


 セドリックは黙った。

 視線が、ほんの一瞬、床に落ちる。


「……それでも」


 彼は、低く言った。


「それでも、俺は呼ぶ」


 胸が、きゅっと縮む。


「どうしてですか」


 私は、静かに聞いた。


「もう必要ないはずです。

 あなたの未来を削るだけです」


 彼は、しばらく黙っていた。

 その沈黙は、長くて、重い。


 やがて、彼は言った。


「必要だからではない」


 私は息を止める。


「選択だ」


 彼は続ける。


「呼ばなくても、おまえは消えない。

 それでも、俺は呼ぶ」


 ――それは。


 契約でも、義務でもない。


 ただの、意思。


「……それは」


 私の声が、少しだけ揺れる。


「代償です」


 彼は、はっきりと言った。


「未来が削れるとしても、

 それを選ぶ」


 私は、何も言えなくなった。


 この人は、最後まで変わらない。

 合理よりも、選択を。

 安全よりも、意思を。


「……ずるい人です」


 私が言うと、彼は僅かに口角を上げた。


「よく言われる」



 私は、深く息を吸った。


「……だったら」


 顔を上げる。


「私も、選びます」


 彼の目が、私を捉える。


「呼ばれなくても生きられる。

 でも、呼ばれたなら、応える」


 私は、はっきり言った。


「それは依存じゃありません。

 選択です」


 セドリックは、少しだけ驚いた顔をした。

 ほんの一瞬。


「……名が戻らなくてもか」


「はい」


「完全には、救われない」


「知っています」


 私は微笑んだ。


「でも、完全じゃないから、

 一緒にいられる」


 沈黙。


 そして、彼は一歩、近づいた。


 触れない距離。

 でも、逃げない距離。


「……リラ」


 呼ばれる。


 その音は、静かで、深くて、

 今までで一番、迷いがあった。


 迷いのある呼び名。


 それが、胸に落ちた。


「はい」


 私は答えた。


 この瞬間、私は理解する。


 名前を取り戻すことが、救いじゃない。

 忘れられないことが、幸福でもない。


 選び続けることだけが、

 私たちを生かしている。



 その日から。


 セドリックは、毎日私を呼ぶわけではなくなった。


 呼ばない日もある。

 迷って、呼ぶ日もある。


 私は、呼ばれなくても消えない。

 でも、呼ばれたら、必ず応える。


 名前は、戻らなかった。

 契約も、完全には終わらなかった。


 それでも。


 世界は、私を見ている。

 彼は、私を呼んでいる。


 それで、十分だった。


 ――名前を失っても。

 ――未来が削れても。


 それでも、私は呼ばれた。


 それは、

 この物語の、

 唯一にして、最終の真実だった。


完結


『契約の代償で名前を失うらしいので、無口な公爵様に毎日呼んでもらうことにした(続編)』

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
「救われる物語」ではなく、「選び続ける物語」として完結したことに、深い納得と静かな感動がありました。 名前や契約といった装置をすべて越えた先で、“呼ぶ/応える”という意思だけが残る結末が、この作品のテ…
答えを与えない終わり方が、この作品らしい。 すべてが解決しなくてもいい。 それでも、生き続けていく理由は残る。 静かな余韻が、長く心に残るラスト。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ