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『契約の代償で名前を失うらしいので、無口な公爵様に毎日呼んでもらうことにした――その後の物語』  作者: 百花繚乱


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7/8

第七話:名のない存在として、生きる

世界は、変わらないようで、少しずつ変わる。


 それは音もなく、痛みもなく、気づいた時にはもう戻れない種類の変化だ。


 私が最初に気づいたのは、朝の光だった。


 カーテンの隙間から差し込む光が、昨日よりはっきりしている。

 輪郭が、少しだけ強い。

 触れられるわけでも、掴めるわけでもないのに、「ある」と言われている気がした。


 私はベッドから起き上がり、いつものように鈴を手に取る。

 鳴らさずに、少しだけ指先で転がす。


 ――今日は、待つ。


 自分から合図を出さない。

 それは小さな挑戦で、同時に怖い賭けだった。


 扉の向こうは静かだ。

 使用人の足音も、廊下の気配も、遠い。


 胸の奥がざわつく。


 薄くなる。

 消える。

 呼ばれない。


 不安が、言葉になる前に膨らむ。


 その時――


 足音が聞こえた。

 確かな重さを持った足音。


 扉の前で、一瞬、止まる。


 ――間。


 そして、ノック。


「……入っていいか」


 私は、思わず息を吐いた。


「はい」


 扉が開く。

 セドリックが立っている。

 いつも通りの黒。

 いつも通りの無表情。


 でも、目が違った。


 “確認”ではない。

 “探している”。


「……リラ」


 呼ばれる。


 音が胸に落ちる。

 昨日より深い。

 でも、昨日より慎重だ。


「おはようございます」


 私はそう言って、立ち上がった。

 呼ばれたから立つのではない。

 立ちたいから立つ。


 その違いは小さい。

 けれど、決定的だった。


「……今日は、合図を出さなかったな」


 セドリックが言う。


「はい」


「理由は」


「待ってみたかったんです」


 彼は一拍置いた。

 眉が、わずかに動く。


「……不安ではなかったか」


「不安でした」


 即答だった。

 嘘をつく理由はない。


「でも」


 私は続ける。


「呼ばれる前に、ここにいる自分を確認したかった」


 セドリックは黙った。

 否定しない。

 でも、簡単に肯定もしない。


「……それで、どうだった」


 問いは、低く静かだ。


「まだ、薄いです」


 私は正直に言った。


「でも、昨日よりは、残っています」


 彼の視線が、私の腕の刻印に一瞬だけ落ちる。

 それから、すぐに私の目に戻る。


「……世界が、追いついてきている」


 ぽつりと、彼が言った。


「追いつく?」


「認識が、遅れてついてくる」


 私はその言葉を、胸の中で反芻する。


 世界が、私を後追いしている。

 名のない存在を、遅れて理解しようとしている。


 それは、消えかけていた私にとって、

 奇跡みたいな話だった。



 その日、私は初めて「一人で」邸内を歩いた。


 セドリックの隣ではなく、

 呼ばれる前でもなく。


 廊下は長い。

 絨毯の模様が、規則正しく続いている。


 使用人とすれ違う。


 一人目は、少しだけ驚いた顔をした。

 二人目は、迷ってから頭を下げた。

 三人目は、何も言わずに道を空けた。


 名前は呼ばれない。

 でも、避けられない。


 それだけで、胸が少しだけ熱くなる。


 ――私は、見えている。


 完全ではない。

 でも、昨日より確かだ。


 庭に出ると、春の風が頬に触れた。

 花の匂い。

 土の湿り気。


 私は深く息を吸う。


「……生きてる」


 誰に聞かせるでもなく、呟く。


 その時、背後から声がした。


「そうだな」


 振り返ると、セドリックが立っていた。

 少し離れた場所。

 見守る距離。


「……ついてきたんですか」


「様子を見に来た」


「過保護です」


「否定はしない」


 短い会話。

 でも、その軽さが嬉しい。


 彼は庭を見回し、言った。


「……使用人が、おまえを認識し始めている」


「名前がなくても、ですか」


「ああ」


 彼は頷く。


「存在として」


 その言葉が、胸に落ちた。


 名前ではなく、存在。

 呼び名ではなく、在り方。


 私は、少しだけ笑った。


「……それなら、私、もう少し欲張ってもいいですか」


「何を」


「名前を返す方法を、別の形で探したい」


 セドリックの目が、僅かに細くなる。

 警戒ではない。

 思考だ。


「……どんな形だ」


「忘れられない方法です」


 私は言う。


「あなたが私を忘れず、

 私も世界に残れる方法」


 沈黙。


 風が、花びらを揺らす。


「……困難だ」


「知っています」


「合理的ではない」


「それも、知っています」


 私は彼を見る。


「でも、私たちはもう、

 合理的な道を選ばないって決めました」


 彼は、ほんのわずかに口角を上げた。

 それは、ほとんど笑みと呼べないものだった。


「……ああ」


 短い肯定。



 その夜、私は机に向かった。


 紙を広げる。

 インク壺。

 ペン。


 以前は、自分の名前を書いていた。

 今日は違う。


 私は、言葉を書き始めた。


 ――彼が私を呼んだ回数。

 ――呼ぶ前に迷った時間。

 ――呼ばれなくても、世界が私を認識した瞬間。


 一つ一つ、記録する。


 名前ではなく、関係の履歴。

 呼び名ではなく、出来事の積み重ね。


 もし、契約が“糸”なら。

 これは、“布”だ。


 一本切れても、すぐには壊れない。

 何本も絡み合って、形を保つ。


 私は、これを残す。


 世界に。

 記録に。

 そして――彼に。


 扉の外で、足音が止まった。


 ノックはない。

 でも、気配がある。


「……セドリック様?」


「起きているか」


「はい」


「……少し、いいか」


 私は立ち上がり、扉を開けた。


 彼は廊下に立っていた。

 手には、何も持っていない。


「どうしました」


「……今日」


 言葉を探している。

 その間が、私は嬉しい。


「迷った」


 それだけ。


 私は微笑んだ。


「良かったです」


「良くはない」


「いいんです」


 私は言う。


「迷えるうちは、

 まだ削れきっていませんから」


 彼は、しばらく私を見ていた。

 それから、低く言った。


「……おまえは、怖くないのか」


「怖いです」


「それでも?」


「それでも、ここにいます」


 私は答える。


「名のない存在として。

 呼ばれなくても、生きられるように」


 彼は一歩、近づいた。

 触れない距離。

 でも、逃げない。


「……リラ」


 呼ばれる。


 その音は、静かで、確かだった。


 私は頷いた。


 この呼び名が、いつか変わるかもしれない。

 消えるかもしれない。


 それでも。


 私はもう、ただ呼ばれるだけの存在じゃない。


 名がなくても、

 記録がなくても、

 忘れられる可能性があっても。


 私は、ここにいる。


 そして、次に来る最終話で、

 私たちは――

 「名前を取り戻す結末」ではない、

 本当の意味での“終わり”を選ぶ。

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― 新着の感想 ―
「名がない=不在」ではなく、「名がなくても在る」段階へ物語が進んだことを、静かな手応えで示す一話でした。 呼ばれるのを待たずに立ち、記録を書くという行為が、リラの主体性と強さを端的に表しています。 セ…
答えを与えない終わり方が、この作品らしい。 すべてが解決しなくてもいい。 それでも、生き続けていく理由は残る。 静かな余韻が、長く心に残るラスト。
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