第六話:選ばない選択
夜は、考え事を許しすぎる。
公爵邸の廊下は、昼よりも音が少ない。
足音が一つ響くたび、思考が深く沈んでいく。
私は自室の前で立ち止まった。
扉を開ける前に、胸に手を当てる。
――名前が戻る。
――でも、彼は私を忘れる。
合理的な道。
正しい道。
世界が一番、納得する結末。
それなのに、私の心は拒絶している。
扉の向こうは暗かった。
灯りを点さず、私は椅子に腰を下ろす。
暗闇の中の方が、考えやすい。
刻印が、じくじくと痛む。
昼間より、はっきりと。
それは傷の痛みというより、存在を主張する熱だった。
「……忘れられる」
声に出すと、言葉が部屋に残る。
戻ってこない。
冬至の夜。
名前を呼ばれたあの瞬間。
朝の光の中で、当たり前のように呼ばれた日々。
それらが全部、彼の中から消える。
私だけが覚えている未来。
それは、私にとって――
生きていると言えるのだろうか。
*
ノックの音がした。
一度。
控えめで、でも迷いのない音。
私は息を整えた。
「……入っていいですか」
セドリックの声。
「はい」
扉が開く。
暗闇の中で、彼の輪郭だけが見える。
「灯りを点けないのか」
「今は、このままで」
彼は一歩、中に入った。
扉を閉める音が、小さく響く。
沈黙。
私は暗闇の中で、彼を見る。
彼も、私を見ているはずだ。
「……選ぶのか」
低い声。
「何を、ですか」
分かっているのに、私は聞き返す。
「“切る”道だ」
その一言で、胸が締めつけられる。
「まだ、決めていません」
「そうか」
短い返事。
でも、失望も安堵も混じっている気がした。
彼は少し間を置いて言う。
「……俺は、選ばない」
「知っています」
「だが」
言葉が、止まる。
その間が、怖い。
迷いが減っているはずなのに、それでも言葉を探している。
「……おまえが選ぶなら、止めない」
胸が痛くなる。
「それは、私に責任を押しつけているわけじゃないですよね」
「違う」
即答。
「おまえの選択を、奪わないだけだ」
奪わない。
それは、自由であり、重さでもある。
私は立ち上がり、彼に近づいた。
暗闇の中でも、距離は分かる。
「……もし、私がその道を選んだら」
声が震える。
「あなたは、私を忘れる」
「そうだ」
「私が泣いても」
「覚えていない」
「私があなたを呼んでも」
「……呼ばれない」
淡々とした答え。
だからこそ、残酷だ。
私は深く息を吸った。
「それでも、私が生きていけると思いますか」
しばらく、返事がなかった。
やがて、彼は低く言った。
「生きられる」
「どうして」
「世界が、おまえを認識する」
名前がある。
居場所がある。
役割がある。
それは確かに、生きる条件だ。
「……でも」
私は続ける。
「あなたが私を覚えていない世界で、
私は“私”でいられますか」
沈黙が落ちる。
彼は答えなかった。
答えられなかった。
その沈黙が、答えだった。
*
私は、自分の腕の刻印に触れた。
暗闇でも、そこにあるのが分かる。
刻んだのは、関係。
それを自分で切る。
そんな選択が、本当に“生きる”ことなのだろうか。
「……セドリック様」
「何だ」
「もし、私が選ばなかったら」
声が小さくなる。
「あなたの未来は、削れ続けます」
「そうだ」
「それでも?」
「……それでも」
その言葉が、あまりにも静かで、強い。
私は目を閉じた。
――ずるい人だ。
自分の未来より、私を選ぶ。
それを当然のように言う。
それなら。
私は、自分の中で何かが決まる音を聞いた。
「……私、選びません」
言葉にした瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなる。
「その道は、選びません」
セドリックの呼吸が、わずかに深くなった。
「理由は」
「忘れられるのは、死ぬのと同じだから」
私は言い切った。
「名前が戻っても、
あなたに呼ばれないなら、私はまた消えます」
沈黙。
長い沈黙。
それから、彼は一歩近づいた。
触れない距離を、越えない。
でも、限界まで近い。
「……後悔しないか」
「分かりません」
正直な答え。
「でも、後悔する可能性がある道より、
確実に失う道を選ばない」
彼は、わずかに口角を動かした。
笑みとも言えない、安堵の影。
「……そうか」
その一言に、温度があった。
*
次の朝。
私は、呼ばれるのを待たなかった。
鈴を手に取り、そっと鳴らす。
澄んだ音が、部屋に広がる。
――合図。
扉の向こうで、足音が止まる。
一拍。
そして、ノック。
「……入っていいか」
「はい」
扉が開く。
セドリックは、いつも通りの姿だった。
でも、目だけが、少し違う。
私を見る目が、
“確認”から“受け取る”に変わっている。
「……リラ」
呼ばれる。
その音は、昨日より少し深い。
私は息を吐いた。
「昨日、決めました」
「聞こう」
「“切る”道は、選びません」
彼は一拍置いた。
迷いではない。
受け止めるための間。
「……分かった」
短い返事。
でも、その短さの中に、確かな重さがある。
私は続けた。
「ただし」
「条件か」
「はい」
私は、彼を見る。
「あなたが削れていくのを、見過ごしません。
迷いがなくなったら、止めます。
選択肢が減ったら、私が選びます」
彼は、少しだけ考えた。
「……面倒だな」
「知っています」
「だが」
彼は言う。
「それでいい」
胸の奥が、静かに灯った。
その日の午後、私は初めて気づいた。
セドリックが、扉の前で立ち止まり、
“迷ってから”私を呼んだことに。
ほんの、ほんの一瞬。
でも、その一瞬は、
彼の未来が、まだ完全には削れていない証拠だった。
「……リラ」
呼ばれる。
私は微笑んだ。
選ばない選択をしたことで、
私たちは、少しだけ危うい道を進む。
でも、それでいい。
失う未来があるなら、
一緒に、迷いながら歩けばいい。
――選ばない、という選択は、
私たちが“生き続ける”ための選択だった。
この先に待つ結末が、
まだ見えなくても。
私は、今ここにいる。
呼ばれている。
それだけで、十分だと思えた。




