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『契約の代償で名前を失うらしいので、無口な公爵様に毎日呼んでもらうことにした――その後の物語』  作者: 百花繚乱


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第六話:選ばない選択

夜は、考え事を許しすぎる。


 公爵邸の廊下は、昼よりも音が少ない。

 足音が一つ響くたび、思考が深く沈んでいく。


 私は自室の前で立ち止まった。

 扉を開ける前に、胸に手を当てる。


 ――名前が戻る。

 ――でも、彼は私を忘れる。


 合理的な道。

 正しい道。

 世界が一番、納得する結末。


 それなのに、私の心は拒絶している。


 扉の向こうは暗かった。

 灯りを点さず、私は椅子に腰を下ろす。

 暗闇の中の方が、考えやすい。


 刻印が、じくじくと痛む。

 昼間より、はっきりと。


 それは傷の痛みというより、存在を主張する熱だった。


「……忘れられる」


 声に出すと、言葉が部屋に残る。

 戻ってこない。


 冬至の夜。

 名前を呼ばれたあの瞬間。

 朝の光の中で、当たり前のように呼ばれた日々。


 それらが全部、彼の中から消える。


 私だけが覚えている未来。


 それは、私にとって――

 生きていると言えるのだろうか。



 ノックの音がした。


 一度。

 控えめで、でも迷いのない音。


 私は息を整えた。


「……入っていいですか」


 セドリックの声。


「はい」


 扉が開く。

 暗闇の中で、彼の輪郭だけが見える。


「灯りを点けないのか」


「今は、このままで」


 彼は一歩、中に入った。

 扉を閉める音が、小さく響く。


 沈黙。


 私は暗闇の中で、彼を見る。

 彼も、私を見ているはずだ。


「……選ぶのか」


 低い声。


「何を、ですか」


 分かっているのに、私は聞き返す。


「“切る”道だ」


 その一言で、胸が締めつけられる。


「まだ、決めていません」


「そうか」


 短い返事。

 でも、失望も安堵も混じっている気がした。


 彼は少し間を置いて言う。


「……俺は、選ばない」


「知っています」


「だが」


 言葉が、止まる。


 その間が、怖い。

 迷いが減っているはずなのに、それでも言葉を探している。


「……おまえが選ぶなら、止めない」


 胸が痛くなる。


「それは、私に責任を押しつけているわけじゃないですよね」


「違う」


 即答。


「おまえの選択を、奪わないだけだ」


 奪わない。

 それは、自由であり、重さでもある。


 私は立ち上がり、彼に近づいた。

 暗闇の中でも、距離は分かる。


「……もし、私がその道を選んだら」


 声が震える。


「あなたは、私を忘れる」


「そうだ」


「私が泣いても」


「覚えていない」


「私があなたを呼んでも」


「……呼ばれない」


 淡々とした答え。

 だからこそ、残酷だ。


 私は深く息を吸った。


「それでも、私が生きていけると思いますか」


 しばらく、返事がなかった。


 やがて、彼は低く言った。


「生きられる」


「どうして」


「世界が、おまえを認識する」


 名前がある。

 居場所がある。

 役割がある。


 それは確かに、生きる条件だ。


「……でも」


 私は続ける。


「あなたが私を覚えていない世界で、

 私は“私”でいられますか」


 沈黙が落ちる。


 彼は答えなかった。

 答えられなかった。


 その沈黙が、答えだった。



 私は、自分の腕の刻印に触れた。

 暗闇でも、そこにあるのが分かる。


 刻んだのは、関係。

 それを自分で切る。


 そんな選択が、本当に“生きる”ことなのだろうか。


「……セドリック様」


「何だ」


「もし、私が選ばなかったら」


 声が小さくなる。


「あなたの未来は、削れ続けます」


「そうだ」


「それでも?」


「……それでも」


 その言葉が、あまりにも静かで、強い。


 私は目を閉じた。


 ――ずるい人だ。


 自分の未来より、私を選ぶ。

 それを当然のように言う。


 それなら。


 私は、自分の中で何かが決まる音を聞いた。


「……私、選びません」


 言葉にした瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなる。


「その道は、選びません」


 セドリックの呼吸が、わずかに深くなった。


「理由は」


「忘れられるのは、死ぬのと同じだから」


 私は言い切った。


「名前が戻っても、

 あなたに呼ばれないなら、私はまた消えます」


 沈黙。


 長い沈黙。


 それから、彼は一歩近づいた。


 触れない距離を、越えない。

 でも、限界まで近い。


「……後悔しないか」


「分かりません」


 正直な答え。


「でも、後悔する可能性がある道より、

 確実に失う道を選ばない」


 彼は、わずかに口角を動かした。

 笑みとも言えない、安堵の影。


「……そうか」


 その一言に、温度があった。



 次の朝。


 私は、呼ばれるのを待たなかった。


 鈴を手に取り、そっと鳴らす。

 澄んだ音が、部屋に広がる。


 ――合図。


 扉の向こうで、足音が止まる。

 一拍。

 そして、ノック。


「……入っていいか」


「はい」


 扉が開く。


 セドリックは、いつも通りの姿だった。

 でも、目だけが、少し違う。


 私を見る目が、

 “確認”から“受け取る”に変わっている。


「……リラ」


 呼ばれる。


 その音は、昨日より少し深い。


 私は息を吐いた。


「昨日、決めました」


「聞こう」


「“切る”道は、選びません」


 彼は一拍置いた。

 迷いではない。

 受け止めるための間。


「……分かった」


 短い返事。


 でも、その短さの中に、確かな重さがある。


 私は続けた。


「ただし」


「条件か」


「はい」


 私は、彼を見る。


「あなたが削れていくのを、見過ごしません。

 迷いがなくなったら、止めます。

 選択肢が減ったら、私が選びます」


 彼は、少しだけ考えた。


「……面倒だな」


「知っています」


「だが」


 彼は言う。


「それでいい」


 胸の奥が、静かに灯った。


 その日の午後、私は初めて気づいた。


 セドリックが、扉の前で立ち止まり、

 “迷ってから”私を呼んだことに。


 ほんの、ほんの一瞬。


 でも、その一瞬は、

 彼の未来が、まだ完全には削れていない証拠だった。


「……リラ」


 呼ばれる。


 私は微笑んだ。


 選ばない選択をしたことで、

 私たちは、少しだけ危うい道を進む。


 でも、それでいい。


 失う未来があるなら、

 一緒に、迷いながら歩けばいい。


 ――選ばない、という選択は、

 私たちが“生き続ける”ための選択だった。


 この先に待つ結末が、

 まだ見えなくても。


 私は、今ここにいる。


 呼ばれている。


 それだけで、十分だと思えた。

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― 新着の感想 ―
「選ばない」という否定の選択が、ここまで強い肯定になる回だと感じました。 合理や正解を拒み、忘れられないこと・呼ばれ続けることを“生”として掴み取るリラの決断が、静かに胸を打ちます。 迷いを失いつつあ…
主人公が“前に進む”というより、 “立ち止まることをやめる”瞬間が描かれる。 派手さはないが、とても誠実な転換点。
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