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『契約の代償で名前を失うらしいので、無口な公爵様に毎日呼んでもらうことにした――その後の物語』  作者: 百花繚乱


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第五話:名前を返す方法

痛みは、あとから来る。


 刻印を終えた直後は、熱が走っただけだった。

 針が触れた瞬間の鋭さより、終わったあとにじわじわ滲む熱の方が、長く残る。


 私の腕にも、セドリックの腕にも、同じ位置に小さな印ができた。

 文字ではない。

 花でもない。

 意味だけが刻まれた、関係の形。


 ――世界に刻まれた。


 それが、私を少しだけ安心させたのも束の間だった。


 記録院を出る直前。

 セドリックが私を見て、ほんの一拍遅れて呼んだ。


「……リラ」


 その一拍は、痛みより怖い。


 遅れた呼び名の中に、失われる未来の音が混ざっている気がした。

 これ以上削れたら、この人は――。


 馬車の中は静かだった。

 春の夕方の光が窓から差し込んで、セドリックの横顔を淡く照らす。

 無駄な装飾のない横顔。

 でも、その静けさの中に、私は見てはいけない揺れを見つけてしまう。


 視線が、ほんの一瞬だけ空を彷徨う。

 判断が、わずかに遅れる。

 呼吸が、深い。


 ――迷いが減っている。


 迷いが減ることは、楽になることのはずなのに。

 この人の場合、それは“削れる”ことだ。


 私は手のひらを握った。

 刻印の熱が、まだ残っている。

 その熱を頼りに、自分の輪郭を確かめる。


「……痛みますか」


 私が尋ねると、セドリックは一拍置いてから答えた。


「痛む」


 嘘をつかない。

 でも、それ以上は言わない。


「私の方は……熱いです」


「見せろ」


 彼はいつものように「許可」を求めない。

 でも強引ではない。

 手を出すまで待つ。


 私はそっと腕を差し出した。

 彼の指が、印の少し下に触れる。

 刻印そのものには触れない。

 痛みを増やさないための距離。


 その指先が温かい。


「……赤い」


「あなたも、赤いです」


「そうか」


 それで終わるはずなのに、彼は指を離さなかった。

 離す理由がない、と言わんばかりに。


 私は息を止める。

 こういう瞬間が、怖いほど甘い。


 名前がなくても、私はこの人の指先の温度で生きていける気がしてしまう。

 そんな錯覚が、怖い。


「……リラ」


 近い声。

 胸の奥が灯る。


 その灯りのせいで、私は決めてしまった。


 ――この人の未来を削るままにはしない。



 公爵邸に戻ると、いつもより使用人たちの動きが静かだった。

 目が合えば頭を下げる。

 それだけ。

 誰も、私を名乗らせようとしない。


 それが優しさなのか、恐れなのか。

 どちらでもいい。

 私が薄くならないなら。


 廊下を曲がる時、私は足を止めた。

 セドリックは少し先を歩いていたが、すぐに気づいて振り返る。


「どうした」


「……あなたの腕、もう一度見てもいいですか」


「見ればいい」


 そう言って、彼は手袋を外し、袖を少し上げた。

 刻印は赤く、周囲がわずかに腫れている。

 それが痛々しいのに、同時に――美しいと思ってしまう自分が嫌だった。


 美しい、なんて言葉で包んでいい痛みじゃない。


「……痛いですか」


「痛い」


「当たり前です」


 私は唇を噛んだ。


「ごめんなさい」


 言った瞬間、自分でも驚いた。

 謝るべきことじゃない。

 これを選んだのは彼で、そして私でもある。


 でも、謝らずにいられなかった。


 セドリックは一瞬だけ目を伏せた。


「謝るな」


「でも」


「……選んだ」


 彼が言う。


「俺が、選んだ。おまえも、選んだ。だから謝るな」


 選択。

 その言葉が、また胸に刺さる。


 迷いが削れていく中で、それでも「選んだ」と言えるこの人が、怖いくらい強い。

 強いからこそ、壊れてほしくない。


 私は息を吸って言った。


「……明日、また記録院に行きたいです」


「必要か」


「必要です」


 即答だった。

 迷いがないのは、今度は私の方だった。


「方法を探したい」


 セドリックは私を見て、一拍置いた。


「……何の方法だ」


「あなたが失うものを止める方法」


 彼の目がわずかに揺れた。


「俺のことは」


「私のことです」


 私は言い切った。

 苦しいけれど、言い切る。


「私がここにいるために、あなたが削れる。

 それなら、私は“ここにいる方法”を変える」


 セドリックは黙った。

 その沈黙が長い。


 そして、低く言った。


「……行く」


 早い返事じゃない。

 迷いがある返事。

 だから、私は少しだけ救われた。



 翌日。

 春の朝は、昨日より少し冷えた。


 私はいつも通り、鈴に触れ、灯りを点した。

 そして扉の向こうの足音を待つ。


 足音は来た。

 来たのに、いつもより少しだけ遅い。


 胸がざわつく。


 ノック。


「入っていいですか」


「はい」


 セドリックが入ってくる。

 目が私を見る。

 そこに揺れはない。

 それだけで安堵してしまう自分が、怖い。


「……リラ」


 呼ばれる。

 今日は遅れない。


 私は呼吸を整える。

 大丈夫。

 今日、私がするのは“止める”ための準備だ。


 馬車の中で、私は言った。


「今日、レオニスさんに聞きたいことがあります」


「何だ」


「……契約を完全に終わらせる方法です」


 空気が変わった。


 馬車の揺れが止まったみたいに感じた。

 セドリックの呼吸が、ほんの少し深くなる。


「終わらせたいのか」


 低い声。

 怒ってはいない。

 でも、硬い。


 私は首を横に振った。


「終わらせたいんじゃありません」


「なら」


「“終わらせられるかどうか”を知りたいんです」


 私は言葉を選ぶ。


「終わらせられるなら、その代償も知りたい。

 選ぶために」


 セドリックは一拍置いて言う。


「……選ぶのは、おまえだ」


 その言葉が、少しだけ痛かった。

 選ぶのが私なら、責任も私が持つ。

 それが怖い。

 でも、逃げない。



 記録院は、昨日より静かだった。

 紙の匂いが濃く、空気が乾いている。


 修道士が頭を下げる。


「公爵様。……リラさん」


 呼ばれる。

 揺れない。

 刻印の効果かもしれない。

 でも、だからといって安心してはいけない。

 私たちは“糸”を増やしただけで、糸の消耗を止めたわけじゃない。


 奥でレオニスが待っていた。

 白い法衣。

 相変わらず正しい顔。


 昨日とは違う。

 今日は、彼の目が少しだけ警戒している。


「早いですね」


「聞きたいことがある」


 セドリックが言う。


 レオニスは私を見る。


「リラさん。刻印はどうですか」


「痛いです」


 正直に言うと、彼は少しだけ頷いた。


「痛みは固定の証です。――良い兆候ですね」


 その言い方が、嫌だ。

 痛みを“良い”と言う人は、痛みを引き受けていない。


 私はそのまま言った。


「契約を完全に終わらせる方法はありますか」


 レオニスの表情が、一瞬だけ止まった。

 笑顔が消える。

 正しさの皮が薄くなる。


「……あります」


 静かな答え。


 セドリックの指が、わずかに動いた。


「ただし」


 レオニスは続けた。


「それは、“終わらせる”というより、“切る”です」


「切る」


 私が繰り返すと、彼は頷く。


「契約の糸を断ち切る。

 その瞬間、あなたの名は戻る可能性が高い。

 なぜなら、糸がほどくものを支えていたから」


 胸が鳴る。

 名前が戻る。

 それは――ずっと望んでいたはずの言葉。


 なのに、喜べない。


「代償は」


 セドリックが低く言う。


 レオニスは、淡々と答えた。


「公爵様が、彼女を忘れます」


 言葉が、床に落ちた。


 私の耳が一瞬、何も聞こえなくなる。

 紙の匂いも、足音も、遠くなる。


「……忘れる?」


 私はやっと声を出した。

 自分の声が、ひどく薄い。


「正確には、“リラという存在を固定していた記憶”が抜け落ちます」


 レオニスは説明する。

 でも、その説明は私を助けない。


「彼女と過ごした時間。

 冬至の夜。

 呼び続けた朝。

 その全てが、糸と一緒に切れます」


 私は息ができない。


 セドリックは動かない。

 表情も変えない。

 でも、私は分かってしまう。


 この人は、今、傷ついている。


「……それでも、彼女は生きられる」


 レオニスが言う。


「名前も戻る。

 世界に認識される。

 普通の生活に戻れるでしょう」


 普通。

 その言葉が、私には刃物みたいだった。


 普通に戻れる。

 名前が戻る。

 世界に認識される。


 でも。


 セドリックが私を忘れる。


 私は、無意識に自分の腕の刻印を押さえた。

 熱い。

 痛い。

 昨日より少し痛い。


 関係を刻んだのに、忘れられる。

 それは、笑えるほど残酷だった。


「……公爵様は、どうなりますか」


 私が尋ねると、レオニスは一拍置いた。


「未来の削れは止まる可能性が高い」


 セドリックの未来は守られる。

 私の名前も戻る。

 世界も私を認識する。


 ――正しい。


 正しすぎる。

 そして、私の心だけが切り捨てられる。


 私は、震える息で言った。


「それが……唯一の方法ですか」


「唯一ではありません」


 レオニスは言う。


「ただ、最も確実で、最も合理的です」


 合理的。

 その言葉が、ここで出てくるのが最悪だった。


 私はセドリックを見る。

 彼は私を見ていた。

 いつもの目。

 逃げない目。


「……セドリック様」


 私は声を絞り出す。


「あなたは、それを選びますか」


 セドリックは一拍置いた。

 その一拍が、私には救いだった。

 まだ迷える。

 まだ選択肢がある。


 そして彼は言った。


「選ばない」


 短い。

 迷いがないように聞こえるほど短い。


 私の胸が痛い。


「どうして」


 私は聞いてしまう。


 セドリックは、しばらく黙っていた。

 彼は多弁ではない。

 でも今、言葉が必要だ。


 彼は、私の腕の刻印を見る。

 自分の腕の刻印を見る。

 それから、私の目を見た。


「……忘れたら、呼べない」


 それだけだった。


 忘れたら、呼べない。

 呼べないなら、私は薄くなる。

 薄くなるなら――また消える。


 つまり。


 私の名前が戻っても、私はまた消える可能性がある。

 セドリックが忘れた瞬間に。


 私は震えた。


「それは……」


「選ばない」


 彼は繰り返した。


「俺が忘れる道は、俺が選ばない」


 私は目を閉じた。

 涙が出そうだった。


 嬉しいのに。

 怖いのに。

 苦しいのに。


 この人は、未来を守るより、私を守ることを選ぶ。


 それは愛だ。

 でも、それは――代償でもある。


 私は息を吸って、言った。


「……だったら、私が選びます」


 セドリックの目が、僅かに揺れた。


「何を」


「その“合理的な道”を選ぶかどうかを、私が決めます」


 私は言い切った。

 胸が痛い。

 でも、言い切らないと戻ってしまう。

 守られる側に。


「あなたが選ばないなら、私が選ぶ。

 あなたが迷えなくなるなら、私が迷う。

 だから、今、時間をください」


 レオニスが口を挟む。


「時間は、削れますよ」


 嫌味でも脅しでもない。

 事実の言い方。


 私は頷いた。


「分かっています」


 分かっている。

 だからこそ、選ばなければならない。


 セドリックが低く言った。


「帰る」


 それだけ。

 でも、その声はいつもより硬い。


 私は小さく頷き、彼の後について歩いた。

 記録院の廊下は長い。

 足音が反響し、紙の匂いが強くなる。


 私は心の中で、何度も繰り返す。


 名前が戻る道。

 彼が私を忘れる道。

 合理的な道。


 それは、私にとって“死”に近い。


 でも、彼の未来を守る道でもある。


 私は、刻印の痛みを押さえながら思う。


 ――選ぶのは、私だ。


 そして、私は知っている。


 この物語の「転」は、もう始まっている。


 帰りの馬車の中で、セドリックは窓の外を見たまま、低く言った。


「……リラ」


 呼ばれる。


 その音が、いつもより、怖かった。


 もしこの音が、消える未来があるなら。

 もしこの人が、私を忘れる未来があるなら。


 私は今すぐにでも、この音を胸の奥に刻みたい。


 ――名前じゃなく。

 音の形で。


 私たちの“その後”は、

 ここからが、試される。

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― 新着の感想 ―
選択肢が「救い」ではなく「喪失」として提示されるのが、あまりに残酷で美しい回でした。 名前が戻る代わりに忘れられるという合理性が、二人の関係にとってはほとんど死に等しいと読者に突きつけてくる構成が鋭い…
小さな変化が起きる回。 誰かの一言、些細な出来事が、 止まっていた時間をほんの少しだけ動かす。
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