第四話:それでも呼ぶ理由
春の夕方は、光が長い。
長いのに、あっという間に沈む。
窓の外の空が薄桃色から橙に変わり、雲の縁が燃えるように揺れたあと、ふっと冷える。
その変わり目の瞬間が、私は苦手だった。
――薄くなる。
何が、とは言わない。
でも、胸の奥がそう囁く。
第三話でセドリックが口にした「選択肢が消える」という言葉は、私の中でまだ落ちていない石みたいに沈んでいた。
水底に沈んだまま、時々、気泡を吐く。
気泡の音が胸を刺す。
私は机の上に、白い紙を広げた。
インク壺、ペン先。
指先が少し震える。
――呼び名以外の固定を増やす。
彼が言った対策。
レオニスが言った対策。
そして、私が言った覚悟。
「迷いは、私が引き受ける」
勢いで言った言葉なのに、今はその重さが体温みたいに残っている。
覚悟は言葉でできるけれど、実行は日常でできる。
日常は毎日やってくる。
逃げ道がない。
私はペンを握り、紙に文字を書いた。
――リラ。
自分の名。
いや、正確には「呼ばれている音の形」。
書いても書いても、しっくりこない。
紙の上の「リラ」は、世界の中の私と同じではない。
だから、固定というのは難しい。
ふと、扉の向こうから足音が聞こえた。
硬い靴音。
床板のわずかな軋み。
胸が勝手に温度を上げる。
「……リラ」
低い声。
いつもより少し近い気がした。
「はい」
返事をしながら、私は慌てて紙を伏せた。
隠す必要はないのに、反射的に隠してしまう。
自分が必死なのを見られるのが恥ずかしい。
セドリックが入ってくる。
黒い服。
整った襟元。
表情は変わらないのに、目の奥だけが私の温度を測ってくる。
「……何をしていた」
「書き物です」
「書き物」
言葉を繰り返す。
その癖は、彼が確かめる時に出る。
「対策です。呼び名以外の固定を増やすために」
私は伏せた紙を持ち上げて見せた。
紙には、「リラ」という文字が何度も並んでいる。
少し歪んだ字もある。
力が入りすぎた線もある。
セドリックは紙を見て、ほんのわずかに眉を動かした。
「……おまえも、確認するのか」
「あなたがしているなら、私もします」
彼は一瞬、何か言いかけてやめた。
その間が、私は好きだ。
彼の中の迷いが、まだ消えていない証拠だから。
「……無理はするな」
「無理ではありません。……ただ、怖いだけです」
私は正直に言った。
正直に言えるようになったのは、たぶん、冬至の夜のせいだ。
セドリックは視線を紙から私に戻した。
「怖いなら、呼ぶ」
即答。
変わらない答え。
それが、今は少しだけ痛い。
「……呼ばない方が、あなたの未来は削れません」
言った瞬間、自分で嫌になった。
これは、彼に「やめろ」と言っているのと同じだ。
言わないと決めたのに。
でも、止められない。
「削れる」
彼は淡々と肯定した。
「でも、呼ばないと、おまえが薄くなる」
その言葉で、私は何も言えなくなる。
矛盾。
でも、矛盾が私たちの日常だ。
私は、ゆっくり息を吐いた。
「……だから、別のやり方を考えたいんです」
「別のやり方」
「“呼ぶ”以外で私を固定する方法が増えれば、呼ぶ回数を減らせるかもしれない」
セドリックの目が細くなる。
否定の前の顔ではない。
思考の顔だ。
「……合理的だ」
ぽつりと彼が言った。
その言葉に、私は少しだけ安堵する。
合理性という形に乗れば、彼は動ける。
「それで、試すのか」
「はい」
私は頷いた。
喉が渇いているのに、言葉は出た。
「今日から。できるだけ、呼ぶ回数を――」
「駄目だ」
切り捨てるような声ではない。
でも、即答だった。
私は目を瞬いた。
「……どうしてですか」
「試すなら、条件を決める」
彼は机の端に手を置いた。
触れない。
でも、逃げない。
「おまえの安全を優先する。
呼ぶ回数を減らすのは、その後だ」
「安全は、呼ばれることで確保されている。でも呼ぶことであなたが――」
「俺の未来より、おまえが先だ」
短い。
重い。
反論の余地がない。
でも私は、反論したかった。
「それは、私が望みません」
「望む」
彼が言い切る。
「それが、俺の選択だ」
選択。
その言葉が刺さる。
彼は選択肢を失っているかもしれないのに、それでも「選ぶ」と言う。
私は唇を噛んだ。
「……だったら、私も選びます」
「何を」
「あなたが迷わなくなるなら、私が迷う。
あなたが未来を失うなら、私が未来を増やす。
だから、私に“止める権利”をください」
言い終えると、胸が痛かった。
止める権利。
そんなものを言葉にした瞬間、自分が傲慢に見えた。
セドリックは静かに私を見た。
長い沈黙。
やがて、彼は低く言った。
「……権利ではない。
おまえが止めたいなら、止めればいい」
それは、許可だった。
私を“選ぶ存在”として認めた言い方だった。
私は、少しだけ息が楽になる。
「……ありがとう」
「礼は要らない」
相変わらずの返答。
でも、目は少しだけ柔らかい。
*
翌朝、私はいつもより早く起きた。
薄い光がカーテンの隙間から差し込む頃。
まだ鳥の声も少ない時間。
枕元の鈴に触れ、冷たさを確かめる。
小さな灯りを点し、炎の揺れを見つめる。
呼ばれなくても、私はここにいる。
そう自分に言い聞かせる。
けれど――扉の向こうが静かすぎると、胸がざわつく。
足音が遅い。
いつもなら、もう聞こえるはずなのに。
私は手を握った。
大丈夫。
呼ぶ回数を減らす、と言ったわけじゃない。
条件を決めるだけだ。
それでも、不安は勝手に膨らむ。
――薄くなる。
その瞬間、扉の向こうから足音が聞こえた。
少し速い。
普段より速い。
ノックが一度。
「入っていいですか」
声はいつも通り。
でも、ほんの少しだけ硬い。
「はい」
セドリックが入ってくる。
いつもの黒。
いつもの姿勢。
でも、目が違った。
私を測るというより、確認を急いでいる目。
「……リラ」
呼ばれた。
胸の奥が温まる。
それはいつもと同じはずなのに――なぜか、彼の呼び方が少しだけ浅い。
浅い、というのはおかしい。
音は同じ。
でも、重みが違う。
いつもなら胸に落ちる石が、今日は途中で弾む。
私は思わず立ち上がった。
「……今、迷いませんでしたか」
自分でも変な問いだと思った。
でも、口に出た。
セドリックは一瞬、視線を外した。
「迷い?」
「呼ぶ前に、いつも少しだけ間があるのに」
私は言い切ったあとで、気づく。
私は彼の“間”に救われていたのだ。
間があるから、彼は機械ではなく人でいられる。
間があるから、選択がある。
セドリックは短く息を吐いた。
「……今朝、少しだけ迷った」
私は胸が痛くなる。
「何を」
「呼ぶべきか、別の固定を先にすべきか」
言葉は少ない。
でも、その内容は重い。
そして、彼は続けた。
「迷った結果、呼んだ」
その言い方が、苦い。
迷える時間が減っているように聞こえたから。
私は両手を握りしめた。
「……今日は、記録院に行きませんか」
「また、聖堂か」
眉がわずかに動く。
嫌悪ではない。
警戒だ。
「聖堂じゃなくて、記録院です。
文字の固定を増やしたい」
セドリックは黙った。
やがて、短く頷く。
「……行く」
その返事が早いのが、私には怖かった。
迷いが少ない。
選択肢が削れている証拠みたいで。
*
記録院は相変わらず、紙とインクの匂いがした。
その匂いは、なぜか春の匂いより安心する。
文字は嘘をつかないから。
案内の修道士が頭を下げる。
「公爵様。……リラさん」
呼ばれた。
私は胸の奥で小さく頷く。
認識は揺れない。
昨日より、少しだけ強い気がする。
――書き物の効果?
そう思ってしまう自分が嫌だった。
文字で固定される自分を、望んでいるみたいだから。
奥でレオニスが待っていた。
白い法衣。
正しい笑顔。
けれど今日は、その笑顔が薄い。
「お早いですね」
「確認したい」
セドリックが言う。
余計な言葉はない。
レオニスは私に視線を向ける。
「リラさん、昨夜は眠れましたか」
「……少し」
「代償の話を聞いた後は、眠れないものです」
優しい声。
でも、優しさは檻にもなる。
「代償は、進んでいます」
レオニスが言った。
唐突に。
「公爵様、今日、執務で迷いましたか」
セドリックは一拍置いた。
「迷った」
「その結果、どうしました」
「即決した」
レオニスが小さく頷く。
「迷いが“短くなっている”。
つまり、選択肢の削れは進行している」
私は喉が冷えた。
「止める方法はありませんか」
私が言うと、レオニスは首を横に振る。
「“呼ぶ”行為そのものが契約の糸です。
糸を引けば、織物は形を保つ。
だが糸は減る」
例えが綺麗すぎて、腹が立った。
私たちの現実はもっと泥臭い。
「じゃあ、糸を増やす方法は」
「呼ぶ以外の糸を増やす」
同じ答え。
でも、今日はその先があった。
「――刻印です」
レオニスが棚から小さな箱を取り出した。
中には、薄い金属の板。
刻印具。
小さな針のようなもの。
私は息を呑む。
「痛いものです」
レオニスが淡々と言う。
「ですが、文字より強い固定になる。
皮膚に、契約の“関係”を刻む」
セドリックの視線が鋭くなる。
「彼女に傷をつけるな」
「傷ではありません。固定です。
そして――」
レオニスはセドリックを見た。
「公爵様にも必要です」
空気が固まる。
「俺に?」
「あなたが支払っているのだから、あなたの側にも“固定”が必要になる」
レオニスは静かに言った。
「二人の関係を、世界に刻む。
そうすれば、呼ぶ回数を減らす余地が生まれる」
私の胸が、どくんと鳴った。
呼ぶ回数を減らせる。
それは、彼の未来を守れるかもしれない。
でも――刻む。
痛い。
傷になる。
そして、その刻みは消えにくい。
私は、セドリックを見る。
彼は何も言わない。
でも、その沈黙は「許さない」に近い。
「……私が」
私は口を開いた。
「私がやります」
セドリックの視線が、私を射抜く。
「駄目だ」
短い拒否。
迷いがない。
「でも、それであなたの未来が守れるなら」
「守らなくていい」
「守ります」
言い切った。
胸が痛い。
でも、言い切らないと、私はまた“守られる側”に戻ってしまう。
セドリックは一歩、私に近づいた。
触れない距離を破る寸前。
「リラ」
呼ばれた。
近い。
その音が胸に落ちる。
そして、彼は低く言った。
「おまえの痛みは、俺の代償にしない」
私は言葉を失った。
これは、優しさだけじゃない。
これは――支配でもない。
信念だ。
レオニスが静かに口を挟む。
「では、公爵様が刻みますか」
セドリックの答えは早かった。
「俺が刻む」
私の息が止まる。
「だめです」
思わず言った。
矛盾だ。
私が言い出して、私が止める。
でも――
「あなたが痛いのは、だめです」
言ってしまってから、涙が滲んだ。
自分が子供みたいで情けない。
セドリックは私を見た。
「……痛みは、必要だ」
「必要じゃありません」
「必要だ」
彼は言い切る。
その声には、迷いがない。
迷いがないことが、私は怖かった。
未来が削れている証拠だから。
私は、胸の奥の冷えを押さえ込みながら言った。
「だったら、条件を決めましょう」
セドリックがわずかに眉を動かす。
「条件」
「刻むのは、私が見ているところで。
そして、毎日呼ぶのは続ける。
呼ぶ回数を減らすのは、刻みが効いてから。
それまでは……あなたが迷う時間を、私が作ります」
自分でも何を言っているのか分からない部分がある。
でも、これは私の「迷い」だ。
引き受けると決めた迷い。
セドリックは黙った。
長い沈黙の後、彼は短く頷いた。
「……分かった」
その返事が、遅かったことに私は少しだけ救われた。
迷いが残っている。
まだ、選択肢はある。
*
刻印の準備は、記録院の奥の小部屋で行われた。
白い布が敷かれ、金属具が並べられる。
灯りが少なく、空気が冷たい。
私は椅子に座り、セドリックは向かいに立った。
彼の手袋が外され、指先が露になる。
剣を握る手。
書類に署名する手。
そして――私の名前を呼ぶ手。
「……どこに刻む」
レオニスが問う。
「腕」
セドリックが答える。
「見える場所に」
私は息を呑んだ。
見える場所に刻むというのは、覚悟の表明だ。
隠さない。
世界に刻む。
「待って」
私は立ち上がった。
セドリックが視線を向ける。
「私も……」
言葉が喉で詰まる。
「私も、同じ場所に印を。
あなたが刻むなら、私も刻みます」
セドリックの目が僅かに揺れた。
「駄目だ」
「駄目ですって言っても、これは私の選択です」
私は震える声で言う。
「あなたが代償を引き受けるなら、
私も引き受けます。
名前がないなら、せめて関係を刻みたい」
レオニスが少しだけ微笑んだ。
それが癪に障る。
でも今は、どうでもいい。
セドリックは、私を見た。
長い沈黙。
そして、低く言った。
「……泣くな」
「泣いてません」
「泣きそうだ」
的確すぎて、私は笑ってしまった。
涙が落ちそうなのに、笑う。
人は不安の時、変なことをする。
「……怖いだけです」
「俺もだ」
短い告白。
それだけで、胸が少しだけ温かくなる。
レオニスが刻印具を持ち上げる。
「では、始めます」
セドリックは腕を差し出した。
迷いはない。
それが、痛い。
私は息を吸って、彼の腕を見つめた。
世界に刻まれる瞬間を。
金属が肌に触れる。
小さな音。
そして――セドリックの眉が僅かに動く。
それだけで、痛みの強さが分かる。
私は思わず手を伸ばしそうになる。
触れたい。
止めたい。
でも、止めたら意味がない。
「……リラ」
彼が呼んだ。
痛みの中で。
その音が、私の胸に落ちる。
「はい」
私は答えた。
震える声で。
刻印が終わる。
白い布に小さな赤が滲んだ。
レオニスが短く言う。
「これで固定が一つ増えました。
あとは、あなたも」
私の番。
私は腕を差し出した。
怖い。
でも、逃げない。
これが私の選択だ。
金属が触れる瞬間、セドリックが一歩だけ近づいた。
触れない距離を、破って。
そして、私の手首を――ほんの少しだけ支えた。
強く握らない。
でも、離さない。
「……リラ」
耳元に近い声。
その一音で、私は耐えられると思った。
痛みが走る。
小さな痛み。
でも、世界が変わる痛み。
私は息を止めて、そして、吐いた。
終わった。
腕に残った熱が、妙に生々しい。
私たちは互いの腕を見た。
同じ位置。
同じ形。
文字ではない。
関係の印。
――世界に刻まれた。
レオニスが静かに言う。
「これで、呼ぶ回数を減らせる可能性が出ました」
その言葉に、私はほっとするはずだった。
でも、その瞬間、セドリックの目が僅かに揺れた。
揺れたのは、痛みのせいじゃない。
視線が、一瞬だけ“迷子”になった。
私は、背筋が冷える。
「……セドリック様?」
彼は私を見る。
見るのに、一拍遅れる。
そして――
「……リラ」
呼ばれた。
いつもより少し遅い。
たった一拍。
けれど、その一拍が私を凍らせる。
私は理解してしまった。
固定を増やしても、代償は止まらない。
形を変えるだけだ。
そして、今。
彼の未来は、もう少しだけ削れている。
春の光が、記録院の白い壁に落ちた。
それは暖かいのに、どこか冷たい。
私は腕の痛みを押さえながら、心の中で誓う。
――次は、私が止める。
呼ぶことを止めるのではない。
削れていく未来を、そのままにしない。
この人が迷わなくなるなら、
私が迷う。
この人が選べなくなるなら、
私が選ぶ。
そして、必ず。
“それでも呼ぶ理由”を、私の言葉で守る。




