表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『契約の代償で名前を失うらしいので、無口な公爵様に毎日呼んでもらうことにした――その後の物語』  作者: 百花繚乱


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/8

第四話:それでも呼ぶ理由

 春の夕方は、光が長い。

 長いのに、あっという間に沈む。


 窓の外の空が薄桃色から橙に変わり、雲の縁が燃えるように揺れたあと、ふっと冷える。

 その変わり目の瞬間が、私は苦手だった。


 ――薄くなる。


 何が、とは言わない。

 でも、胸の奥がそう囁く。


 第三話でセドリックが口にした「選択肢が消える」という言葉は、私の中でまだ落ちていない石みたいに沈んでいた。

 水底に沈んだまま、時々、気泡を吐く。

 気泡の音が胸を刺す。


 私は机の上に、白い紙を広げた。

 インク壺、ペン先。

 指先が少し震える。


 ――呼び名以外の固定を増やす。


 彼が言った対策。

 レオニスが言った対策。

 そして、私が言った覚悟。


「迷いは、私が引き受ける」


 勢いで言った言葉なのに、今はその重さが体温みたいに残っている。

 覚悟は言葉でできるけれど、実行は日常でできる。

 日常は毎日やってくる。

 逃げ道がない。


 私はペンを握り、紙に文字を書いた。


 ――リラ。


 自分の名。

 いや、正確には「呼ばれている音の形」。


 書いても書いても、しっくりこない。

 紙の上の「リラ」は、世界の中の私と同じではない。

 だから、固定というのは難しい。


 ふと、扉の向こうから足音が聞こえた。

 硬い靴音。

 床板のわずかな軋み。


 胸が勝手に温度を上げる。


「……リラ」


 低い声。

 いつもより少し近い気がした。


「はい」


 返事をしながら、私は慌てて紙を伏せた。

 隠す必要はないのに、反射的に隠してしまう。

 自分が必死なのを見られるのが恥ずかしい。


 セドリックが入ってくる。

 黒い服。

 整った襟元。

 表情は変わらないのに、目の奥だけが私の温度を測ってくる。


「……何をしていた」


「書き物です」


「書き物」


 言葉を繰り返す。

 その癖は、彼が確かめる時に出る。


「対策です。呼び名以外の固定を増やすために」


 私は伏せた紙を持ち上げて見せた。

 紙には、「リラ」という文字が何度も並んでいる。

 少し歪んだ字もある。

 力が入りすぎた線もある。


 セドリックは紙を見て、ほんのわずかに眉を動かした。


「……おまえも、確認するのか」


「あなたがしているなら、私もします」


 彼は一瞬、何か言いかけてやめた。

 その間が、私は好きだ。

 彼の中の迷いが、まだ消えていない証拠だから。


「……無理はするな」


「無理ではありません。……ただ、怖いだけです」


 私は正直に言った。

 正直に言えるようになったのは、たぶん、冬至の夜のせいだ。


 セドリックは視線を紙から私に戻した。


「怖いなら、呼ぶ」


 即答。

 変わらない答え。

 それが、今は少しだけ痛い。


「……呼ばない方が、あなたの未来は削れません」


 言った瞬間、自分で嫌になった。

 これは、彼に「やめろ」と言っているのと同じだ。

 言わないと決めたのに。


 でも、止められない。


「削れる」


 彼は淡々と肯定した。


「でも、呼ばないと、おまえが薄くなる」


 その言葉で、私は何も言えなくなる。

 矛盾。

 でも、矛盾が私たちの日常だ。


 私は、ゆっくり息を吐いた。


「……だから、別のやり方を考えたいんです」


「別のやり方」


「“呼ぶ”以外で私を固定する方法が増えれば、呼ぶ回数を減らせるかもしれない」


 セドリックの目が細くなる。

 否定の前の顔ではない。

 思考の顔だ。


「……合理的だ」


 ぽつりと彼が言った。

 その言葉に、私は少しだけ安堵する。

 合理性という形に乗れば、彼は動ける。


「それで、試すのか」


「はい」


 私は頷いた。

 喉が渇いているのに、言葉は出た。


「今日から。できるだけ、呼ぶ回数を――」


「駄目だ」


 切り捨てるような声ではない。

 でも、即答だった。


 私は目を瞬いた。


「……どうしてですか」


「試すなら、条件を決める」


 彼は机の端に手を置いた。

 触れない。

 でも、逃げない。


「おまえの安全を優先する。

 呼ぶ回数を減らすのは、その後だ」


「安全は、呼ばれることで確保されている。でも呼ぶことであなたが――」


「俺の未来より、おまえが先だ」


 短い。

 重い。

 反論の余地がない。


 でも私は、反論したかった。


「それは、私が望みません」


「望む」


 彼が言い切る。


「それが、俺の選択だ」


 選択。

 その言葉が刺さる。

 彼は選択肢を失っているかもしれないのに、それでも「選ぶ」と言う。


 私は唇を噛んだ。


「……だったら、私も選びます」


「何を」


「あなたが迷わなくなるなら、私が迷う。

 あなたが未来を失うなら、私が未来を増やす。

 だから、私に“止める権利”をください」


 言い終えると、胸が痛かった。

 止める権利。

 そんなものを言葉にした瞬間、自分が傲慢に見えた。


 セドリックは静かに私を見た。

 長い沈黙。


 やがて、彼は低く言った。


「……権利ではない。

 おまえが止めたいなら、止めればいい」


 それは、許可だった。

 私を“選ぶ存在”として認めた言い方だった。


 私は、少しだけ息が楽になる。


「……ありがとう」


「礼は要らない」


 相変わらずの返答。

 でも、目は少しだけ柔らかい。



 翌朝、私はいつもより早く起きた。

 薄い光がカーテンの隙間から差し込む頃。

 まだ鳥の声も少ない時間。


 枕元の鈴に触れ、冷たさを確かめる。

 小さな灯りを点し、炎の揺れを見つめる。


 呼ばれなくても、私はここにいる。

 そう自分に言い聞かせる。


 けれど――扉の向こうが静かすぎると、胸がざわつく。

 足音が遅い。

 いつもなら、もう聞こえるはずなのに。


 私は手を握った。

 大丈夫。

 呼ぶ回数を減らす、と言ったわけじゃない。

 条件を決めるだけだ。


 それでも、不安は勝手に膨らむ。


 ――薄くなる。


 その瞬間、扉の向こうから足音が聞こえた。

 少し速い。

 普段より速い。


 ノックが一度。


「入っていいですか」


 声はいつも通り。

 でも、ほんの少しだけ硬い。


「はい」


 セドリックが入ってくる。

 いつもの黒。

 いつもの姿勢。


 でも、目が違った。

 私を測るというより、確認を急いでいる目。


「……リラ」


 呼ばれた。


 胸の奥が温まる。

 それはいつもと同じはずなのに――なぜか、彼の呼び方が少しだけ浅い。


 浅い、というのはおかしい。

 音は同じ。

 でも、重みが違う。

 いつもなら胸に落ちる石が、今日は途中で弾む。


 私は思わず立ち上がった。


「……今、迷いませんでしたか」


 自分でも変な問いだと思った。

 でも、口に出た。


 セドリックは一瞬、視線を外した。


「迷い?」


「呼ぶ前に、いつも少しだけ間があるのに」


 私は言い切ったあとで、気づく。

 私は彼の“間”に救われていたのだ。

 間があるから、彼は機械ではなく人でいられる。

 間があるから、選択がある。


 セドリックは短く息を吐いた。


「……今朝、少しだけ迷った」


 私は胸が痛くなる。


「何を」


「呼ぶべきか、別の固定を先にすべきか」


 言葉は少ない。

 でも、その内容は重い。


 そして、彼は続けた。


「迷った結果、呼んだ」


 その言い方が、苦い。

 迷える時間が減っているように聞こえたから。


 私は両手を握りしめた。


「……今日は、記録院に行きませんか」


「また、聖堂か」


 眉がわずかに動く。

 嫌悪ではない。

 警戒だ。


「聖堂じゃなくて、記録院です。

 文字の固定を増やしたい」


 セドリックは黙った。

 やがて、短く頷く。


「……行く」


 その返事が早いのが、私には怖かった。

 迷いが少ない。

 選択肢が削れている証拠みたいで。



 記録院は相変わらず、紙とインクの匂いがした。

 その匂いは、なぜか春の匂いより安心する。

 文字は嘘をつかないから。


 案内の修道士が頭を下げる。


「公爵様。……リラさん」


 呼ばれた。

 私は胸の奥で小さく頷く。

 認識は揺れない。

 昨日より、少しだけ強い気がする。


 ――書き物の効果?


 そう思ってしまう自分が嫌だった。

 文字で固定される自分を、望んでいるみたいだから。


 奥でレオニスが待っていた。

 白い法衣。

 正しい笑顔。

 けれど今日は、その笑顔が薄い。


「お早いですね」


「確認したい」


 セドリックが言う。

 余計な言葉はない。


 レオニスは私に視線を向ける。


「リラさん、昨夜は眠れましたか」


「……少し」


「代償の話を聞いた後は、眠れないものです」


 優しい声。

 でも、優しさは檻にもなる。


「代償は、進んでいます」


 レオニスが言った。

 唐突に。


「公爵様、今日、執務で迷いましたか」


 セドリックは一拍置いた。


「迷った」


「その結果、どうしました」


「即決した」


 レオニスが小さく頷く。


「迷いが“短くなっている”。

 つまり、選択肢の削れは進行している」


 私は喉が冷えた。


「止める方法はありませんか」


 私が言うと、レオニスは首を横に振る。


「“呼ぶ”行為そのものが契約の糸です。

 糸を引けば、織物は形を保つ。

 だが糸は減る」


 例えが綺麗すぎて、腹が立った。

 私たちの現実はもっと泥臭い。


「じゃあ、糸を増やす方法は」


「呼ぶ以外の糸を増やす」


 同じ答え。

 でも、今日はその先があった。


「――刻印です」


 レオニスが棚から小さな箱を取り出した。

 中には、薄い金属の板。

 刻印具。

 小さな針のようなもの。


 私は息を呑む。


「痛いものです」


 レオニスが淡々と言う。


「ですが、文字より強い固定になる。

 皮膚に、契約の“関係”を刻む」


 セドリックの視線が鋭くなる。


「彼女に傷をつけるな」


「傷ではありません。固定です。

 そして――」


 レオニスはセドリックを見た。


「公爵様にも必要です」


 空気が固まる。


「俺に?」


「あなたが支払っているのだから、あなたの側にも“固定”が必要になる」


 レオニスは静かに言った。


「二人の関係を、世界に刻む。

 そうすれば、呼ぶ回数を減らす余地が生まれる」


 私の胸が、どくんと鳴った。

 呼ぶ回数を減らせる。

 それは、彼の未来を守れるかもしれない。


 でも――刻む。

 痛い。

 傷になる。

 そして、その刻みは消えにくい。


 私は、セドリックを見る。

 彼は何も言わない。

 でも、その沈黙は「許さない」に近い。


「……私が」


 私は口を開いた。


「私がやります」


 セドリックの視線が、私を射抜く。


「駄目だ」


 短い拒否。

 迷いがない。


「でも、それであなたの未来が守れるなら」


「守らなくていい」


「守ります」


 言い切った。

 胸が痛い。

 でも、言い切らないと、私はまた“守られる側”に戻ってしまう。


 セドリックは一歩、私に近づいた。

 触れない距離を破る寸前。


「リラ」


 呼ばれた。

 近い。

 その音が胸に落ちる。


 そして、彼は低く言った。


「おまえの痛みは、俺の代償にしない」


 私は言葉を失った。


 これは、優しさだけじゃない。

 これは――支配でもない。

 信念だ。


 レオニスが静かに口を挟む。


「では、公爵様が刻みますか」


 セドリックの答えは早かった。


「俺が刻む」


 私の息が止まる。


「だめです」


 思わず言った。

 矛盾だ。

 私が言い出して、私が止める。


 でも――


「あなたが痛いのは、だめです」


 言ってしまってから、涙が滲んだ。

 自分が子供みたいで情けない。


 セドリックは私を見た。


「……痛みは、必要だ」


「必要じゃありません」


「必要だ」


 彼は言い切る。

 その声には、迷いがない。

 迷いがないことが、私は怖かった。

 未来が削れている証拠だから。


 私は、胸の奥の冷えを押さえ込みながら言った。


「だったら、条件を決めましょう」


 セドリックがわずかに眉を動かす。


「条件」


「刻むのは、私が見ているところで。

 そして、毎日呼ぶのは続ける。

 呼ぶ回数を減らすのは、刻みが効いてから。

 それまでは……あなたが迷う時間を、私が作ります」


 自分でも何を言っているのか分からない部分がある。

 でも、これは私の「迷い」だ。

 引き受けると決めた迷い。


 セドリックは黙った。

 長い沈黙の後、彼は短く頷いた。


「……分かった」


 その返事が、遅かったことに私は少しだけ救われた。

 迷いが残っている。

 まだ、選択肢はある。



 刻印の準備は、記録院の奥の小部屋で行われた。

 白い布が敷かれ、金属具が並べられる。

 灯りが少なく、空気が冷たい。


 私は椅子に座り、セドリックは向かいに立った。

 彼の手袋が外され、指先が露になる。

 剣を握る手。

 書類に署名する手。

 そして――私の名前を呼ぶ手。


「……どこに刻む」


 レオニスが問う。


「腕」


 セドリックが答える。


「見える場所に」


 私は息を呑んだ。

 見える場所に刻むというのは、覚悟の表明だ。

 隠さない。

 世界に刻む。


「待って」


 私は立ち上がった。


 セドリックが視線を向ける。


「私も……」


 言葉が喉で詰まる。


「私も、同じ場所に印を。

 あなたが刻むなら、私も刻みます」


 セドリックの目が僅かに揺れた。


「駄目だ」


「駄目ですって言っても、これは私の選択です」


 私は震える声で言う。


「あなたが代償を引き受けるなら、

 私も引き受けます。

 名前がないなら、せめて関係を刻みたい」


 レオニスが少しだけ微笑んだ。

 それが癪に障る。

 でも今は、どうでもいい。


 セドリックは、私を見た。

 長い沈黙。

 そして、低く言った。


「……泣くな」


「泣いてません」


「泣きそうだ」


 的確すぎて、私は笑ってしまった。

 涙が落ちそうなのに、笑う。

 人は不安の時、変なことをする。


「……怖いだけです」


「俺もだ」


 短い告白。

 それだけで、胸が少しだけ温かくなる。


 レオニスが刻印具を持ち上げる。


「では、始めます」


 セドリックは腕を差し出した。

 迷いはない。

 それが、痛い。


 私は息を吸って、彼の腕を見つめた。

 世界に刻まれる瞬間を。


 金属が肌に触れる。

 小さな音。

 そして――セドリックの眉が僅かに動く。

 それだけで、痛みの強さが分かる。


 私は思わず手を伸ばしそうになる。

 触れたい。

 止めたい。

 でも、止めたら意味がない。


「……リラ」


 彼が呼んだ。

 痛みの中で。

 その音が、私の胸に落ちる。


「はい」


 私は答えた。

 震える声で。


 刻印が終わる。

 白い布に小さな赤が滲んだ。


 レオニスが短く言う。


「これで固定が一つ増えました。

 あとは、あなたも」


 私の番。


 私は腕を差し出した。

 怖い。

 でも、逃げない。

 これが私の選択だ。


 金属が触れる瞬間、セドリックが一歩だけ近づいた。


 触れない距離を、破って。


 そして、私の手首を――ほんの少しだけ支えた。

 強く握らない。

 でも、離さない。


「……リラ」


 耳元に近い声。


 その一音で、私は耐えられると思った。


 痛みが走る。

 小さな痛み。

 でも、世界が変わる痛み。


 私は息を止めて、そして、吐いた。


 終わった。


 腕に残った熱が、妙に生々しい。


 私たちは互いの腕を見た。

 同じ位置。

 同じ形。

 文字ではない。

 関係の印。


 ――世界に刻まれた。


 レオニスが静かに言う。


「これで、呼ぶ回数を減らせる可能性が出ました」


 その言葉に、私はほっとするはずだった。


 でも、その瞬間、セドリックの目が僅かに揺れた。


 揺れたのは、痛みのせいじゃない。

 視線が、一瞬だけ“迷子”になった。


 私は、背筋が冷える。


「……セドリック様?」


 彼は私を見る。

 見るのに、一拍遅れる。


 そして――


「……リラ」


 呼ばれた。


 いつもより少し遅い。

 たった一拍。

 けれど、その一拍が私を凍らせる。


 私は理解してしまった。


 固定を増やしても、代償は止まらない。

 形を変えるだけだ。

 そして、今。


 彼の未来は、もう少しだけ削れている。


 春の光が、記録院の白い壁に落ちた。

 それは暖かいのに、どこか冷たい。


 私は腕の痛みを押さえながら、心の中で誓う。


 ――次は、私が止める。


 呼ぶことを止めるのではない。

 削れていく未来を、そのままにしない。


 この人が迷わなくなるなら、

 私が迷う。


 この人が選べなくなるなら、

 私が選ぶ。


 そして、必ず。


 “それでも呼ぶ理由”を、私の言葉で守る。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
物語が取り返しのつかない段階へ踏み込んだ、強烈な一話でした。 刻印という「関係を世界に刻む選択」が、愛情と暴力、守りと損失の境界にあり、読んでいて胸が締めつけられます。 セドリックの迷いが確実に削れて…
感情が大きく動くわけではないのに、胸に残る回。 「選ばなかった人生」の影が、最も濃く滲む場面で、 読者自身の記憶と重なりやすい。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ