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『契約の代償で名前を失うらしいので、無口な公爵様に毎日呼んでもらうことにした――その後の物語』  作者: 百花繚乱


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第三話:呼ぶたびに、失われるもの

春の午後は、静かすぎるときがある。


 庭の手入れも一段落し、使用人たちの足音が遠のいたあと。

 鳥の声だけが残り、風が枝を揺らす音がやけに大きく聞こえる。


 私はその静けさが、少しだけ怖かった。


 ――呼ばれなかったら。


 そんな考えが浮かぶ自分に、苦笑する。

 冬至を越えたのだ。

 助かった。

 そう思っていいはずなのに、不安は形を変えて残っている。


 午後の陽が部屋の床に斜めに差し込むころ、私は窓辺で灯りの調整をしていた。

 炎の揺れを小さく抑え、長く持つようにする。

 最近は、この作業が少し難しい。


 集中しすぎると、胸の奥が冷える。

 逆に、考え事をしながらだと、炎が揺れすぎる。


 ――名前がない、というのは、こういうことなのかもしれない。


「……リラ」


 背後から呼ばれて、私は肩を跳ねさせた。


「はい」


 振り返ると、セドリックが立っている。

 いつもより少し、距離が近い。


「驚かせたか」


「いえ。ただ……考え事をしていて」


「そうか」


 それだけ言って、彼は私の手元を見る。

 灯りの炎が、ほんの少し揺れていた。


「……不安定だな」


「分かります?」


「分かる」


 即答だった。


 私は笑ってごまかそうとしたが、うまく笑えなかった。


「最近、少しだけ……難しくて」


「無理をするな」


「無理、ではないんです。ただ」


 言葉を探す。

 これは説明しにくい。


「……名前がない状態に、慣れてきた分、油断すると揺れる、というか」


 セドリックは黙って聞いている。

 否定しない。

 結論も出さない。


 その沈黙が、今の私にはありがたい。


「……記録院での話だが」


 彼が口を開いた。


「“呼ぶ代償”について、追加で分かったことがある」


 胸の奥が、きゅっと縮む。


「……どんな、ですか」


「確定ではない」


 前置き。

 それがある時の彼は、慎重だ。


「だが、兆候が出ている」


 私は、無意識に鈴を握りしめていた。


「セドリック様の、ですか」


「そうだ」


 短い肯定。

 逃げ場がない。


「……何を、失っているんですか」


 彼は、すぐには答えなかった。

 視線を外し、窓の外を見る。


 春の庭。

 芽吹きの途中で止まった枝。


「“選択肢”だ」


「選択肢?」


「未来の、細かい分岐」


 私は首を傾げる。


「……分かりにくいです」


「分かりにくいままでいい」


 彼はそう言ってから、少し考えるように続けた。


「例えば。

 本来なら、迷うはずの場面で、迷わなくなっている」


「それって……」


「合理的に見える」


 その言葉が、胸に引っかかる。


 合理的。

 彼がよく使う言葉。

 でも、それは彼自身を縛る言葉でもある。


「でも、それは――」


「俺らしくない」


 彼が、自分で言った。


 私は息を止める。


「昨日、聖堂から戻った後」


 彼は淡々と話す。


「執務で、ある案件の判断をした。

 本来なら、もう少し時間をかける内容だった」


「でも」


「即決した」


 その言い方は、誇っていない。

 むしろ、警戒している。


「正しい判断だった。結果も問題ない」


「……それでも」


「迷わなかった」


 私は、言葉を失った。


 迷わないセドリック。

 それは一見、理想的だ。

 でも私は知っている。


 この人は、迷う人だ。

 言葉は少なくても、選ぶ時は必ず立ち止まる。


「それが……代償?」


「可能性が高い」


 彼は、私を見る。


「俺が呼ぶたびに、

 “選ばなかった未来”が、一つずつ消えている」


 静かな声。

 でも、その内容は重い。


 私は、思わず立ち上がった。


「……そんなの、だめです」


「感情論だ」


「感情論でも、だめです」


 声が震える。


「私が……私の存在のために、あなたの未来が削れるなんて」


 言ってから、後悔する。

 これは、彼を責める言い方だ。


 でも、止まらなかった。


「それなら――」


「呼ぶな、と言うか」


 彼が、遮った。


 低い声。

 でも、強い。


 私は唇を噛む。


「……言いません」


 正直な答えだった。


 言えない。

 だって、それは――。


「呼ばれないのは、怖いです」


 言葉にした瞬間、涙が滲んだ。


 恥ずかしい。

 でも、嘘じゃない。


 セドリックは、少しだけ目を伏せた。


「……俺もだ」


「え」


「怖い」


 短い告白。


 彼は続ける。


「おまえが薄くなるのも、

 呼べなくなるのも、

 ……選択肢を失うのも」


 私は、胸がいっぱいになった。


「じゃあ……どうするんですか」


 震える声で聞く。


「呼ぶ」


 即答。


 私は、泣きそうになって笑った。


「それ、答えになってません」


「なっている」


 彼は、一歩だけ近づいた。


「呼ぶ代わりに、対策を重ねる」


「対策……」


「文字、記録、関係性。

 呼び名以外の固定を増やす」


 それは、前に聞いた話。

 でも、今は意味が違う。


「あなたは……それでも呼ぶんですね」


「呼ばない選択肢は、ない」


 選択肢。

 その言葉が、皮肉みたいに響く。


 私は、深く息を吸った。


「……だったら」


 勇気を出す。


「私にも、選ばせてください」


 彼の目が、わずかに揺れた。


「私が、あなたの未来を削るなら」


 胸が痛い。


「その覚悟を、私も引き受けたい」


 沈黙。


 長い、長い一拍。


 春の庭で、鳥が飛び立つ音がした。


「……どういう意味だ」


 低い声。


「私が、ただ呼ばれるだけの存在でいない、ってことです」


 私は言葉を選ぶ。


「あなたが失うものがあるなら、

 私も、何かを差し出します」


「何を」


 その問いに、すぐには答えられなかった。


 何を差し出せる?

 名前は、もうない。

 命も、期限を越えた。


 それでも――。


「……私の選択です」


 ようやく、そう言えた。


「あなたが迷わなくなった分、

 私が迷います」


 セドリックの目が、はっきりと私を捉えた。


「私が考えます。悩みます。

 あなたが失うはずだった“迷い”を、私が引き受ける」


 沈黙が、落ちる。


 彼は、すぐには否定しなかった。


 それが、答えだった。


「……重いな」


 ぽつりと、彼が言った。


「はい。重いです」


「逃げ道は」


「ありません」


 私は笑った。


「好きに生きるって、そういうことだと思うので」


 彼は、小さく息を吐いた。


「……無茶だ」


「そうかもしれません」


 それでも、私は一歩も引かなかった。


 彼は、私を見たまま言う。


「リラ」


 呼ばれる。


 胸の奥が、確かに灯る。


 でも同時に、私は理解してしまった。


 この物語は、

 “守られる”だけでは終わらない。


 呼ぶたびに、何かが失われるなら。

 選ぶたびに、何かを引き受けるなら。


 ――これは、二人で背負う物語だ。


 春の午後の静けさが、

 もう戻らないことを、私は知っていた。

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― 新着の感想 ―
痛いほど誠実で、物語が「対等な関係」へ踏み出した回だと感じました。 呼ぶ代償として失われる“選択肢”という設定が切実で、セドリックの合理性が削られていく怖さに強い説得力があります。 それに対してリラが…
過去と現在が静かに交差する章。 後悔を“反省”ではなく“事実”として受け止めている描写が印象的で、 主人公の成熟が感じられる。
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