第二話:名を呼ぶ手、離さない距離
春の朝は、音が多い。
冬の間は、音が輪郭を持っていた。
鐘、風、足音――それぞれがはっきりと存在して、私の胸に落ちてきた。
でも春になると、音は混ざる。鳥の声、遠くの市場、誰かの笑い声。
世界が賑やかになるほど、私は少しだけ不安になる。
――紛れてしまわないだろうか、と。
名前を持たない私は、今も「呼ばれている」ことでここにいる。
それは奇跡みたいな日常で、同時に、いつ崩れてもおかしくない綱渡りだ。
「……起きているな」
低い声が、扉の向こうから聞こえた。
「はい」
返事をする前から、分かっていた。
この人は、私が起きているかどうかを“気配”で知っている。
扉が開き、セドリックが入ってくる。
黒い上着、きちんと整えられた襟元。
視線は私に向いているのに、触れない距離を保ったまま。
「顔色は」
「大丈夫です。昨日より」
「……昨日より、か」
ほんの一拍。
その間に、彼は私の輪郭を確かめるように視線を動かす。
「リラ」
呼ばれた。
胸の奥が、すっと温まる。
呼ばれることが、まだ救いであるうちは。
私はここにいていい。
*
朝食の席は、いつも通りだった。
焼きたてのパン。
苺のジャム。
湯気の立つ紅茶。
変わらない。
それが、こんなにもありがたい。
セドリックは向かいに座り、私がパンを割るのを待ってから、自分のカップに手を伸ばした。
視線は私に向いていないのに、私の動きだけは逃さない。
「……昨日の件」
彼が言った。
「聖堂の、ですか」
「そうだ」
短い。
でも逃げない。
「鐘について、調べさせている」
「もう?」
「……放置は合理的ではない」
私は思わず笑った。
「合理的、ですね」
「建前だ」
即答だった。
私はパンを口に運びながら、少しだけ胸が軽くなる。
この人は、私が不安を抱えたままにしない。
言葉が少なくても、行動が早い。
「それと」
セドリックは、カップを置いた。
「今日、庭に出る」
「庭?」
「人が多い場所は避ける。……慣らす必要がある」
――私を。
その言葉は出ない。
でも、分かる。
「はい」
私は頷いた。
*
公爵邸の庭は、春の準備をしていた。
まだ花は少ない。
でも、土は柔らかく、芽は確かにそこにある。
私は歩くたびに、セドリックの位置を意識してしまう。
近すぎない。
でも遠くない。
誰かが通れば、自然と私の前に出る。
風が強くなれば、風上に立つ。
触れないのに、離さない距離。
「……リラ」
ふいに呼ばれて、立ち止まる。
「はい」
「近くに来い」
命令口調ではない。
でも、迷いがない。
私は一歩、彼に近づいた。
すると、彼は何も言わずに、私と外界の間に立つ。
視線の先には、使用人たちがいた。
庭の手入れをしているだけなのに、私は気づいてしまう。
――見られている。
好奇の視線。
悪意ではない。
でも、私の輪郭を測るような視線。
セドリックは、その視線を一度受け止める。
何も言わない。
ただ、そこに立つ。
それだけで、空気が変わる。
誰も近づかない。
誰も、名を聞かない。
私は、胸の奥がじんとする。
「……ありがとうございます」
「何の礼だ」
「離さなかったから」
彼は一瞬だけ、眉を動かした。
「離す理由がない」
淡々とした声。
でも、それが何より強い。
*
庭の奥、日当たりのいい場所にベンチがある。
私が好きな場所だ。
腰を下ろすと、春の匂いが近くなる。
土と草と、少しだけ花。
「……疲れたか」
「いいえ。むしろ、落ち着きます」
「そうか」
彼は、私の少し斜め前に立ったままだ。
座らない。
「座らないんですか」
「周囲を見る」
それも、建前だ。
私は分かっている。
彼は、私が“座っている間”に何かあったらすぐ動ける位置を取っている。
「……ねえ、セドリック様」
「何だ」
「もし」
言葉を選ぶ。
これは、怖い話だから。
「もし、また……私の名前が薄くなったら」
彼の指が、わずかに動いた。
「どうする」
「……どう、されますか」
問い返し。
でも、それは逃げじゃない。
私は答える。
「私、また一人で立てます。でも――」
そこで、声が詰まった。
立てる。
でも、それは“呼ばれなくてもいい”という意味じゃない。
セドリックは、私を見た。
「一人にしない」
即答だった。
「薄くなるなら、近くに置く」
「……それは」
「離さない、という意味だ」
短い。
重い。
私は息を吸う。
春の匂いが、少しだけ甘くなる。
「それ、独占って言うんじゃないですか」
冗談のつもりだった。
でも、彼は否定しなかった。
「必要なら、そうなる」
胸が、どくんと鳴る。
ああ、この人は――
私が“守られる側”でいることを、許し続けてくれる。
*
午後、庭を出る頃には、私は少しだけ疲れていた。
安心するのも、体力がいる。
部屋に戻ろうとした、その時。
「……リラ」
呼ばれて、振り返る。
セドリックが、手袋を外していた。
珍しい。
「手を」
「え?」
「冷えている」
言われて初めて気づく。
指先が、少し冷たい。
私は迷った。
触れられることに、慣れすぎるのが怖い。
でも――彼は、私の迷いが終わるまで待った。
急かさない。
でも、引かない。
私はそっと、手を出した。
彼の手は、思ったより温かかった。
しっかりしていて、でも力を入れすぎない。
包む。
支える。
離さない。
「……リラ」
呼ばれる。
近い距離で。
胸の奥が、じんわりと灯る。
この人は、名前だけで私を繋いでいるわけじゃない。
距離で。
温度で。
選択で。
私は、笑った。
「……大丈夫です」
「何が」
「今は」
彼は頷いた。
「なら、いい」
それだけ。
でも、その一言で、私は思う。
――続きの物語は、ちゃんと甘い。
怖さもあるけれど、それ以上に、ここにいたいと思わせる。
そして私は知る。
この人は、呼ぶだけじゃない。
離さない。
それが、続編の“恋”なのだ。




