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『契約の代償で名前を失うらしいので、無口な公爵様に毎日呼んでもらうことにした――その後の物語』  作者: 百花繚乱


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第二話:名を呼ぶ手、離さない距離

春の朝は、音が多い。


 冬の間は、音が輪郭を持っていた。

 鐘、風、足音――それぞれがはっきりと存在して、私の胸に落ちてきた。

 でも春になると、音は混ざる。鳥の声、遠くの市場、誰かの笑い声。

 世界が賑やかになるほど、私は少しだけ不安になる。


 ――紛れてしまわないだろうか、と。


 名前を持たない私は、今も「呼ばれている」ことでここにいる。

 それは奇跡みたいな日常で、同時に、いつ崩れてもおかしくない綱渡りだ。


「……起きているな」


 低い声が、扉の向こうから聞こえた。


「はい」


 返事をする前から、分かっていた。

 この人は、私が起きているかどうかを“気配”で知っている。


 扉が開き、セドリックが入ってくる。

 黒い上着、きちんと整えられた襟元。

 視線は私に向いているのに、触れない距離を保ったまま。


「顔色は」


「大丈夫です。昨日より」


「……昨日より、か」


 ほんの一拍。

 その間に、彼は私の輪郭を確かめるように視線を動かす。


「リラ」


 呼ばれた。

 胸の奥が、すっと温まる。


 呼ばれることが、まだ救いであるうちは。

 私はここにいていい。



 朝食の席は、いつも通りだった。


 焼きたてのパン。

 苺のジャム。

 湯気の立つ紅茶。


 変わらない。

 それが、こんなにもありがたい。


 セドリックは向かいに座り、私がパンを割るのを待ってから、自分のカップに手を伸ばした。

 視線は私に向いていないのに、私の動きだけは逃さない。


「……昨日の件」


 彼が言った。


「聖堂の、ですか」


「そうだ」


 短い。

 でも逃げない。


「鐘について、調べさせている」


「もう?」


「……放置は合理的ではない」


 私は思わず笑った。


「合理的、ですね」


「建前だ」


 即答だった。


 私はパンを口に運びながら、少しだけ胸が軽くなる。

 この人は、私が不安を抱えたままにしない。

 言葉が少なくても、行動が早い。


「それと」


 セドリックは、カップを置いた。


「今日、庭に出る」


「庭?」


「人が多い場所は避ける。……慣らす必要がある」


 ――私を。


 その言葉は出ない。

 でも、分かる。


「はい」


 私は頷いた。



 公爵邸の庭は、春の準備をしていた。


 まだ花は少ない。

 でも、土は柔らかく、芽は確かにそこにある。


 私は歩くたびに、セドリックの位置を意識してしまう。

 近すぎない。

 でも遠くない。


 誰かが通れば、自然と私の前に出る。

 風が強くなれば、風上に立つ。


 触れないのに、離さない距離。


「……リラ」


 ふいに呼ばれて、立ち止まる。


「はい」


「近くに来い」


 命令口調ではない。

 でも、迷いがない。


 私は一歩、彼に近づいた。

 すると、彼は何も言わずに、私と外界の間に立つ。


 視線の先には、使用人たちがいた。

 庭の手入れをしているだけなのに、私は気づいてしまう。


 ――見られている。


 好奇の視線。

 悪意ではない。

 でも、私の輪郭を測るような視線。


 セドリックは、その視線を一度受け止める。

 何も言わない。

 ただ、そこに立つ。


 それだけで、空気が変わる。


 誰も近づかない。

 誰も、名を聞かない。


 私は、胸の奥がじんとする。


「……ありがとうございます」


「何の礼だ」


「離さなかったから」


 彼は一瞬だけ、眉を動かした。


「離す理由がない」


 淡々とした声。

 でも、それが何より強い。



 庭の奥、日当たりのいい場所にベンチがある。

 私が好きな場所だ。


 腰を下ろすと、春の匂いが近くなる。

 土と草と、少しだけ花。


「……疲れたか」


「いいえ。むしろ、落ち着きます」


「そうか」


 彼は、私の少し斜め前に立ったままだ。

 座らない。


「座らないんですか」


「周囲を見る」


 それも、建前だ。


 私は分かっている。

 彼は、私が“座っている間”に何かあったらすぐ動ける位置を取っている。


「……ねえ、セドリック様」


「何だ」


「もし」


 言葉を選ぶ。

 これは、怖い話だから。


「もし、また……私の名前が薄くなったら」


 彼の指が、わずかに動いた。


「どうする」


「……どう、されますか」


 問い返し。

 でも、それは逃げじゃない。


 私は答える。


「私、また一人で立てます。でも――」


 そこで、声が詰まった。


 立てる。

 でも、それは“呼ばれなくてもいい”という意味じゃない。


 セドリックは、私を見た。


「一人にしない」


 即答だった。


「薄くなるなら、近くに置く」


「……それは」


「離さない、という意味だ」


 短い。

 重い。


 私は息を吸う。

 春の匂いが、少しだけ甘くなる。


「それ、独占って言うんじゃないですか」


 冗談のつもりだった。


 でも、彼は否定しなかった。


「必要なら、そうなる」


 胸が、どくんと鳴る。


 ああ、この人は――

 私が“守られる側”でいることを、許し続けてくれる。



 午後、庭を出る頃には、私は少しだけ疲れていた。

 安心するのも、体力がいる。


 部屋に戻ろうとした、その時。


「……リラ」


 呼ばれて、振り返る。


 セドリックが、手袋を外していた。

 珍しい。


「手を」


「え?」


「冷えている」


 言われて初めて気づく。

 指先が、少し冷たい。


 私は迷った。

 触れられることに、慣れすぎるのが怖い。


 でも――彼は、私の迷いが終わるまで待った。


 急かさない。

 でも、引かない。


 私はそっと、手を出した。


 彼の手は、思ったより温かかった。

 しっかりしていて、でも力を入れすぎない。


 包む。

 支える。

 離さない。


「……リラ」


 呼ばれる。

 近い距離で。


 胸の奥が、じんわりと灯る。


 この人は、名前だけで私を繋いでいるわけじゃない。

 距離で。

 温度で。

 選択で。


 私は、笑った。


「……大丈夫です」


「何が」


「今は」


 彼は頷いた。


「なら、いい」


 それだけ。


 でも、その一言で、私は思う。


 ――続きの物語は、ちゃんと甘い。

 怖さもあるけれど、それ以上に、ここにいたいと思わせる。


 そして私は知る。


 この人は、呼ぶだけじゃない。

 離さない。


 それが、続編の“恋”なのだ。

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― 新着の感想 ―
静かな甘さと緊張が同居した、とても美しい第二話でした。 「触れないのに離さない距離」というモチーフが一貫していて、呼ぶ声・立ち位置・視線・温度といった細部すべてが“守る”行為として積み重なっているのが…
日常描写の中に、さりげなく差し込まれる違和感が良い。 特別な事件が起きなくても、人の心は確実に揺れている—— その事実を淡々と示してくる回。
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