第六話 それでも、灯りは残る(第二部・完)
夜は、静かに終わろうとしていた。
夜市の屋台はほとんど片付けられ、石畳に残るのは、踏み固められた足跡と、消えかけの灯りだけだ。人の気配が薄れるにつれて、世界の輪郭がはっきりしてくる。
私は立ち止まり、振り返った。あの場所には、もう誰もいない。
「……帰ったみたいですね」
私が言うと、セドリックは少し遅れて振り返る。
「そうだな」
それ以上の言葉はなかった。けれど、その沈黙は、空白ではない。
「今日の夜市、静かでしたね」
「人は多かった」
「はい。でも……」
私は言葉を探す。
「誰もいなくなったあとが、すごく静かで」
セドリックは、私の方を見た。
「……見送ったからだ」
その一言で、胸の奥が少しだけ痛む。
「救えなかった、ですね」
私は小さく言った。セドリックはすぐに否定しなかった。
一拍、置いてから答える。
「……救えなかった」
その正直さが、苦しくて、ありがたかった。
歩き出す。公爵邸へ続く道は、夜市より暗い。けれど、不安はなかった。
「でも」
私が言う。
「見捨てなかったとは、思っています」
セドリックは、歩幅を緩める。
「……違いは何だ」
「分かりません」
私は首を振る。
「でも、今日は……押し付けなかった」
「呼ばなかった」
「はい」
私は、胸に手を当てる。
「呼ばれない方が楽な人もいる。そういう夜もある」
セドリックは、しばらく考えるように黙っていた。
「……俺は」
彼は言いかけて、止める。
「俺は、呼び続けてきた」
「知っています」
「それで、おまえを繋ぎ止めた」
私は頷く。
「それは、私にとって救いでした」
その言葉に、彼の肩がわずかに緩む。
「……だが、今日」
セドリックは続ける。
「呼ばない方が、正しいときがあると知った」
その声には、迷いと、受け入れが混じっていた。
公爵邸の門が見えてくる。灯りが、静かに揺れている。
「ねえ、セドリック」
「何だ」
「もし、あの人が……」
言葉が、少しだけ詰まる。
「もし、完全に見えなくなったら」
セドリックは立ち止まり、私の方を向いた。
「……それでも、覚えている」
「名前がなくても?」
「ああ」
彼は、迷いなく言った。
「名より先に、存在を見た」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「……それなら」
私は息を吐いた。
「今日の選択は、間違っていなかったと思えます」
「俺もだ」
短い返事だったが、確かだった。
部屋に戻ると、私は灯りを机の上に置いた。炎は、もう揺れていない。
それでも私は、しばらくその光を見つめていた。
「……残ってますね」
私が言うと、セドリックは椅子に腰を下ろしたまま答える。
「ああ」
「名前を呼ばなくても」
「灯りは残る」
彼が、私の言葉を引き取る。
その自然さに、私は少し笑った。
「救われた人間が、次に何をするか」
「はい」
私は続ける。
「救えない人を前にして、それでも立ち止まれるか」
セドリックは、しばらく黙ってから言った。
「……厳しいな」
「はい。でも」
私は、灯りを指で囲む。
「私、独りじゃありません」
その言葉に、彼は視線を上げた。
「それは、俺の台詞だ」
「じゃあ、お互い様ですね」
小さく、笑い合う。その空気のまま、彼が言う。
「……今日の件、聖堂は見ている」
「ですよね」
「一人や二人では、終わらない」
胸の奥が、少しだけ引き締まる。
「この世界には、名をほどいて成り立っている部分がある」
私は、ゆっくり頷いた。
「個人の問題じゃない」
「……ああ」
セドリックは立ち上がり、私の前に立つ。
「だから、俺は決めた」
「何をですか」
「守るだけでは、足りない」
その声は低く、静かだった。
「仕組みそのものを見る」
扉が、静かに開く音がした気がした。
私は、彼の手を取る。
「怖いですね」
「……怖い」
即答だった。
「でも」
私が続ける。
「灯りは、もう残ってます」
彼は、私の手を握り返す。
「……消さない」
「一緒に?」
「ああ」
その一言で、十分だった。
私は、最後にもう一度、灯りを見る。
名前を呼ばれなくても。救えなくても。
正しさが揃わなくても。それでも、残るものがある。
——それを見つめる覚悟が、私たちにはあった。
そしてきっと、この灯りは、次の夜へ続いていく。




