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『契約の代償で名前を失うらしいので、無口な公爵様に毎日呼んでもらうことにした――その後の物語』  作者: 百花繚乱


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第五話 呼ばないという選択

夜市から戻ったあと、私はしばらく眠れなかった。

灯りは揺れていない。鈴も鳴らしていない。それなのに、胸の奥がざわつく。正しさと善意が、同じ方向を向かない感覚に、身体が慣れていなかった。

「……起きてるか」

寝台の横で、セドリックが低く言う。

「はい」

彼は椅子に腰を下ろし、何も言わずにそこにいる。触れない。問い詰めない。

ただ、離れない。その在り方が、今の私にはありがたかった。

「今日の神官の言葉」

私が切り出す。

「正論でした」

「そうだな」

「でも、間違っているとも思えません」

「……俺もだ」

短い沈黙。

「それでも」

セドリックが続ける。

「俺は、おまえの判断を止めない」

その言葉に、胸の奥が静かに落ち着いた。

翌日、聖堂から正式な使者が来た。

神官レオニスの名で、簡潔な文面だった。

――対象は自発的放棄者。

――聖堂は保護・介入を行わない。

――公爵家も、過度な関与を控えること。

紙を読み終え、私は息を吐く。

「線を引かれましたね」

「元から引かれていた線だ」

セドリックは淡々と言う。

「踏み越えるかどうかは、こちらの選択だ」

「……踏み越えたら」

「責任は、俺が負う」

私は首を振る。

「半分、私が持ちます」

彼は何も言わなかったが、否定もしなかった。

夜市は、いつもより冷えていた。

風が通るわけでもないのに、灯りの色が白く見える。

私は自然と、あの場所へ向かっていた。

彼は、今日もそこにいた。立ってはいない。座っている。

膝を抱え、壁に背を預けて。

「こんばんは」

私が言うと、彼は目を上げた。

「……来たんですね」

「来ました」

私は、彼の前に灯りを置かない。今日は、籠から出さなかった。

「今日は、名前を聞きません」

「知ってます」

「呼びません」

彼は少し驚いた顔をする。

「……それで、何をしに」

「一緒に、ここにいます」

彼は、しばらく私を見てから、視線を落とした。

「変わってますね」

「そうかもしれません」

「普通、救おうとするでしょう」

「救うって、何でしょう」

私は問い返す。

「名前を戻すことですか。元の場所へ連れ戻すことですか」

彼は答えない。

「それが、あなたにとって苦しいなら」

私は続ける。

「今日は、何もしません」

沈黙が落ちる。

夜市の音が、少し遠くなる。

彼は、ゆっくり息を吐いた。

「……楽です」

「何が」

「呼ばれないのが」

その言葉に、私は頷く。

「そういう日も、あります」

「でも」

彼が続ける。

「それでも、あなたは、私を見ている」

「はい」

「どうして」

私は少し考える。

「見えなくなるのが、嫌だからです」

正直な答えだった。

彼は、しばらく黙っていたが、やがて言った。

「……それなら」

少し間があった。

「今日は、ここにいてください」

私は、静かに頷いた。

少し離れた場所で、セドリックは立っていた。

介入しない。声もかけない。

彼は、剣にも、権威にも手を伸ばさない。ただ、影になる位置に立ち、誰かが不用意に近づけば、自然に視線を向ける。

呼ばない。それでも、守る。それが、彼の選んだ立ち方だった。

時間が過ぎる。人の流れが減り、屋台が片付けられていく。

彼が、ぽつりと言った。

「……名前を、持っていた頃」

私は顔を向ける。

「失敗できませんでした」

「期待されていた?」

「はい。役に立つ人間だって」

彼は小さく笑う。

「役に立たなくなったら、呼ばれなくなった」

胸が締めつけられる。

「だから、今は」

彼は続ける。

「呼ばれない方が、安心なんです」

私は否定しなかった。

「今日は、それでいいと思います」

彼は、少しだけ目を閉じた。

「……ありがとう」

その言葉は、名前よりも軽くて、でも確かだった。

帰り道、セドリックが言う。

「……呼ばなかったな」

「はい」

「それで、よかったのか」

「分かりません」

私は正直に答える。

「でも」

少し間を置いて続ける。

「押し付けなかったのは、間違ってないと思います」

セドリックは、夜空を見上げる。

「……俺は、初めてだ」

「何がですか」

「呼ばずに、守ったのは」

その言葉に、私は足を止める。

「それでも、いてくれました」

「それだけで、十分だ」

彼はそう言った。

公爵邸の門が見える。胸の奥のざわめきは、少しだけ静まっていた。

呼ばないという選択。それは、逃げでも、諦めでもない。

相手の輪郭を、壊さないための距離だった。

——そして私は知る。

この選択が、次にもっと重い問いを連れてくることを。

それでも、戻る場所がある限り、私は歩ける。

名前を呼ばれなくても、灯りは残る。そう信じながら。

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― 新着の感想 ―
この話では、「呼ばないことも守ることになる」というテーマが静かに描かれています。リラとセドリックが、相手の意志を尊重しつつ距離を取ることで関係を保つ姿が丁寧に描かれ、善意や正しさだけでは解決できない問…
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