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『契約の代償で名前を失うらしいので、無口な公爵様に毎日呼んでもらうことにした――その後の物語』  作者: 百花繚乱


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第四話 幸せな人には、分からない

翌日、灯りは揺れなかった。

朝の光は穏やかで、籠の中の炎も安定している。手首の奥にあったはずの冷えはなく、息も深く吸えた。それなのに、私は何度も無意識に灯りを確かめていた。

「……落ち着かないな」

執務を終えたセドリックが、私の手元を見て言う。

「顔に出てますか」

「少し」

私は苦笑して、灯り籠から手を離した。

「昨日の人のこと、考えていました」

「そうだろうと思った」

彼はそれ以上、遮らない。以前なら「関わるな」と言ったかもしれない。

今は、言わない。

「もう一度、話したいです」

「分かっている」

短い返事だったが、拒絶ではなかった。

夜市は、いつもより静かに感じた。

実際には人は多い。けれど、私の意識は端へ、影へと引き寄せられている。

「……いた」

同じ場所。昨日と同じ、灯りの薄い境目。

彼は座っていた。壁に背を預け、膝を抱えるようにして。

こちらを見ると、わずかに目を細める。

「また来た」

「はい」

私の声は、自然に出た。

「今日は、無理に何かを聞きません」

「助かります」

彼はそう言って、少し肩の力を抜いた。

「……幸せそうですね」

不意に言われて、私は言葉に詰まる。

「そう、見えますか」

「ええ。名前を呼ばれて、帰る場所があって」

彼の視線が、私の後ろ――セドリックの方へ向く。

「守ってくれる人もいる」

セドリックは一歩も動かない。ただ、そこに立っている。

「それは……運が良かっただけです」

私がそう言うと、彼は首を振った。

「運だけじゃない。選ばれたんでしょう」

「選ばれた?」

「呼ばれ続けた」

その言葉が、胸に刺さる。

「……だから、分からないと思います」

彼は静かに続ける。

「名前が、鎖になる感覚」

私は黙る。

「呼ばれるたびに、期待が増える。役割が増える。失敗できなくなる」

彼の声は、淡々としていた。

「消えたいと思ったこと、ありませんか」

「……あります」

正直に答えた。

「でも、私は」

言いかけて、止まる。

「続けて」

「消えたくなかった人が、いたから」

彼は、少し驚いた顔をした。

「それが、幸せですか」

「はい」

即答だった。彼は目を伏せる。

「……それが、分からない」

その言葉は、拒絶ではなかった。ただの事実だった。

「分からなくてもいいです」

私が言う。

「無理に、同じ答えを持たなくても」

「それでも、あなたは来る」

「はい」

「どうして」

私は少し考えてから、答える。

「あなたが、ここにいるからです」

彼は、小さく笑った。

「それ、名前より重いですね」

そのとき、足音が近づいた。

白い法衣。静かな気配。

神官レオニスだった。

「……またお会いしましたね、リラさん」

柔らかな声。けれど、空気が張る。

「こんばんは、神官様」

「その方ですか」

彼は、私の隣にいる“彼”を見る。

「記録にない存在。……自発的な放棄ですね」

「放棄?」

彼が顔を上げる。

「そう言われるのは、初めてです」

「名前を持つ権利を、あなた自身が手放している」

レオニスは淡々と言う。

「なら、聖堂が介入する理由はありません」

「それは……」

私が言いかけると、彼は首を振る。

「保護は、望む者にだけ与えられる」

正論だった。

「あなたは、幸せだ」

レオニスが私を見る。

「だから、救いたくなる。だが——」

彼の視線が鋭くなる。

「救われた側の善意は、時に刃になる」

私の胸が、きゅっと縮む。

「彼は、救いを望んでいない」

沈黙。

「……それでも」

私が言う。

「見捨てる理由には、ならないと思います」

レオニスは、ほんの一瞬だけ目を細めた。

「理想ですね」

「はい」

私は頷く。

「でも、私は理想で生き延びました」

その言葉に、セドリックが微かに息を吐く。

「公爵様」

レオニスが言う。

「あなたは、どう思われますか」

視線が集まる。セドリックは、しばらく黙っていた。

「……彼女の判断を尊重する」

それだけ。レオニスは小さくため息をついた。

「では、結果を見届けましょう」

そう言って、夜市の中へ消える。

残された沈黙の中で、彼が言う。

「幸せな人には、分からない」

「……そうかもしれません」

「それでも、来る」

「はい」

彼は、少しだけ目を細めた。

「厄介ですね、あなた」

「よく言われます」

セドリックが、私の後ろで言う。

「……戻るぞ」

私は頷いた。歩き出しながら、胸の奥で思う。

私たちは、同じ答えを持っていない。

でも。同じ場所で、立ち止まっている。

それだけで、今は十分なのかもしれない。

——幸せな人には分からない。

その言葉を、私は否定しない。否定せずに、なお隣に立つ。

それが、私の選んだやり方だった。

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― 新着の感想 ―
リラが「名前を持つことで生じる重さ」と、それでも人を尊重し見守る覚悟を描いています。幸せな側には理解できない苦しみや選択があることを認めつつ、リラとセドリックが共に立ち、無理のない関わり方を選ぶ姿が静…
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