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『契約の代償で名前を失うらしいので、無口な公爵様に毎日呼んでもらうことにした――その後の物語』  作者: 百花繚乱


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第三話 呼ばれても、返らない名前

翌日の空は、よく晴れていた。

冬の名残りはあるのに、光だけは春に近い。公爵邸の中庭に落ちる影が短く、鳥の声が澄んで聞こえる。穏やかな朝だった。

それでも、私の中には昨夜の冷えが残っている。

「……考え事か」

執務室から戻ったセドリックが、私の手元を見て言った。灯りの調整をしているはずなのに、炎の揺れが安定しない。

「少しだけ」

「無理に触れるな」

彼はそう言って、私の隣に立つ。距離は近いが、手は出さない。

いつも通りの、守り方。

「昨夜の人物のことか」

「はい」

即答すると、セドリックはわずかに目を伏せた。

「関わらない方がいい」

「分かっています」

「……分かっていて、行く顔だな」

私は小さく笑った。

「今夜、もう一度だけ会いに行きたいんです」

否定はなかった。ただ、短い沈黙。

「俺も行く」

「もちろんです」

その言葉が、私を少しだけ楽にした。

夜市は、前日より人が多かった。週末が近いせいか、屋台の呼び声も強い。

灯りが重なり、影は薄い。

「……いた」

私が足を止めたのは、同じ場所だった。灯りの届きにくい端。

人の流れから一歩外れたところ。昨夜と同じ“薄さ”。

彼は、壁にもたれて立っていた。今日は、こちらを見ている。

「こんばんは」

私が言うと、彼は小さく頷いた。

「……また来たんですね」

「約束しましたから」

「そんな約束、してません」

「しましたよ。会えたら、って」

彼は肩をすくめる。

「律儀だ」

「灯り売りなので」

冗談めかして言うと、彼の口元がわずかに緩んだ。

「……名前を、呼ばなくてもいいですか」

私がそう言うと、彼は少し驚いた顔をした。

「どうして」

「昨日、嫌そうだったから」

彼は一瞬、視線を逸らす。

「……嫌というより」

言葉を探す間があった。

「重いんです」

「重い」

「呼ばれると、“ちゃんとしなきゃ”って思う。期待されてる気がする」

私は頷いた。

「それで、苦しかった?」

「ええ」

即答だった。そのとき、セドリックが一歩前に出る。

「それでも、名はお前を繋ぐ」

低く、はっきりした声。

「繋ぐことで、引きずられることもある」

彼は反論するように言う。

「……それは、逃げだ」

彼はセドリックをまっすぐ見た。

「逃げでいいんです。生きてるだけで」

その言葉に、空気が張る。私は、二人の間に立つ。

「ねえ」

二人とも、私を見る。

「今日は、名前を呼ぶために来たんじゃありません」

セドリックが、わずかに目を細める。

「……では、何のためだ」

「確かめるためです」

私は彼を見る。

「あなたが、ここにいるって」

彼は、少し困ったように笑った。

「そんなの、見れば分かるでしょう」

「見える人にしか、分からないこともあります」

私は灯りを取り出す。炎は安定している。彼の前に置いても、揺れない。

「呼ばなくても、灯りは残る」

彼は、じっと炎を見た。

「……不思議ですね」

「何がですか」

「名前を聞かれない方が、楽なのに」

彼は続ける。

「それでも、ここに立ってる自分がいる」

セドリックが、低く息を吐いた。

「……それが、繋がっている証だ」

彼は首を振る。

「分かりません。ただ」

少しだけ、声が小さくなる。

「誰かが、立ち止まってくれたのは、久しぶりです」

その言葉に、胸が締めつけられる。私は一歩、近づいた。

「今日は、これで帰ります」

「……え?」

「また来ます。でも、無理はしません」

彼は、少し驚いた顔で私を見る。

「それで、いいんですか」

「はい」

私は答える。

「呼ばれなくても、あなたはここにいる。それを、私は忘れません」

彼は何も言わなかった。ただ、視線を下げる。

私たちは、その場を離れた。

夜市の喧騒に戻ると、セドリックが言う。

「……呼ばなかったな」

「はい」

「それで、よかったのか」

「分かりません」

正直な答えだった。

「でも」

私は続ける。

「呼ばないことが、尊重になるときもあります」

セドリックは黙ったまま、歩く。

公爵邸が見えてきた頃、彼がぽつりと言った。

「……俺は、呼び続けてきた」

「知っています」

「それが、正しいと思っていた」

私は立ち止まり、彼を見る。

「今も、正しいと思います」

「……だが、万能ではない」

その言葉が、静かに落ちる。

「初めて、分からなくなった」

それは、彼の弱音だった。

私は彼の袖を、そっと掴む。

「分からなくなっても、いいです」

彼は私を見る。

「一緒に考えましょう」

セドリックは、短く頷いた。

その夜、灯りは揺れなかった。

でも、私たちの中で、何かが確かに揺れ始めていた。

——呼ばれても、返らない名前がある。

その事実を、私たちは、初めて真正面から受け取った。

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― 新着の感想 ―
「呼ばれても返さない名前」というテーマを通して、リラと“薄い人影”の間に生まれる微妙な距離感や尊重の重要性が描かれています。呼ぶことだけが繋がりではなく、見守る・尊重することで関係を築く可能性もある、…
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