第二話 灯りが揺れた、知らない人
翌朝、私は少し早く目が覚めた。理由ははっきりしている。
夢の中で、灯りが揺れていたからだ。
音もなく、風もないのに、炎だけが頼りなく揺れる。
その光を見つめながら、私は「誰のための灯りだろう」と考えていた。
「……起きてるか」
扉の向こうから声がする。
「はい」
返事をすると、セドリックが入ってきた。
昨日と同じ、落ち着いた顔。私の名前を、迷いなく呼ぶ。
「リラ」
胸の奥が、自然に温まる。
それでも、私は一瞬、彼の声を確かめるように聞いてしまった。
「昨夜、眠れなかったか」
「少しだけ」
嘘ではない。
「寒かった?」
「……いいえ」
正確には、寒かったのは“体”ではなかった。
朝食はいつも通りだった。焼きたてのパン。苺のジャム。静かな会話。
「今日も夜市に行くか」
セドリックが何気なく言う。私は一瞬だけ迷ってから、頷いた。
「行きたいです」
「……昨日の件か」
「はい」
彼はそれ以上、聞かなかった。
その代わり、いつもより少しだけ歩調を合わせてくれる。
夜市は、昨日と同じように賑わっていた。
けれど、私には分かる。“同じ”ではない。
人の声、灯りの色、匂い。
すべての間に、昨日はなかった「隙間」がある。
「……ここ」
私は、昨日と同じ場所で足を止めた。屋台の列が途切れる端。
灯りが弱く、影が溜まる場所。胸の奥が、ひやりと冷える。
「またか」
セドリックが低く言う。彼にも、分かったのだ。
「……います」
声を潜めて、私は言う。そこに、人が立っていた。昨日より、はっきり見える。
それでも、周囲の人間は自然に避けて通る。視線も、会話も、そこだけ抜け落ちている。
「こんばんは」
私が声をかけると、相手はゆっくりとこちらを見た。
「……昨日の人」
覚えていた。その事実に、私は少しだけ息を詰める。
「覚えていてくれたんですね」
「ええ。珍しかったので」
「何がですか」
「……立ち止まる人が」
彼はそう言って、曖昧に笑った。
「寒くないですか」
私が聞くと、彼は首を振る。
「慣れてます」
「何に」
「こういう場所に」
言葉が、少しだけ棘を持つ。
私は、灯り籠を抱え直した。炎が、微かに揺れる。
「お名前を、聞いてもいいですか」
昨日と同じ問い。でも、今日は逃げなかった。
彼は一瞬だけ黙り、それから答えた。
「……どうしてですか」
「昨日、あなたを見て」
私は正直に言う。
「私、昔、同じ場所に立っていたので」
彼は驚いたように私を見る。
「あなたが?」
「はい。呼ばれなくて、気づかれなくて」
セドリックが、黙ったまま聞いている。
「……それで、どうなったんですか」
「私は、運が良かっただけです」
彼は、少し考えてから言った。
「名前を、失いかけた人?」
私は頷く。
「だから、知りたいんです。あなたは——」
「名前なんて、いらないです」
彼は、昨日よりはっきり言った。
「なくても、困らない。呼ばれなくても、楽です」
「楽?」
「期待されない。役割もない。失敗しても、誰も落胆しない」
セドリックが、静かに口を開く。
「それは、生きているとは言わない」
彼はセドリックを見る。
「貴族様は、そう思うでしょうね」
声音は穏やかだが、線が引かれている。
「でも、私は」
彼は続ける。
「名前があったから、苦しかった」
灯りが、はっきりと揺れた。私は、思わず籠を抱き寄せる。
これは、私の時と逆だ。私は、名前を失うのが怖かった。
この人は、名前を持ち続けるのが怖かった。
「……今日は、ここまでにします」
私が言うと、彼は少し驚いた顔をした。
「え?」
「無理に踏み込むと、壊れそうなので」
彼は、しばらく私を見てから、視線を落とした。
「……あなたは、変わってます」
「よく言われます」
「それでも」
彼は小さく言う。
「昨日より、ここが寒くない」
私は微笑んだ。
「また、会えますか」
「……分かりません」
「それでいいです」
私たちは、その場を離れた。
帰り道、セドリックが言った。
「昨日より、踏み込んだな」
「はい」
「それで、どう思った」
私は少し考えてから答える。
「呼ぶことが、正解じゃない人もいる」
「……そうだな」
彼の声には、迷いがあった。
公爵邸に戻り、私は灯りを置く。炎は、もう揺れていない。
それでも、私は確信していた。あの人は、偶然ではない。
あれは——
私が“次に向き合うべき存在”だ。
そして私は、もう一度思う。
今度は私が救われるではない。私が、どう救うかを選ぶのだと。




