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『契約の代償で名前を失うらしいので、無口な公爵様に毎日呼んでもらうことにした――その後の物語』  作者: 百花繚乱


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第一話:春なのに、鐘が鳴る



 冬至の夜のことを、私は何度も指先で確かめてしまう。

 あの夜、王都の鐘が二度鳴って、世界が白くほどけかけて――それでも私は消えなかった。


 屋台のスープの湯気が甘く、夜市の灯りが多すぎるほどに揺れていた。

 私の胸の奥は冷たくなっていって、指先の感覚が薄くなるのに、隣にいる人の手だけは温かかった。


 セドリック・ヴァルハイム。

 無口な公爵様。


 彼は、私の手を自分の胸に当てて言った。

 名前は温度だと、私が言ったから。なら、温度ごと残す、と。


 それから――彼は呼んだ。

 迷いなく。真っ直ぐに。


「リラ」


 その一音だけで、私の輪郭は“ここ”に戻った。

 戻った、というより、縫い止められた、と言った方が正しいかもしれない。

 私は名前を取り戻したわけじゃない。

 それでも、呼ばれたことで、世界に残った。


 だから私は、冬至が過ぎたら、怖さは少しだけ薄くなると思っていた。

 期限を越えたのだから。物語は――ここで終わってもいいはずだった。


 けれど、終わりの先には、いつも続きがある。

 灯りが一晩を越えて残るように。

 呼び名が一度で終わらないように。


 そして春は、私にそれを思い出させた。



 雪の名残が石畳から消え、朝の風が冷たさより匂いを運ぶようになった頃。

 公爵邸の庭の木々が、芽吹きの準備を始めた。


 私の部屋の窓辺にも、小さな鉢植えが置かれている。

 オルフェンが用意してくれたものだ。

 土は黒く、少し湿っていて、触れると生き物みたいに温度がある。


 私は朝、目を覚ますと最初に鈴を確かめる。

 枕元に置いた銀の鈴。

 澄んだ音が鳴る合図。

 “あなたが私を見る”ための合図。


 それから灯りを一つ点す。

 指先ほどの炎で、朝が少し優しくなる。


 そして最後に、扉の向こうを待つ。


 壁越しの足音。

 硬い靴が床に触れる音。

 わずかに衣擦れの気配。


「……リラ」


 低い声が、今日も私を“ここ”に留める。

 呼ばれるたび、胸の奥の冷えがほどけていく感覚は、冬の頃より薄い。

 その代わり、呼ばれなかったらどうなるのか――という恐怖が、前よりはっきり形を持つようになった。


 助かった、だけじゃ終われない。

 生きていくなら、続いていく不安も抱える。


 私は毛布をたたんで、窓を少し開けた。

 春の空気が、乾いた香草みたいな匂いを連れてくる。

 遠くで鳥が鳴いた。

 冬の鐘とは違う音。軽い。けれど、聞こえる。


 ドアが軽く叩かれる。


「入っていいですか」


 返事をする前から、彼が入ってくる気配がする。

 セドリックはいつも、許可を取りながら、もう決めている。

 触れない距離を守りながら、必要なところだけを確実に繋ぐ人。


 黒い服。背筋はまっすぐ。

 表情は変わらないのに、目だけが私を確認する。


「顔色は」


「大丈夫です。……春なので」


 私は笑ったつもりだった。

 でも、うまく笑えていないのが自分でも分かる。


 セドリックは小さく息を吐いて、机の上に紙片を置いた。

 見覚えのある紙だ。

 彼が冬至の夜、ポケットから出したものと同じ質感。


 紙には、同じ文字が何度も書かれている。

 少し歪んだ字も混じっている。

 力を込めた跡が、線に残っている。


 ――リラ。リラ。リラ。


 私は指先で、その文字をなぞった。

 なぞると、なぜか胸が熱くなる。

 涙が出そうになるのを、土の匂いで誤魔化した。


「……毎朝、確認している」


「確認?」


「忘れないために」


 短い。

 でも、その短さの中に、彼の怖さが入っている。


 冬至の朝、彼は私の名前だけを忘れた。

 仕事も剣も、公爵としての判断も残っていたのに。

 “そこだけ”が抜け落ちた。


 あれは一度で終わったはずだ。

 私はそう思いたかった。

 なのに、セドリックは今も、確認している。


 忘れないために。

 あるいは――忘れてしまうことが、また起きると知っているみたいに。


「……今日は外に出る」


 彼が言った。


「市場ですか」


「違う。聖堂の記録院」


 私の指が止まった。


 聖堂。

 神官レオニスの微笑みが脳裏に浮かぶ。

 正しい檻。

 “あなたのため”という顔で作る壁。


 私は息を吸った。

 春の空気が、少し冷たく感じた。


「行く必要、ありますか」


「……ある」


 彼は建前を探さなかった。

 必要だ、とだけ言った。

 その言い方は、私にとって建前より重い。


「俺たちの契約が、本当に終わったかどうか――確認する」


「終わってない、んですか」


 言った瞬間、喉が乾いた。

 怖い質問だ。

 答えを聞いたら、春がまた冬に戻る気がする。


 セドリックは私の灯りを見る。

 炎の揺れを、まるで脈拍みたいに眺めてから言った。


「……終わっているなら、安心できる」


「終わっていないなら」


 私が続けると、彼は一拍置いた。


「対策をする」


 それだけ。

 でも私は、その二文字に救われる。

 “対策”という言葉は冷たいはずなのに、彼が言うと温かい。

 守るための準備という意味になるから。


 私は鈴を手に取った。

 冷たい銀が、掌で少しずつ温まる。


「……分かりました。行きます」


 セドリックは頷く。

 それから、いつも通り私の少し前に立った。

 肩を掴まない。

 腰の前の空気を塞ぐように、私がぶつからない位置に、手を置く。


「リラ。ゆっくり歩け」


 呼ばれる。

 胸の奥が、少しだけ軽くなる。



 馬車の窓から見える王都は、冬の白さを脱いで、色を取り戻し始めていた。

 屋台の湯気は薄くなり、代わりに焼き菓子の甘い匂いが増えた。

 春は人を油断させる。

 暖かいから、大丈夫だと思わせる。


 私はその油断が、怖い。


 記録院は聖堂の裏手にあった。

 白い石の壁。

 風の音が反響して、足音が大きく聞こえる。

 扉を開けると、紙とインクの匂いがした。

 乾いた、でも生きている匂い。


 案内役の修道士が頭を下げる。


「公爵様。お待ちしておりました。……その方は」


 視線が私に向いた瞬間、空気がほんの少し止まった。

 いつもなら、ここで私は微笑んで名乗る。

 でも私は、名乗る“名前”を持たない。


 私の喉が詰まる前に、セドリックが言った。


「リラだ」


 修道士が頷く。

 その頷きが、私を救う。

 “認識された”ということだから。


 けれど、その次の瞬間。

 修道士の眉がわずかに寄った。


「……失礼。もう一度、お名前を」


 心臓が小さく跳ねた。

 今、認識が揺れた。

 ほんの一瞬、私の輪郭が薄くなった気がした。


 セドリックは間を置かず、同じ音で言った。


「リラ」


 修道士は、また頷いた。

 今度は揺れなかった。


 私は呼吸を整える。

 春の匂いが急に遠くなり、冬至の鐘が耳の奥で鳴りそうになる。


「大丈夫か」


 馬車の中で聞かれた時より、近い声。

 セドリックは振り返らない。

 でも、私が崩れないように、距離だけを詰めてくる。


「……大丈夫です」


 私は嘘をついた。

 嘘というより、願いだ。

 大丈夫であってほしい、という。



 記録院の奥は、天井が高かった。

 棚が何列も並び、紙束が眠っている。

 その中央に、レオニスがいた。


 相変わらず白い法衣。

 相変わらず正しい笑顔。

 春の光の中でも、その笑顔は少し冷たい。


「公爵様。……そして、リラさん」


 呼ばれた。

 私は胸の奥を押さえたくなる。

 今、私は確かに“ここにいる”。


「お久しぶりです」


 私が言うと、レオニスは穏やかに頷いた。


「冬至の件は、興味深い結果でした。隔離は――今のところ必要ない」


「今のところ、ですね」


 私が言うと、彼は微笑みを崩さない。


「正しさは、状況で変わります。……あなた方が“結果”を出したのは事実です」


 セドリックが口を開く。


「俺たちの契約が、終わったかどうかを知りたい」


「契約」


 レオニスは指を組む。

 その動作が、祈りみたいに見えるのが嫌だった。

 祈りは優しいもののはずなのに、彼の指は檻を作る。


「あなたは、まだ“名”を完全に取り戻していない」


 レオニスの視線が私の手首に落ちる。

 印は冬より薄い。

 でも、消えてはいない。


「終わったのなら、印は消える。……消えていない以上、契約は形を変えて続いているのでしょう」


 喉が冷える。

 私は笑おうとしたが、失敗した。


「形を変えるって」


「代償が移る、あるいは広がる」


 レオニスは、まるで天気の話をするみたいに言った。


「名を失う契約は、あなたの存在をほどく。だが、公爵様が呼び続けたことで、ほどけきらなかった。ならば――」


 彼は少しだけ間を置く。


「次は、公爵様の側が削られる可能性があります」


 空気が硬くなった。

 私は息を止める。

 セドリックの横顔は変わらない。

 変わらないのに、肩の線がほんの少しだけ固くなる。


「……具体的に」


 セドリックが言う。


「“呼ぶ”ことの代償です。あなたは、彼女の名を呼ぶたびに、何かを支払っている」


 私は鈴を握りしめた。

 掌が痛い。

 冷たさではなく、力を入れすぎて。


「それ、前にも……」


 私が言いかけると、レオニスが頷いた。


「ええ。冬至の朝、あなたの名だけが抜け落ちたのは、その前兆かもしれない。あるいは、もっと別の形で現れることもある」


「別の形」


「例えば――」


 レオニスは棚の方を見た。

 そこにある膨大な紙束。

 誰かの人生が、文字になって眠っている場所。


「“未来の記憶”です。あなたがこれから出会うはずだった言葉。選ぶはずだった道。……それが、先に失われる」


 私は思わずセドリックを見る。

 彼は私を見ない。

 けれど、いつもより少しだけ呼吸が深い。


 この人は、知っていた。

 だから確認していた。

 紙に書いて、何度も見て、忘れないように。


「……対策は」


 セドリックの声が低い。


 レオニスは微笑んだ。


「“呼ぶ”以外の固定が必要です。文字、印、記録。あなたの関係を、世界に刻む」


 その言葉が、私の胸に刺さる。

 世界に刻む。

 名前がなくても、私という存在を。


 それは救いでもあり、怖さでもある。

 刻まれたものは、消えにくい。

 消えにくいものは、壊れた時に痛い。


「……刻むって」


 私が呟くと、レオニスは優しく頷いた。


「あなたが望むなら。もちろん、あなたが望まないなら、正しさのために――」


 その先を、セドリックが遮った。


「彼女の望みを奪うな」


 短い。

 でも、空気が変わった。

 レオニスの笑顔が、ほんの少しだけ薄くなる。


「では、彼女の望みを聞きましょう」


 視線が私に向く。

 私は息を吸う。

 春の匂いを探して、見つけられない。


 ――望み。

 私は何を望む?

 名前が戻ること?

 安心?

 未来?

 それとも。


 私は、セドリックに呼ばれ続けることを望んでしまう。

 それがこの人を削るとしても。

 そんな望みは、正しくない。


 でも私は、冬至の夜に決めた。

 絶望はしない。

 好きに生きる。


 好きに生きるって、たぶん――正しさだけでできていない。


「私は……」


 言葉を探す私の前で、セドリックが、ほんの少しだけ視線を動かした。

 私を見る、というより、私の輪郭があるかを確認するみたいに。


 その瞬間。

 どこかで、鐘が鳴った。


 春なのに。


 冬至の鐘みたいに、深く、硬い音。


 私は息を止めた。

 記録院の空気が冷える。

 紙の匂いが、急に刃物みたいになる。


「……今の鐘は」


 修道士が青い顔で言った。


「この季節に鳴るはずがない」


 レオニスの笑顔が、消えた。

 初めて、彼の“正しさ”が崩れた顔を見た。


「……来ましたね」


 低い声。


 何が。

 問い返す前に、セドリックが私の前に立った。

 いつものように触れない。

 でも、逃げ道を塞ぐように、立つ。


「リラ」


 呼ばれた。

 胸の奥が、灯る。


 けれど――次の一音が、遅れた。


 ほんの、ほんの一拍。

 今までならあり得ないほどの、短い空白。


 その空白の中で、私は理解してしまった。


 契約は終わっていない。

 代償は形を変えて続いている。

 そしてそれは、私だけの問題じゃない。


 セドリックの喉が、わずかに動く。

 言葉を探すみたいに。


 私は鈴を握りしめ、音を鳴らそうとする。

 でも、鳴らす前に――


「……リラ」


 やっと、呼ばれた。


 私は笑おうとして、また失敗した。

 春の光の中で、冬の鐘が鳴り続けている気がした。


 そして私は思う。


 “その後”の物語は、きっと――ここからが本当だ。

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― 新着の感想 ―
静かで張りつめた余韻が残る第一話でした。 「名前=存在」というテーマが一貫していて、呼ばれること・記録されること・忘れられることの怖さと温かさが、春の気配と冬至の鐘の対比でとても美しく描かれています。…
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