第一話:春なのに、鐘が鳴る
冬至の夜のことを、私は何度も指先で確かめてしまう。
あの夜、王都の鐘が二度鳴って、世界が白くほどけかけて――それでも私は消えなかった。
屋台のスープの湯気が甘く、夜市の灯りが多すぎるほどに揺れていた。
私の胸の奥は冷たくなっていって、指先の感覚が薄くなるのに、隣にいる人の手だけは温かかった。
セドリック・ヴァルハイム。
無口な公爵様。
彼は、私の手を自分の胸に当てて言った。
名前は温度だと、私が言ったから。なら、温度ごと残す、と。
それから――彼は呼んだ。
迷いなく。真っ直ぐに。
「リラ」
その一音だけで、私の輪郭は“ここ”に戻った。
戻った、というより、縫い止められた、と言った方が正しいかもしれない。
私は名前を取り戻したわけじゃない。
それでも、呼ばれたことで、世界に残った。
だから私は、冬至が過ぎたら、怖さは少しだけ薄くなると思っていた。
期限を越えたのだから。物語は――ここで終わってもいいはずだった。
けれど、終わりの先には、いつも続きがある。
灯りが一晩を越えて残るように。
呼び名が一度で終わらないように。
そして春は、私にそれを思い出させた。
*
雪の名残が石畳から消え、朝の風が冷たさより匂いを運ぶようになった頃。
公爵邸の庭の木々が、芽吹きの準備を始めた。
私の部屋の窓辺にも、小さな鉢植えが置かれている。
オルフェンが用意してくれたものだ。
土は黒く、少し湿っていて、触れると生き物みたいに温度がある。
私は朝、目を覚ますと最初に鈴を確かめる。
枕元に置いた銀の鈴。
澄んだ音が鳴る合図。
“あなたが私を見る”ための合図。
それから灯りを一つ点す。
指先ほどの炎で、朝が少し優しくなる。
そして最後に、扉の向こうを待つ。
壁越しの足音。
硬い靴が床に触れる音。
わずかに衣擦れの気配。
「……リラ」
低い声が、今日も私を“ここ”に留める。
呼ばれるたび、胸の奥の冷えがほどけていく感覚は、冬の頃より薄い。
その代わり、呼ばれなかったらどうなるのか――という恐怖が、前よりはっきり形を持つようになった。
助かった、だけじゃ終われない。
生きていくなら、続いていく不安も抱える。
私は毛布をたたんで、窓を少し開けた。
春の空気が、乾いた香草みたいな匂いを連れてくる。
遠くで鳥が鳴いた。
冬の鐘とは違う音。軽い。けれど、聞こえる。
ドアが軽く叩かれる。
「入っていいですか」
返事をする前から、彼が入ってくる気配がする。
セドリックはいつも、許可を取りながら、もう決めている。
触れない距離を守りながら、必要なところだけを確実に繋ぐ人。
黒い服。背筋はまっすぐ。
表情は変わらないのに、目だけが私を確認する。
「顔色は」
「大丈夫です。……春なので」
私は笑ったつもりだった。
でも、うまく笑えていないのが自分でも分かる。
セドリックは小さく息を吐いて、机の上に紙片を置いた。
見覚えのある紙だ。
彼が冬至の夜、ポケットから出したものと同じ質感。
紙には、同じ文字が何度も書かれている。
少し歪んだ字も混じっている。
力を込めた跡が、線に残っている。
――リラ。リラ。リラ。
私は指先で、その文字をなぞった。
なぞると、なぜか胸が熱くなる。
涙が出そうになるのを、土の匂いで誤魔化した。
「……毎朝、確認している」
「確認?」
「忘れないために」
短い。
でも、その短さの中に、彼の怖さが入っている。
冬至の朝、彼は私の名前だけを忘れた。
仕事も剣も、公爵としての判断も残っていたのに。
“そこだけ”が抜け落ちた。
あれは一度で終わったはずだ。
私はそう思いたかった。
なのに、セドリックは今も、確認している。
忘れないために。
あるいは――忘れてしまうことが、また起きると知っているみたいに。
「……今日は外に出る」
彼が言った。
「市場ですか」
「違う。聖堂の記録院」
私の指が止まった。
聖堂。
神官レオニスの微笑みが脳裏に浮かぶ。
正しい檻。
“あなたのため”という顔で作る壁。
私は息を吸った。
春の空気が、少し冷たく感じた。
「行く必要、ありますか」
「……ある」
彼は建前を探さなかった。
必要だ、とだけ言った。
その言い方は、私にとって建前より重い。
「俺たちの契約が、本当に終わったかどうか――確認する」
「終わってない、んですか」
言った瞬間、喉が乾いた。
怖い質問だ。
答えを聞いたら、春がまた冬に戻る気がする。
セドリックは私の灯りを見る。
炎の揺れを、まるで脈拍みたいに眺めてから言った。
「……終わっているなら、安心できる」
「終わっていないなら」
私が続けると、彼は一拍置いた。
「対策をする」
それだけ。
でも私は、その二文字に救われる。
“対策”という言葉は冷たいはずなのに、彼が言うと温かい。
守るための準備という意味になるから。
私は鈴を手に取った。
冷たい銀が、掌で少しずつ温まる。
「……分かりました。行きます」
セドリックは頷く。
それから、いつも通り私の少し前に立った。
肩を掴まない。
腰の前の空気を塞ぐように、私がぶつからない位置に、手を置く。
「リラ。ゆっくり歩け」
呼ばれる。
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
*
馬車の窓から見える王都は、冬の白さを脱いで、色を取り戻し始めていた。
屋台の湯気は薄くなり、代わりに焼き菓子の甘い匂いが増えた。
春は人を油断させる。
暖かいから、大丈夫だと思わせる。
私はその油断が、怖い。
記録院は聖堂の裏手にあった。
白い石の壁。
風の音が反響して、足音が大きく聞こえる。
扉を開けると、紙とインクの匂いがした。
乾いた、でも生きている匂い。
案内役の修道士が頭を下げる。
「公爵様。お待ちしておりました。……その方は」
視線が私に向いた瞬間、空気がほんの少し止まった。
いつもなら、ここで私は微笑んで名乗る。
でも私は、名乗る“名前”を持たない。
私の喉が詰まる前に、セドリックが言った。
「リラだ」
修道士が頷く。
その頷きが、私を救う。
“認識された”ということだから。
けれど、その次の瞬間。
修道士の眉がわずかに寄った。
「……失礼。もう一度、お名前を」
心臓が小さく跳ねた。
今、認識が揺れた。
ほんの一瞬、私の輪郭が薄くなった気がした。
セドリックは間を置かず、同じ音で言った。
「リラ」
修道士は、また頷いた。
今度は揺れなかった。
私は呼吸を整える。
春の匂いが急に遠くなり、冬至の鐘が耳の奥で鳴りそうになる。
「大丈夫か」
馬車の中で聞かれた時より、近い声。
セドリックは振り返らない。
でも、私が崩れないように、距離だけを詰めてくる。
「……大丈夫です」
私は嘘をついた。
嘘というより、願いだ。
大丈夫であってほしい、という。
*
記録院の奥は、天井が高かった。
棚が何列も並び、紙束が眠っている。
その中央に、レオニスがいた。
相変わらず白い法衣。
相変わらず正しい笑顔。
春の光の中でも、その笑顔は少し冷たい。
「公爵様。……そして、リラさん」
呼ばれた。
私は胸の奥を押さえたくなる。
今、私は確かに“ここにいる”。
「お久しぶりです」
私が言うと、レオニスは穏やかに頷いた。
「冬至の件は、興味深い結果でした。隔離は――今のところ必要ない」
「今のところ、ですね」
私が言うと、彼は微笑みを崩さない。
「正しさは、状況で変わります。……あなた方が“結果”を出したのは事実です」
セドリックが口を開く。
「俺たちの契約が、終わったかどうかを知りたい」
「契約」
レオニスは指を組む。
その動作が、祈りみたいに見えるのが嫌だった。
祈りは優しいもののはずなのに、彼の指は檻を作る。
「あなたは、まだ“名”を完全に取り戻していない」
レオニスの視線が私の手首に落ちる。
印は冬より薄い。
でも、消えてはいない。
「終わったのなら、印は消える。……消えていない以上、契約は形を変えて続いているのでしょう」
喉が冷える。
私は笑おうとしたが、失敗した。
「形を変えるって」
「代償が移る、あるいは広がる」
レオニスは、まるで天気の話をするみたいに言った。
「名を失う契約は、あなたの存在をほどく。だが、公爵様が呼び続けたことで、ほどけきらなかった。ならば――」
彼は少しだけ間を置く。
「次は、公爵様の側が削られる可能性があります」
空気が硬くなった。
私は息を止める。
セドリックの横顔は変わらない。
変わらないのに、肩の線がほんの少しだけ固くなる。
「……具体的に」
セドリックが言う。
「“呼ぶ”ことの代償です。あなたは、彼女の名を呼ぶたびに、何かを支払っている」
私は鈴を握りしめた。
掌が痛い。
冷たさではなく、力を入れすぎて。
「それ、前にも……」
私が言いかけると、レオニスが頷いた。
「ええ。冬至の朝、あなたの名だけが抜け落ちたのは、その前兆かもしれない。あるいは、もっと別の形で現れることもある」
「別の形」
「例えば――」
レオニスは棚の方を見た。
そこにある膨大な紙束。
誰かの人生が、文字になって眠っている場所。
「“未来の記憶”です。あなたがこれから出会うはずだった言葉。選ぶはずだった道。……それが、先に失われる」
私は思わずセドリックを見る。
彼は私を見ない。
けれど、いつもより少しだけ呼吸が深い。
この人は、知っていた。
だから確認していた。
紙に書いて、何度も見て、忘れないように。
「……対策は」
セドリックの声が低い。
レオニスは微笑んだ。
「“呼ぶ”以外の固定が必要です。文字、印、記録。あなたの関係を、世界に刻む」
その言葉が、私の胸に刺さる。
世界に刻む。
名前がなくても、私という存在を。
それは救いでもあり、怖さでもある。
刻まれたものは、消えにくい。
消えにくいものは、壊れた時に痛い。
「……刻むって」
私が呟くと、レオニスは優しく頷いた。
「あなたが望むなら。もちろん、あなたが望まないなら、正しさのために――」
その先を、セドリックが遮った。
「彼女の望みを奪うな」
短い。
でも、空気が変わった。
レオニスの笑顔が、ほんの少しだけ薄くなる。
「では、彼女の望みを聞きましょう」
視線が私に向く。
私は息を吸う。
春の匂いを探して、見つけられない。
――望み。
私は何を望む?
名前が戻ること?
安心?
未来?
それとも。
私は、セドリックに呼ばれ続けることを望んでしまう。
それがこの人を削るとしても。
そんな望みは、正しくない。
でも私は、冬至の夜に決めた。
絶望はしない。
好きに生きる。
好きに生きるって、たぶん――正しさだけでできていない。
「私は……」
言葉を探す私の前で、セドリックが、ほんの少しだけ視線を動かした。
私を見る、というより、私の輪郭があるかを確認するみたいに。
その瞬間。
どこかで、鐘が鳴った。
春なのに。
冬至の鐘みたいに、深く、硬い音。
私は息を止めた。
記録院の空気が冷える。
紙の匂いが、急に刃物みたいになる。
「……今の鐘は」
修道士が青い顔で言った。
「この季節に鳴るはずがない」
レオニスの笑顔が、消えた。
初めて、彼の“正しさ”が崩れた顔を見た。
「……来ましたね」
低い声。
何が。
問い返す前に、セドリックが私の前に立った。
いつものように触れない。
でも、逃げ道を塞ぐように、立つ。
「リラ」
呼ばれた。
胸の奥が、灯る。
けれど――次の一音が、遅れた。
ほんの、ほんの一拍。
今までならあり得ないほどの、短い空白。
その空白の中で、私は理解してしまった。
契約は終わっていない。
代償は形を変えて続いている。
そしてそれは、私だけの問題じゃない。
セドリックの喉が、わずかに動く。
言葉を探すみたいに。
私は鈴を握りしめ、音を鳴らそうとする。
でも、鳴らす前に――
「……リラ」
やっと、呼ばれた。
私は笑おうとして、また失敗した。
春の光の中で、冬の鐘が鳴り続けている気がした。
そして私は思う。
“その後”の物語は、きっと――ここからが本当だ。




