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図書館の天秤<ライブラ>  作者: 鈴道例文
第1章 図書館、天秤<ライブラ>に成る
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第1章_08 決戦前夜の勇者達

テイノー将軍が陣地に戻ったとき、真っ先に目に飛び込んできたのは――“異常”だった。


そこに、あるはずのものが、ない。


「……死体が、消えてる……?」


味方兵の遺体。それは確かに、戦死者としてここにあったはずだ、にもかかわらず、一体たりとも見当たらない。


「片付けた……? いや、そんな余裕があるはずがない……」


不穏な沈黙の中、風に混じって香ばしい匂いが鼻先をかすめた。焦げた肉、出汁の香り、焚き火の煙――


直感に突き動かされるまま、テイノーは匂いの方へと歩を進めた。


そして、次の瞬間――


「……なっ……!」


目を疑った。


焚き火に鍋。湯気を立てる煮込み料理。そして、その傍らに座り込んで飯をかっ食らっている、一人の大男。


毛皮を羽織り、鎧も着けず、分厚い筋肉をさらした巨体。陽炎のように揺れる炎が、その逞しい輪郭を浮かび上がらせていた。


「よう、テイノー。……腹、減ってんだろ? 食うか?」


満面の笑みで鍋をかき混ぜる男――それは、かつての「勇者アルディス」だった。


「……あなたは!?……」


テイノーは言葉を失った。その顔には驚愕と混乱が交錯する。


あの男を知らぬ者など、王国にはいない。

ノースランド王国第一旅団将軍にして、“伝説の勇者”――アルディス。


まさか、こんな形で現れるとは誰が想像できただろうか。


テイノーが呆然と立ち尽くしていると、焚き火の奥からもう一人の影が現れた。


「アルディス様」


落ち着いた声音とともに姿を見せたのは、眼鏡をかけた冷静な雰囲気の女性だった。凛とした軍装に身を包み、髪をきっちりとまとめた知的な佇まい――その佇まいから、彼女が只者ではないことは誰の目にも明らかだった


彼女は無駄のない動作で一礼し、手にしたメモ帳を開いて淡々と報告を始めた。


「遺体の回収、完了まであと三十分。現状、主要な遺体は処理済みです。残りは雪で覆う手筈となっております」


「おう、ありがとよ。流石、気が利くな」


アルディスは肉を口に運びながら、天気予報でも聞いているような調子で返す。


遠く、雪原の向こうに、数名の兵士が遺体を抱えて歩く姿が見えた。手際よく、丁寧に、まるで職人のように静かに。


「……あれも、あなたの部下か」


テイノーの問いに、アルディスは肩を竦めた。


「ん? ああ、そうだ。うちの連中さ」


焼き香草と肉の匂いが、殺伐とした戦場の空気をわずかに和らげる中――彼は続ける。


「死者は大事に扱う。それが、俺の旅団のルールだ」


その目は、笑っていながらもどこか静かで、底知れぬ深さがあった。


「で――テイノー」


骨付き肉にかぶりつきながら、アルディスは手元のお椀を空にしていく。豪快に骨を放り、腕で口元を拭うと、焚き火越しにじっと彼を見据えた。


「お前さ、なんで負けたと思う?」


唐突な問い。周囲の兵たちがざわつくが、アルディスは気にも留めずに鍋をかき混ぜる。


「ほら言えよ。こっちは腹いっぱいで気分がいい」


しばしの沈黙の後、テイノーは一歩前へ進み出た。そして、静かに口を開く。


「……情報不足。敵の意図を読み違えた。

奇襲を奇襲としてしか見られず、背後にある狙いを深掘りできなかった。

そして……勝利を焦った。兵の足を止める判断が遅れた。

あれは、私の“焦り”がもたらした敗北だった」


焚き火が、静かにパチ、と音を立てる。


アルディスは満足そうに頷き、肉の塊を噛み砕いた。


「……がははっ。いいな。やっぱテイノーは外さねぇ。

自分の負けを、ちゃんと認められるヤツは強ぇよ。俺だったら、そこまで言えねぇな」


褒めるようでいて、そこに含まれるのは容赦ない現実。

焚き火の灯りが、アルディスの影を雪の上に大きく落とした。


静かに、そして確かに、彼はこの地に“戻ってきた”のだった。


沈黙を破ったのは、テイノー将軍のすぐそばに控えていた若い副官だった。


「将軍を責めるのは筋違いです! あの状況では、誰であっても判断は難しかったはずです!」


強く張った声が夜気に響く。テイノーはすぐに手を上げて制したが、その目には感情の火が消えきっていなかった。静かに、一歩、アルディスににじり寄る。


「副官の無礼、お許しください。すべては、私の未熟――」


その言葉を遮るように、アルディスは骨付き肉を齧りながら、呟くように言った。


「……なるほどな。お前にとっては、テイノーが最高の名将ってわけだ」


「当然です。将軍は我が王国軍の誇りであり、――」


「だがそいつが、今――“見事に”負けた」


アルディスは無造作に立ち上がり、しゃぶり尽くした骨を焚き火に放る。火花が小さく弾けた。


「で、その黒星を覆い隠そうと、副官が口を挟む。……それこそ、“将としての教育がなってねぇ”証だ」


低く放たれた言葉に、副官は肩を震わせた。テイノーは一度だけ副官に目を向けると、静かに頭を垂れた。


「お恥ずかしい限り。……これもまた、すべて私の責任です」


その声には、飾り気のない悔恨と誓いが滲んでいた。


アルディスは少しだけ口角を緩める。


「まあな。下を育てるのも、上の役目ってもんだろ。……せっかくだし、教えてやるよ。あの戦いで何が起きたのか――俺の推測も混ざるが、聞くか?」


副官は背筋を正し、深くうなずいた。


「ぜひ。……私はそのために生きて帰ったんですから」


「いい心がけだ」


アルディスは焚き火の横に腰を下ろし、骨を数本テイノーに投げ渡す。


テイノーは骨を受け取りながら、思わず苦笑しつつ、二本の骨を雪に突き刺した。


「……こちらが王国軍の初期陣地、こちらが帝国軍。兵力は四千百。我が軍から二百を守備に残し、三百を帝国陣地に配置。主力は三千六百だ」


雪をなぞって戦場図を描きながら、テイノーが淡々と説明を続ける。


「帝国が我が陣地を襲ったのは、まさに主力不在の隙だった。だが、物資にはほとんど手をつけず……狙いは“混乱”だったと思われる」


「いや、手はつけてたさ」


アルディスが不意に言葉を差し挟んだ。


「焦ってたんだろ? 物資の確認が甘かった。確かに食料や装備は無事だったが――“弾薬”だけが、不自然に減ってた。俺の部下が調べたんだ。確実にな」


彼の背後から、眼鏡をかけた女性が一歩前に出て、丁寧に頭を下げる。


「記録と照合しました。結果、弾薬は三千発分、消失しています」


「つまり――帝国軍は“俺たちの弾”を使って、王国軍を撃ったってわけだ」


アルディスはにやりと笑った。


「偽装した銃士隊が、な。……見事だったよ」


副官は表情を強張らせながら、雪の地図をじっと見つめていたが、やがて顔を上げる。


「……ですが、ひとつ腑に落ちません。敵が我が陣地を襲撃してから、あの短時間で帝国軍の本陣に戻って銃士隊のふりをするなんて――どう考えても時間が足りません。いつ、我々の三百人を倒し、装備を奪い、偽装を整えたんです?」


重い沈黙。


だが、アルディスより先に答えたのはテイノーだった。


「――我々が帝国軍陣地を離れた直後だ」


「っ……!」


「敵はすぐに、残された三百の銃士隊を急襲した。そして一気に制圧し、装備を奪い、身分を偽った。まるで最初からそこにいたようにな」


「その通りだ」


アルディスが笑う。


「テイノー、お前、やっぱ頭の回転速ぇな」


副官は口を開けたまま、二人を交互に見やった。


「……ですが、それはつまり、相手はわざわざ自軍の戦力を分散させ、しかも極めて高リスクな行動を取ったということになります。万が一、我々がその部隊を見つけていれば……敵は全滅していたのでは?」


「その通りだ」


アルディスは立ち上がり、腕を組む。


「それでも奴らは――勝てると踏んだんだよ」


「なぜです?」


アルディスは骨を指で弾き、雪を指差す。


「理由は、お前の“律儀さ”だよ、テイノー」


肩をすくめ、皮肉っぽく笑う。


「王国軍本隊を帝国軍本隊に正面からぶつける。その真面目な思考が読まれてた。まっすぐ進む。疲労があっても止まらない。そんなお前の癖をな」


そして言葉を重ねる。


「疲れた兵を率いて雪中追撃。その先に味方の姿をした伏兵。弾と矢が飛び交い、混乱し、勢いが削がれ――最後に剣兵が突撃して、終わりだ」


焚き火がパチリと音を立て、火の粉が夜空に弾けた。


副官は言葉を失い、拳を握りしめる。


テイノーは黙って雪に立てた骨の地図を見下ろし、ぽつりと呟いた。


「……敵陣に到着したとき、索敵をかけていれば。伏兵を見つけられていたかもしれん。あれが分散された敵の本隊だったのなら、正面からぶつかれば……押し切れた可能性はある」


「その通りだ」


アルディスが静かに頷いた。


「分散された部隊を各個撃破できれば、それで終わってた。勝てる戦だった。……だが、お前の“真面目さ”が、裏目に出た。敵は、それを見逃さなかった」


風が雪を舞わせる。


火の粉が小さく跳ね、空へ溶けていった――。


焚き火の炎が、雪面にちらちらと揺らめく影を落としていた。


その温もりに背を向けながら、テイノーは戦場を模した骨の“戦場図”をじっと見つめ、静かに呟いた。


「……完敗ですな」


だが、すぐ隣から返ってきたのは、意外にも愉快そうな声だった。


「いやいや――まだ負けが決まったわけじゃねぇよ」


テイノーが顔を上げる。そこには、焚き火の赤を瞳に宿しながら笑う男――アルディスがいた。


その瞳の奥には、なおも滾る炎。獣のような光と、獰猛な本能が揺れていた。


「勝ち負けなんざ、最後の一秒まで分からねぇもんだ。

途中で何度負けても、どれだけ地べたを這いずっても――

最後に立ってりゃ、そいつが“勝者”ってやつだろ?」


その言葉に、テイノーは静かに、しかし確かにうなずいた。


「この戦い、勝ちに行くぞ――俺たちでな」


焚き火に一瞥をくれ、アルディスは立ち上がる。夜風が彼のマントを翻し、炎の影がその背を長く引く。


そして焚き火の前に立ち、鋭い視線を兵たちへ向ける。


「いいか。奴らは、明日の朝から昼にかけてのどこかで――必ず“後方”に向かって部隊を動かす」


その言葉に、場の空気がざわりと揺れる。


「そこを突く。それが――俺たちの逆転手だ」


「……何か、仕掛けているのですね?アルディス殿」

テイノーが問いかける。


アルディスはにやりと笑った。


「ああ、そのとおり。奇策には奇策で返す。それが戦場の礼儀ってやつだ」


そして、彼はすっと振り返った。


「そのタイミングを見極めるのは――うちの副官だ」


無言でうなずいたのは、眼鏡をかけた女性。

その静かな所作に、誰もが無言で信頼を感じ取った。


アルディスは一歩前へ出て、兵たちへ語りかける。


「負けて、悔しくない奴なんていねぇさ。

だがな、次で挽回すりゃいい。次勝てば――全てが覆る!!」


それでも、兵士たちの表情には迷いが残る。


アルディスは、それを叩き割るように吠えた。


「何ビビってやがる。お前ら、俺様が誰か忘れたか!?」


ぐっと胸を張り、豪快に宣言する。


「“勇者アルディス”様だぞォッ!!」


途端に、場の雰囲気が変わる。かすかな笑いが、熱が、じわりと戻ってくる。


アルディスは右手を高々と掲げた。


「一時的だが今から、俺は第二旅団の将軍になる、つまり、お前らは一時的に“俺の配下”だ!

それから副官の座は――テイノーに預ける。文句ある奴ァ、今すぐ名乗り出ろ!」


テイノーが微かに眉を動かしながらも、無言でうなずく。


しばしの沈黙の後、兵士の一人が叫ぶ。


「ありません、勇者殿ッ!」


それが合図だった。


「よし! いい返事だ!!」


アルディスの瞳がぎらりと光る。


「覚えとけ! 俺たちは――まだ“勝てる”!

そして忘れんな、お前たちの背後には王国の民がいる!

守るべき人間たちが、俺たちを待ってんだよ!」


その一言が、兵たちの胸に火を灯す。


風に焚き火が揺れ、士気という名の炎が爆ぜる。


アルディスは拳を突き上げ、最後に高らかに叫んだ。


「――勝とうぜ、勇者ども!!」


数秒の間を置いて――


「「「おおおおおッ!!」」」


歓声が、炎を囲んだ輪の中で爆発する。士気が天を貫いた。


それを見ながら、テイノーは静かに呟く。


(……まったく、かなわんな)


それは悔しさではない。むしろ、清々しい敗北の実感だった。


言葉ひとつで場を支配し、人の心を燃え上がらせる男。


――これが“勇者アルディス”。


もはや伝説の英雄譚ではない。“現実”を動かす戦士の姿だった。


そして、アルディスは兵たちに最後の命令を下す。


「さあ、腹いっぱい食え! 笑え! 泣いてもいい!

明日が――決戦だ!!」


夜空に、もう一つの炎が舞い上がるように、兵士たちは応えた。


「おおおおおッ!!」


その声は、雪を払い、夜を越え、確かな希望となって空へと響いていった。


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