第1章_07 牙のない戦地
冷たい風が、“ノースランド王国第2旅団”の戦旗を静かにはためかせていた。
白銀の陣地で、テイノー将軍は戦略図の一点に指を置いたまま、長い沈黙を保っていた。
「……敵は補給が切れかけ、士気も下がっている。兵の数も充分とは言えん。今こそ、攻め時だ」
その静かな言葉に、副官の一人が小さく頷いた。
「ですが将軍、後方防衛の強化を求める進言が届いております。陣地の守りが――」
「不要だ」
テイノーは即座に言い切る。視線は一切動かさず、淡々と語った。
「守備兵は最低限で構わん。全戦力を一点に集中し、叩く。それが最も確実で――最も早い」
迷いの色は一切なかった。
テイノー・アシュベル。
戦場において「分散」を何よりも忌み嫌う男。
彼の信条は、いつだって“集中突破”。
敵に猶予を与えず、一撃で戦局を覆すことこそ最良の勝利――その理想を体現してきた歴戦の将だった。
これまで、どんな戦場でも、“兵の数”で負けたことなど、ただの一度もない。
――だが、そのテイノーに、初めて「違和感」が訪れる。
朝日が昇ると同時に、彼は大軍を率いて帝国軍の陣地に進軍を開始した。
だが、距離が縮まるにつれ、胸の奥に冷たいものが湧き上がってくる。
(……敵はなぜ、動かない?)
間もなく、帝国軍陣地の目前に到達する。
そして――テイノーは馬を止めた。
そこに広がっていたのは、凍てついた沈黙と、無人の陣。
風にさらされる補給物資。
まだ煙の残る焚き火跡。
不自然なまでに整えられた撤収の痕跡――。
「……これは」
兵たちが言葉を飲み込むなか、テイノーは一歩、地に膝をついた。
雪を払い、足元の痕跡を慎重に読み取る。
焚き火の残り香に鼻を寄せ、積まれた荷の整然とした配置を見て、確信する。
「ただの撤退じゃない。これは――“誘導”だ」
「誘導……ですか?」
背後から、副官が困惑した声を上げる。
テイノーは頷き、ゆっくりと立ち上がる。
「そうだ。我々にこの“空の陣地”を見せ、ここが捨てられたと思わせる。だが本命は別。奴らは、どこかで――何かを仕掛けている」
その瞳が氷のように細められた、まさにその時――。
「――将軍! のろしです!」
後方を警戒していた兵の一人が叫ぶ。
雪煙の向こう、確かに上がっている一本の煙柱。
だが、場所が問題だった。
それは、王国軍が留守にした――“第2旅団本陣”の方向だった。
テイノーはわずかに眉を動かし、すぐに呟く。
「なるほど。奴ら、我々の陣地が空になるのを狙って、主力を差し向けたか……」
そこに、動揺はなかった。むしろ、静かに笑みすら浮かべていた。
「愚かだな」
副官が焦りを滲ませる。
「しかし将軍、陣地が――!」
「陣地など取られても構わん。重要なのは“兵力”と“意志”だ」
そう言って、テイノーは馬の手綱を握り直し、振り返った。
「奴らは、我々の背後を突けば混乱が起きると踏んだのだろう。だが――甘い」
その言葉には、絶対の自信が宿っていた。
「我が軍の指揮は、我が手の中にある。動揺など、起きん」
そして一拍の間を置いて、副官に命を下す。
「銃士隊をこの陣地に残せ。我々が手に入れた物資と地の利を使い、戻ってきた敵を迎え撃つ。弾薬の節約など不要だ。来るなら全弾ぶち込んでやれ」
副官はすぐに理解し、無言で頷くと伝令を飛ばした。
少しして、銃士隊の布陣が完了したことを示す合図が目で返された。
テイノーは、ゆっくりと深呼吸し――
「全軍、転進!」
その号令が、雪の戦場に響き渡った。
「目指すは、我らが陣地だ! 帝国の策など、恐れるに足らず! 我らの軍勢は、決して乱れぬ!」
その声に、兵たちは一斉に動き出す。
誰もが知っていた。
この将軍の背中が、どれだけ頼もしく、揺るがぬ“核”を持っているかを。
そして――戦場の流れは、静かに、確実に、帝国軍の意図を外れながら動き始めていた。
まさに、それは“軍略”のぶつかり合いだった。
ノースランド王国第2旅団は、自軍の陣地へと静かに帰還していた。
先頭を進むテイノー将軍の馬が、雪を踏みしめながら足を止める。
その視線の先にあったのは――奇妙なまでの静寂だった。
軍幕の配置は見慣れたまま、ところどころ損傷こそあるものの、通常の戦場に比べれば被害は微々たるもの。
物資庫も無傷。兵站の品も荒らされた様子はない。
まるで、誰かが「後始末」を丁寧に済ませて去ったかのようだった。
ただ――決定的に違っていたのは。
「……守備兵が、一人も動いていないな」
テイノーは馬上から冷ややかに言い放ち、目を細めた。
そこには、整然と並ぶように倒れた兵士たちの姿。
叫びも、怒号も、苦悶の痕跡もなかった。ただ、淡々と命だけが刈り取られていた。
副官が険しい顔で報告を続ける。
「敵襲の痕跡は、ほとんど確認できません。
物資にも被害はなく、兵站も無事。死体の位置や傷も……あまりに整いすぎている」
テイノーは無言で馬を降り、膝を雪に沈めるようにかがみ込む。
足元には、かすかに残された血痕――それすらも最小限。
敵兵の遺体は、一体たりとも残されていなかった。
「……完璧すぎる」
呟きは風に消えたが、そこには将軍としての確信があった。
「無駄がなさすぎる。殺すべき者だけを的確に排除し、物資には手をつけず、迅速に撤退。
痕跡すら最小限に抑えている。これは奇襲ではない、“示威”だ――」
副官が戸惑いの色を浮かべたまま、問いかける。
「……示威、ですか? しかし将軍、敵はこの好機に陣地を奪うでもなく、戦線を押し上げる気配もありません。これでは戦果とは……」
その言葉に、テイノーの目が鋭く光った。
「戦果ではない。“混乱”を狙っているのだ」
その声に、背筋を凍らせたのは副官だけではなかった。
「守備兵だけを的確に屠り、痕跡を残さず消える。
それだけで、我が軍本隊は動かざるを得なかった。陣地を明け渡し、再度確保する――それは即ち、戦線の再調整。
……たったそれだけで、敵は目的を果たしている」
テイノーは立ち上がり、氷のような眼差しで陣地を見渡す。
そして――ぽつりと呟く。
「……不可解だ。なぜ、“いない”?」
副官が首を傾げる。
「は、いない……?」
「もしも第3帝国軍が動いていたなら、この周辺のどこかに姿を現していて然るべきだ。だが、どこにもいない。
気配も、痕跡も、まるで最初から――存在しなかったかのように、だ」
風が吹く。
戦旗がはためき、誰もが言葉を失う中、テイノーの声だけが静かに続く。
「我々は今、“空白”の意味を問われている。
これは、ただ陣地を取り返して終わるような単純な戦じゃない」
そして――
「……やつらの“狙い”がまだ見えん。だからこそ――気に食わん」
その言葉には、ただの疑念ではなく、戦場を知る者の本能が滲んでいた。
沈黙を破ったのは、後方を警戒していた兵のひとりだった。
「――将軍! あれを……敵の本隊と思しき影が、うっすらと……!」
その言葉に、テイノーの顔がぱっと上がる。
「見えたか? どの方角だ」
「南東の丘の向こうです。敵陣地の方面へ向かっているように見えました。距離はありますが……あれは確実に“大部隊”です!」
空気が一瞬にして張り詰めた。
テイノーは双眸を細め、静かに、だが確信をもって頷く。
「……帝国め、逃げ遅れたか」
次の瞬間には、馬上から全軍に命じていた。
「全軍、追撃に移る! 進路は南東――敵の本隊を捉えるぞ!」
その号令に応え、兵たちは迅速に再編成を開始する。
もはや迷いはない。狙うべきはただ一つ、逃げる敵の背。
「今度は“速度”を優先する。奴らに反撃の隙を与えるな! 追いつけさえすれば、勝利は我らのものだ!」
そこへ副官が一歩進み、不安を滲ませながら言う。
「ですが、将軍……守備隊を失い、さらに銃士隊も敵陣に残したままです。現在の我が手勢は約三千六百。数では優位ですが、追撃戦で兵が疲弊すれば、敵本隊に太刀打ちできるかどうか……」
だが、テイノーの声は静かにして確信に満ちていた。
「問題ない。帝国軍本隊が我らの残した“銃士隊”の射程に入った時――奴らは銃撃の雨に見舞われる」
彼は指先で地図をなぞりながら、落ち着いた口調で続ける。
「つまり、奴らは“待ち伏せ”を喰らうことになる。そうなれば進軍速度は必ず落ちる。その間に、我々が背後から一気に叩く。戦の基本だ」
副官は黙って頷いた後、ひとつ問いかける。
「……もし敵が、転進を変え始めたら?」
テイノーの視線は揺るがない。
「大部隊が転進するには時間がかかる。その間に必ず“隙”が生まれる。それを突く」
地図をなぞる指が止まり、テイノーははっきりと言い切った。
「奴らが転進すれば、銃士隊が背後から銃撃を浴びせる。我々は正面から斬り込む。これが、“挟撃”だ」
副官の瞳が見開かれる。
「……逃げ場が……ない……!」
テイノーはゆっくりと頷いた。
「そうだ。奴らに残された選択肢などない。逃げれば追いつかれ、立ち向かえば銃弾が飛ぶ――いずれにせよ、我らの勝利は揺るがん」
そして彼は馬を駆ると、空に響くような声で叫んだ。
「帝国軍は、すでに“背を晒した”。だがあの者たちはまだ知らぬ――撤退も転進も、すぐに行えるものではないとな!」
風を裂く戦旗が、朝焼けの空に高く舞い上がる。
「勇者たちよ! 風を切れ! 進撃せよ!!」
その声は、雪をも振り払うほどの力に満ちていた。
「我らは鋼の意志をもって、奴らを撃つ! その進む先にあるのは、逃げ場なき“罠”だ!!」
ノースランド王国第2旅団が再び雪煙を巻き上げ、駆け出す。
そして、テイノーの眼差しは――遠く敵の背を、獲物を狙う獣のごとく鋭く射抜いていた。
「……さあ、“策略”ごと踏み潰してみせよう――その背中をな!」
丘を越えた瞬間、テイノーの視界に飛び込んできたのは――帝国軍の背後だった。
敵の最後尾が長く列を成し、白銀の雪を蹴立てながら行軍している。その背後に、不穏な違和感が胸をかすめたが……そんなものはどうでもよかった。
なぜなら――そこには、彼が心から望んでいた“光景”が広がっていたのだから。
乾いた音が空気を裂く。
敵軍を照準に定める鋭い火線。あの場所に残しておいたはずの銃士隊――我が王国の誇る射撃部隊が、正確無比な弾丸をもって敵に銃撃を浴びせていたのだ。
「……見える。確かに――奴らの背後をとらえた!」
馬上のテイノーは目を見開き、冷ややかに、だが熱を帯びた声で言い放った。
「しかも、我が銃士隊は完璧なタイミングで射撃を開始している。敵の行軍速度は、確実に落ちている……!」
その光景は、まさに勝利の輪郭――戦局の天秤がこちらに傾き始めた瞬間だった。
「――よし、今だ! 全軍、突撃用意! 奴らの背に喰らいつけッ!!」
振り下ろされたテイノーの腕。それは戦の幕を開ける号令となった。
「王国のために!! 王国のために!!」
兵たちの雄叫びが雪原に響き、ノースランド王国第2旅団が一斉に地を蹴って駆け出す。風を裂き、雪を砕き、怒声が空を震わせる。
だが――その刹那。
ありえぬ静寂が、戦場を包んだ。
「……?」
テイノーが目を細める。さっきまで敵軍に弾丸の雨を浴びせていた銃士隊が、突如として射撃を止めていたのだ。
その沈黙は、戦場に似つかわしくないほど異様だった。
「な……ぜ、撃たない?」
呟いた直後だった。
敵の帝国兵たちが、一斉に動いた。まるで計ったように、否――まるで“導かれるように”、彼らは一気に速度を上げ、王国軍の銃士隊が構えていたはずの“あの陣地”へと駆けていく。
「まさか……!」
テイノーの瞳が大きく見開かれ、顔色がさっと蒼ざめる。
「全軍――止まれ!! 今すぐ止まれぇッ!!」
叫ぶように命令するが、その声は、突撃の興奮に包まれた兵たちの咆哮にかき消された。
彼らはもう止まれない。勢いは止められず、ただ前へ、前へと進むしかなかった。
そして――
その時だった。
“敵軍に銃撃を浴びせていたはずの我が銃士隊”が、突如として銃口を反転させた。
その照準の先にいたのは――突撃する、味方の王国兵たちだった。
「――ッ!!」
一瞬の沈黙の後、耳を劈くような銃声が雪原に響き渡る。
白い地面に、鮮やかな紅が咲いた。
王国兵たちの断末魔と、怒号と、混乱と――
「……偽装、だと……!?」
テイノーの喉奥から、掠れた声が漏れた。
「奴らは、我が銃士隊を――装っていたのか……!」
目の前で繰り広げられるのは、力ではない、知略による一撃だった。
見慣れた王国軍の装束の下に潜んでいたのは、帝国の意志と策――。
策略が力を凌駕し、信頼が裏切りへと変わった瞬間だった。
吹き荒れる風の中で、雪に膝をつきながら、テイノーは拳を固く握りしめる。
その拳は、震えていた。
怒りか。悔しさか。それとも――自らの慢心を悔いる震えか。
その雪は、もうただの雪ではなかった。
静かに、冷たく、そして非情に――王国の誇りを覆い隠していった。
銃声が轟き、白銀の戦場を引き裂く。
王国軍の銃士隊の制服をまとった何者かが、王国兵へと容赦ない銃撃を放った、その直後。
帝国兵たちはすぐさま銃と弓を構え、王国軍の銃士隊と共に防衛線に並び立つ。
迫りくる王国軍に向け、容赦ない一斉射撃が解き放たれた。
銃火と矢が、雪原を真紅に染めながら降り注ぐ。
「うわッ……味方じゃ……ない!?」
「なんだ、これは……俺たち、裏切られたのか!?」
味方を装った敵――その一撃により、突撃陣形を崩された王国軍前線は混乱の渦に飲み込まれていた。
何が起きたのか把握できぬまま、兵たちは前にも後ろにも進めず、ただ射撃の嵐にさらされ続ける。
だが――帝国軍は、その“混乱”を見逃さない。
「止めるな! 弾が尽きても撃ち続けろ! 弓も絶やすな! 今こそ押し切れ!」
高台から鋭く響く声が、戦場を支配した。
アマリア・スピカ――帝国の第三皇女であり、現地の指揮官が、風を裂くような声で叫ぶ。
その指示に、帝国の兵たちは見事なまでに連動する。
銃兵は構えを崩さず、弾が尽きても敵を威圧し続ける。
弓兵は次の矢を番え、息もつかせぬように撃ち続けた。
戦術的に意味のある“威圧”と“演出”。
その視覚的圧力が、王国兵の心を次々と砕いていく。
「な、なんで……!? 王国軍の銃士じゃなかったのか……!?」
「まさか、全部……偽物……!?」
疑念と恐怖、そして死の気配。
それは、剣より鋭く、槍より深く、兵士たちの心を斬り裂いた。
そして――ライブラは高台からその様を見下ろし、確信する。
(もうすぐ、この戦場の均衡は崩れる。
一つの誤算が、連鎖し、全軍を揺るがす。
そして、勝利は……こちらへ傾く。)
帝国の姫――アマリアは冷静そのものだった。
彼女は知っていた。
勝機とは、待つものではなく、自ら引き寄せるものだと。
連射の中、ライブラはアマリアに手信号を送った。
手を上げ、掌を何度も開閉する――無言の“切り替え”の合図。
その一瞬の視線だけで、アマリアはすべてを察する。
――ここが“変わり目”だ。
彼女は静かに銃を地面に置き、背負っていた弓もそっと外す。
乾いた音が、戦場の空気を変える。
それは、遠距離戦の終わり、そして――接近戦への切り替えの合図だった。
次の瞬間、白銀の刃が引き抜かれる。
アマリアの剣が朝日にきらめき、彼女の戦意が空気を震わせた。
「――お前たちの“力”を、今ここで見せてみろッ!! 突撃ッ!!」
その一声で、帝国軍が一斉に動いた。
銃と弓を捨てた兵士たちが、剣を手に雪原へと走り出す。
怒号と共に鉄の波が押し寄せ、混乱する王国軍を飲み込む。
その最前線に立つのは――アマリア。
恐れも、迷いもない。ただ、戦う意志だけが彼女を突き動かしていた。
ライブラはその背中を見つめながら、そっと呟く。
(ここまで来れば、俺の仕事は終わった。
盤面をここまで持ってこれたなら――勝利は自然と流れ込んでくる。)
ふと、彼は手のひらに雪をのせた。
「芸術の国・レジュールの戦記物語作家が書いた、あの戦術――
“陣地交換の際、敵の補給物資を奪って疲弊させ、反撃で仕留める”」
雪が体温で溶けていくのを眺めながら、彼は呟く。
「俺はただ……物語の中の知識で、テイノー将軍の戦略を打ち破った。
ギデオン校長の言ってた通り、記録は“戦争の道具”なのかもしれないな……」
最後の雪片が溶け、水となって手のひらを伝う。
「……それが答えなら、ちょっと……寂しいな」
誰にも届かぬその呟きは、風に乗って、ただ消えていった。
――そのころ、戦場の最前線。
王国軍の将、テイノー・アシュベルは馬上から乱戦を見下ろしていた。
前線の兵は崩れ落ち、秩序は乱れ、突撃部隊のほとんどが機能を失っていた。
そして――剣を振るう金髪の姫がいた。
導く者ではなく、戦場そのものを切り裂く“矛”。
「……速い」
アマリアの振るう剣は、兵士たちの命を瞬く間に奪っていく。
彼女の後ろには、規律と士気に満ちた兵たちが続いていた。
「これは……損耗が過ぎる」
呟きは冷静だった。
駆け寄る副官が声を張る。
「将軍、左翼はまだ――!」
「崩れる。……全軍、退け。陣を組み直す」
「し、しかし、ここで退けば!」
「生かせる命を残せ。……それが、次の勝機に繋がる」
それは“敗北”ではなかった。
“判断”だった。
やがて、撤退の号令が雪原を駆ける。
「全軍、後退! 傷兵を引き上げろ!」
指揮を終えたテイノーは、最後までその場を離れず、撤退する兵を見送った。
その目には、敗北ではなく――未来が見えていた。
「……してやられたな、アマリア殿下」
握り締めた拳に雪が染みる。
だがその眼差しには、まだ燃え尽きぬ、意志の炎が宿っていた。
戦場を包んでいたのは、勝利の余韻と、静かに舞い降りる雪――そして、無数の命の終わりだった。
血に染まった白銀の大地に、無言の兵たちが散り、崩れた武器を拾い集めていく。
アマリア・スピカはその光景を見つめながら、きゅっと唇を引き結んだ。
その瞳に映るものは、単なる勝利ではなかった。
「勝って、なお……これほどに、傷つくのね。これが“戦争”……」
彼女がそう呟いた、その瞬間だった。
倒れていた敵兵のひとりが、血の中からゆらりと立ち上がり、
鬼気迫る形相で血まみれの剣を振りかざし、アマリアへ向かって走り出した。
「姫様――っ!」
兵たちの叫びも届かない。
だが、アマリアは躊躇わなかった。
鞘から抜いた剣が、鋭く銀閃を描き――
男の腕を斬り裂く一閃が、金属音と共にその武器を弾き飛ばす。
敵兵は呻き声を上げながらも、よろめきつつその場から離れた。
アマリアは、ただ一言だけ告げた。
「……逃げなさい」
その声は、どこか祈りのようだった。
男は顔を歪めたまま背を向け、雪の中を逃げるように駆け出す。
だが、その命もまた――
「っ……!」
矢の音が、空を裂いた。
放たれた一本の矢が、男の背を撃ち抜き、彼の体は雪へ沈む。
赤が、またひとつ広がっていく。
アマリアの顔に、影が落ちた。
まるで、赦しの片鱗がその瞬間に砕かれたように。
「……仕方ないわね」
ライブラがアマリアに向かって一歩ずつ歩みを進めた。
「……あの男が選んだ道だ。あんたを守るのが、兵たちの務めでもある」
アマリアは静かに目を閉じたあと、もう一度、ゆっくりと前を向いた。
「ありがとう、ライブラ」
ライブラは短くうなずくと、少し声を張って言った。
「姫様――勝鬨を。兵たちは、あなたの言葉を待っています」
アマリアは剣をしっかりと持ち直し、雪を踏みしめながら兵たちの前に進み出た。
「――みんな、本当にありがとう。命を賭けて戦い、仲間を守り抜いてくれて。……これこそが、我ら第3帝国軍の“勝利”よ!」
その瞬間――
帝国軍の兵士たちは、剣を一斉に掲げ、空へと声を放った。
「「「勝利ッ! 勝利ッ! 勝利ッ!!」」」
その雄叫びは、空の雪を貫き、遠くまで響いた。
敵を退けた誇り、そして胸に刻まれた代償への誓いを込めた叫びだった。
アマリアは、ゆっくりと空を見上げた。
その瞳には、もはや「姫」という肩書きだけではない、
戦いを背負い、仲間を導く“将”としての強さが、確かに宿っていた。
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白銀の戦場からやや離れた高台。
その頂に突き出すように聳える岩場の上で、ひときわ異彩を放つ男がひとり、遠眼鏡を構えていた。
鎧すらまとうことなく、分厚い筋肉の上に獣の毛皮を無造作にかけた巨体。
顔には、十字に走る凶々しい傷――まるで戦場そのものが刻んだかのような印だった。
その鋭い眼光は、まさに獣。遠く離れた戦場の一点を、獲物でも狙うように射抜いている。
「ほぉう……やるじゃねぇか、あのガキ。」
遠眼鏡を下ろした男は腕を組み、次の瞬間――豪快に、吠えるように笑った。
「がははっ! あの堅物テイノーの顔、見たか? 完ッ全に一本取られてやがる!」
その隣には、黒髪をきっちりとまとめ、眼鏡越しに冷静な視線を戦場に送る女性が立っていた。
彼の横顔にわずかな苛立ちをにじませ、冷ややかに言い放つ。
「……笑ってる場合ですか? あのテイノー将軍が敗れれば、帝国の進軍を止める手段はありません。」
「わかってるさ。」
男は不機嫌そうに首をゴキリと鳴らし、視線の先――戦場の中央を指差す。
「だがよ……あそこで得意気に突っ立ってるお姫様と、その横で策士ぶってるひょろい男――。
あいつらが、このまま調子こいてるのを見ると、どうにも……虫酸が走るんだよ。」
その指の先に映るのは、勝鬨に沸くアマリア姫と、冷静に部隊を再配置している軍師・ライブラの姿だった。
「ここで……殺っちまうか?」
その言葉は、冗談のように軽く、それでいて空気を一変させるほどに重い。
隣の女性は、無言でため息を吐き、指先で眼鏡の位置をスッと整えた。
その仕草には、洗練された理性と、冷徹な忠誠がにじんでいる。
「……あなたのご命令であれば、従います。ですが――」
彼女の視線は、一瞬だけ戦場へと向けられる。
熱気に包まれ、光を放つかのように凛として立つアマリアと、その背後に控えるライブラ。
「敵ながら、あの姫と軍師。指揮官としての器は――申し分ありません。
無策で突っ込めば、ただの犬死にでしょう。」
そして再び、彼女は男へと向き直る。
その瞳には、理性とともに、わずかな好奇心が揺れていた。
「……けれど。“あなたが本気を出すのなら”、勝てます。」
その言葉に、大男はにやりと口の端を吊り上げる。
その笑みは、吹きすさぶ戦場の嵐より冷酷で、獣の咆哮の前触れのように危うい。
そして、彼女が静かに告げる。
「だって、あなたは――この世界の主人公。
“勇者”アルディス、なのですから。」