第1章_06 普通じゃない道筋
テントの内は、不気味なほど静かだった。
前任の軍師が使っていた空間。
布の継ぎ目や床板の下――そこかしこに、もういない誰かの気配が、まだ染みついているようだった。
ライブラはしゃがみ込み、床を指でなぞりながら小さく呟く。
「……やっぱり、ないか」
ここは、毒殺された前任軍師が最後に作戦を練っていた場所。
彼の遺した“何か”を探していたが、どうやら徒労に終わったらしい。
そのとき、テントの入り口がふわりと開いた。
「お邪魔します。お茶をお持ちしました、ライブラ様」
入ってきたのは、白髪を撫でつけた老執事――フォン。
皇女付きの老僕であり、穏やかな口調と裏腹に、眼差しには鋭さを宿している男だ。
「……何をなさっておられるのですかな?」
トレイに載せたティーセットを手に、彼は興味深そうにライブラを見つめた。
「毒を探してた」
ライブラは手のひらを払って立ち上がると、さらりと答えた。
「毒……?」
「前任者、ここで殺されたんだろ。なら、現場に痕跡が残ってるかもしれない。
……まあ、もう処理されたか、時間が経ちすぎてて無理だったけどな」
フォンは小さく目を見開いたあと、静かにテーブルへ紅茶を置いた。
「それより、次の戦の作戦は進んでおられますか? 姫様は、あなたに多くを期待しておられます」
その言葉に、ライブラはふっと肩をすくめた。
「……無理だね。勝てない。どう考えても、勝ち目がねぇ」
「なっ……何をおっしゃいますか。あなたは“軍師”として任命されたのですよ?」
フォンの声がわずかに鋭くなるが、ライブラは視線を落としたまま、苦い声で言う。
「さっき、姫様から最新の戦況資料を見せてもらった。
補給路は細い、兵の数も足りてない、士気も下降中。
それに……敵の指揮官は戦力分散を一切しない。堅実で読みづらいタイプだ」
しばしの沈黙のあと、彼はテントの天井を見上げた。
「おそらく、明日の朝には攻めてくる。……最悪の場合、全滅だ」
フォンは言葉を飲み込み、ライブラをじっと見つめた。
「……本当に、あなたに“軍師”が務まるのでしょうか?」
その問いは柔らかく、だが内に鋼の芯を通していた。
ライブラはそれを受けるように、胸ポケットから焦げた紙片を取り出す。
それは、かつて誰かが残した言葉。
『考え、選ぶ者だけが――未来をつくる』
「さあな。でも、選んだからには……やるしかないだろ」
その声には、かすかに灯った覚悟が滲んでいた。
外では、また雪が静かに舞い始めていた。
「……とりあえず、読めそうなものあるか?」
ぽつりと呟くライブラ。
「読めそうなもの、ですか?」
問い返すフォンに、ライブラは軽く頷いた。
「地形図、補給路、敵軍のルート、戦例集。紙でも写本でも、なんでもいい。現場の記録でも助かる」
「……軍師らしい要求ですね」
どこか安堵したように笑いながら、フォンは告げた。
「前任の不在を受けて、私が資料を簡易にまとめて保管しております。すべて、私のテントに」
「助かる。案内してくれ」
そうして辿り着いたのは、丁寧に補修された軍用テント。
中へ足を踏み入れたライブラは、思わず目を見張った。
――本、紙、記録簿の山。整然とした混沌。
革表紙の古書、走り書きの注釈、整理されたはずの混沌が、そこにあった。
「……汚いところで恐縮ですが――」
言い終わる前に、ライブラはもう幕をくぐって中へ。
資料を押しのけ、地図や記録を手に取り、次々と目を走らせる。
「……この輸送経路、距離のわりに時間がかかりすぎだ。雪か? いや、部隊の再編……?」
鋭い視線が紙面を切り裂き、地形と数字の向こう側へと視界が拓かれていく。
「……ライブラ様? お茶を……」
フォンが気を利かせて紅茶を差し出すも、ライブラの集中は破られなかった。
彼は地図に指を滑らせ、まるでそこに戦場が見えているかのようだった。
フォンは肩をすくめ、静かに紅茶をテーブルの端に置くと、そっとその場を離れる。
夜の帳が下りる頃――
アマリアが、陣地の一角に現れた。傍らにはフォン。
「……ねぇ爺や。本当にこの中?」
「ええ、間違いなく。あれからずっとこもったままでして……」
「図書室の亡霊みたい」
アマリアは溜息混じりにテントの幕を軽く叩く。
「ライブラ? 中にいるんでしょ?」
中から返ってきたのは、妙に間の抜けた返事だった。
「ああ。入るな。……ちょうどいいとこなんだ」
「何読んでんの?」
「趣味の本!」
アマリアは即座に幕をばっと開けた。
「寒っ」
「趣味の本読んでる場合!? この戦況で!?」
中では、ライブラが枕代わりの毛布を敷いて横たわり、胸の上に分厚い本を載せていた。
「脳みそってのは、ずっと動かしてると壊れるんだよ。適度なサボりは戦略のうちだ」
そのまま本をめくっていたが――黒色で塗りつぶされたようなページがあった。
「ん? このページ、真っ黒だ……なんだこれ?」
「――っ!?」
横から覗いていたフォンが顔色を変えて駆け寄り本を取り上げる。
「そ、それは!私の 私物です! 勝手に読まれては困ります……!」
「へぇ、怪しいなあ」
「怪しくありません!」
騒ぎを見て、アマリアは小さく笑った。
「で、肝心の作戦の話。勝てそうなの?」
ライブラは体を起こし、真顔で答えた。
「……普通の方法じゃ無理だ」
「なっ……!」
フォンが言葉を荒げそうになるが、アマリアが手を上げて制止する。
そして、踏み込んで訊いた。
「じゃあ、“普通じゃない方法”なら、あるってこと?」
――この瞬間から、戦場の天秤は少しだけ傾きはじめていた。
アマリアとフォンの視線を背に、ライブラはゆっくりと上体を起こした。
「……作戦を話す前に、まずは今の状況を整理しよう」
その一言に、アマリアがわずかに目を細める。
「ええ、お願い」
フォンは無言でうなずき、手にしていた紙束を手際よくテーブルに並べていく。ライブラもまた地図を広げ、赤と青の駒を指で滑らせるように配置した。
「まず、俺たち――第3帝国軍の現状からだ。現在の総兵力はおよそ二千三百。装備の整備率は七割。……そして、補給状況は最悪。特に弾薬が足りていない。このままじゃ防衛線の維持もままならない」
アマリアの表情に陰が差す。
「……補給隊には急ぎで手配してるけど、物資も人手も、まるで足りてないのよ。二週間ほど前に、レオ兄さんにお願いしたの。でも、送られてきたのは――罪人部隊だったわ」
レオ兄さん。帝国第一皇子、レオ・レグルス。現在、病床に伏した皇帝に代わり、軍事面の代理を務めているはずだ。
その名前を口にしたとたん、アマリアの肩が怒りに震える。
「ほんと、あの馬鹿……! 罪人部隊を夜襲に使って、その隙に私たち第3帝国軍が逆側から攻めろって!? 死ぬことが前提じゃない、それは“処刑”よ!」
ライブラは、その作戦を思い出し、複雑な気持ちで呟いた。
「まあ……戦術としては、悪くない。罪人部隊が囮になることで勝てる可能性はあった。……俺自身がその囮だったわけだけどな」
「なに、その顔?」
アマリアが、じっとライブラの表情を見つめている。
「……だからって、そんな作戦、私は嫌よ。勝てたとしても、“命を捨てる前提”なんて、私は認めない」
犠牲の上に勝利を築こうとするレオ・レグルス。
その犠牲を極力減らして勝ち筋を探そうとするアマリア・スピカ。
――このふたりの思想が相容れないのは、明白だった。
「ともかく……」ライブラは、現実へと話を引き戻すように言葉を続けた。「敵は最初から、戦力を分散させる気はなかった」
そう言いながら、ライブラはローガスト北部の峠道――地図上の一点を指し示す。
「結果的に、罪人部隊は敵陣のすぐ近くまで接近してしまった。本来なら、もっと手前で主力に潰されるはずだった。だが、奴らが配置していたのは、夜間の監視兵や予備部隊……つまり、本気じゃなかったんだ」
ライブラは赤駒をもう一つ動かし、続けた。
「第3帝国軍がそれに乗じて攻勢をかけたが、敵の本隊が主力が陣地に残っていたため、すぐに押し返されて頓挫した」
「……つまり、敵の戦力は今、固まっている」
アマリアは深くうなずく。
「敵の兵力は現在、およそ四千。単純に言えば、こちらの倍近い数。正面からぶつかって勝てる相手じゃない」
「その通りだ。だから、敵の動きを読む必要がある」
ライブラはもう一つ駒を置き、その駒に静かに語りかけるように言った。
「今の戦術傾向と、全兵力を集中させるやり口からして――敵の指揮官は、まず間違いなく“テイノー将軍”だ」
アマリアがふと、何かを思い出したように顔を上げる。
「……ああ、それなら納得ね。撤退のとき、敵兵の一人が“ていの……ばんざい!”って叫んでいた気がする。たぶん、“テイノー将軍万歳”ってことだったのね」
「軍学校時代、テイノー将軍の戦役を何度か分析したことがある。あの男は徹底した“戦力集中主義”。防衛も攻撃も、一点突破、一点防御。戦力分散は愚の骨頂ってスタンスだ」
アマリアは地図を睨み、低く呟いた。
「つまり……その集中した敵戦力とまともにぶつかれば、確実に負けるというわけね」
「だが逆に言えば、動きは読みやすい。まともにやっても勝ち目はない。……だから、“普通じゃない方法”を使う」
ライブラの言葉に、アマリアの目が鋭くなる。
「……その“普通じゃない方法”、そろそろ教えてもらってもいいかしら?」
ライブラは苦笑交じりに、頭をかきながら応えた。
「こっちの弾薬不足をどうにか補いながら、あいつの“戦力集中”を無理やり崩す。それができれば、こちらにも勝機が見えてくる」
その一言に、フォンが声を上げた。
「……無理ですよ。さっきご自身で、“テイノー将軍は戦力を分けない”って言ったばかりじゃありませんか!」
アマリアも首をかしげる。
「それに、明日の昼にはテイノー将軍がこの陣地に総力で攻め込んでくるっていうんでしょ? 弾薬も足りないし、補給の見通しも立ってない。レオ兄さんが“火薬は全部南部戦線に優先する”って言ってたし……どう考えても、間に合わないわよ」
レオの言葉を思い出し、怒りにまた火がついたのか
アマリアは手をぶるぶる震わせながら言葉を重ねた。
しかし――ライブラは何も答えず、地図上で味方と敵陣地とは少し離れた、ぽつんとした地点に青の駒をそれぞれひとつ置いた。
そして、呟く。
「だから言ったろ。“普通じゃない”って」