第1章_05 記憶の書架
ページの中央には、一人の青年の挿絵が描かれていた。
赤く燃える髪、澄んだ蒼い瞳。細身ながらしなやかな筋肉を宿した身体には、長旅の痕を感じさせる古びたマントが揺れている。彼は誰も踏み入れたことのない彼方を、真っすぐに見据えていた。
「……この人、かっこいいな」
ぽつりと漏れた呟きに、隣で母が柔らかく微笑んだ。
「“勇者アルディス”よ。ノースランド王国のために戦って、たくさんの人を救った英雄――あなた、毎晩のようにこの本を読んでってせがんでたわね」
父も思い出したように笑って、言葉を継いだ。
「でもな、アルディスの物語ってのは、ただ強いってだけじゃないんだ。
彼は――“考えて”、“選んで”、自分の意志で道を切り開いてきたんだよ」
「……自分の意志で?」
挿絵に描かれた勇者を見つめながら、幼い俺は小さく呟いた。
ページの下には、印象的な一文が刻まれていた。
『人は剣だけでは進めない。考え、選ぶ者だけが未来をつくる』
その言葉は、まるで胸に刻み込まれるようだった。
アルディスの物語は、ただの冒険譚なんかじゃない。
仲間を信じ、時には戦いを避け、耳に届いた声に迷いながらも、それでも自分の足で進んでいった一人の人間の物語だった。
あの物語は、俺にとって最初の「教科書」だった。
学ぶとは何か、知るとはどういうことか――それを、剣ではなく「心」で教えてくれた。
父は、こんなことも言っていた。
「本や記録は、たくさんの知識を与えてくれる。でもな、中には矛盾する意見や、正解のない考え方もあるかもしれない」
そのとき俺は、子どもらしい率直さで訊ねた。
「じゃあ、そんな時はどうしたらいいの?」
父は笑って、肩を叩いた。
「その時は、“知識”じゃなくて、“心”で選ぶんだ。誰かの正解じゃなく、自分の信じた道を進めばいい」
――その言葉は、いつまでも胸に残っていた。
ページの中のアルディスが微笑むように見えたそのとき――まぶたがわずかに震え、ゆっくりと現実が戻ってきた。
冷たい空気が肺を満たす。
全身に巻かれた包帯がきしみ、体の痛みを確かに伝えてくる。
夢だった。
けれど、あの言葉の余韻は、まだ胸の奥で燃えていた。
『その時は、知識ではなく、自分の心で――』
テントの中、静かな声が響いた。
「……目が覚めましたかな」
声の主は、老執事だった。
陰影の深い顔に、安堵の色が浮かんでいる。
俺はゆっくりと首を動かし、彼を見つめた。
「お嬢様をお呼びしてきます。少しだけ、お待ちくださいませ」
その言葉に、俺は微かに頷いた。
体が動くことを確認していると、すぐに扉の布がそっと揺れた。
リアが、穏やかな笑みをたたえてテントの中に入ってくる。
「おはよう。また、会えたわね、名無しさん?」
彼女の声に、俺は一瞬だけ目を見開いた。だがすぐに、微笑みで返す。
「……ああ、ありがとう。もう会えないかと思ってたよ」
リアは俺の顔をじっと見つめたまま、問いかける。
「……ちゃんと覚えてる? 何があったか」
俺は思い出すように視線を彷徨わせ、過ぎ去った戦場と――身体に残る感覚を手繰り寄せた。
「なんとか生き延びようとしてた。けど……腹に短剣を刺されて……」
思わず手を当てる。確かに傷はあるが、思っていたほど深くはなかった。
そして、思い出した。
「……ああ、そうか。何かあった時のためにって、リアがお守り代わりにくれた“あの本”を……腹に隠してたんだった」
俺は照れ臭そうに笑った。
「助かったよ。やっぱり本ってさ――命を救ってくれるんだな」
リアは肩をすくめて、小さく皮肉っぽく笑った。
「……本が命を救うなんて、普通はありえない話よ。でも――あんた、ほんと運がいいわね。まさか、そんな使い方を思いつく人がいるなんて思わなかったわ」
「本の主人公ってのは、だいたい胸ポケットに何か入れてて、それで命拾いするもんだろ」
俺がそう言うと、リアはクスリと笑う。
「その“だいたい”を真に受けて助かるなんて、羨ましい話ね。……小説の世界じゃ、何だってアリってことかしら」
言葉とは裏腹に、彼女の声はどこか安堵を含んでいた。
「その様子だと、怪我もなさそうね。よかったわ」
その言葉に、ふと記憶が揺れる。俺が倒れた時、リアともう一人の兵が必死に駆け寄ってきたあの瞬間――
「……なあ、なんで俺を助けた?そっちにとって、利点なんてなかっただろ」
俺の問いに、リアはすぐには答えなかった。沈黙。わずかに目を伏せて、小さく息を吐く。
「利点、ね……」
ぽつりと呟いた後、彼女は話を逸らすように立ち上がり、テントの奥――にある皇帝の肖像へと目を向けた。
やがて、肩越しに振り返って俺を見据える。
「……あなたのこと、調べさせてもらったの。少しでも手がかりが欲しかったから」
ゆっくりと戻ってきて、今度は正面に座る。
「平民出身。十七歳。帝国軍学校の士官候補生。
両親は行方不明であり両親が従事していた記録士としての仕事を引き継ぐ
武器の扱いは平均以下。……でも、戦術と歴史戦記の分析においては、教官すら感嘆したって記録が残ってたわ」
リア――いや、彼女はさらに続けた。
「あなたが記録した戦役や戦術のレポートは、今も帝国の参考資料として保管されている。あの、ギデオン校長もあなたを評価していたと聞いた」
「……俺はただの学生だよ。実戦経験もないし」
思わずつぶやいた俺に、リアは首を振る。
「私は、そうは思わない」
そう言って微笑を浮かべると、彼女は真っ直ぐな声で名乗った。
「――アマリア・スピカ。帝国第3皇女。私の名よ」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中で全てが繋がった。
“リア”という名は仮のもの。本名は――アマリア・スピカ。
――帝国第3皇女。
――第3帝国軍を動かせる、唯一の存在。
この女が――そうだったのか。
名乗りを終えたアマリアは、再び一歩近づき、低く静かに言った。
「今の第3帝国軍には、軍師がいないの」
「帝国に十二ある軍団の内の一つだぞ、その軍団に軍師がいないなんてありえないだろ!?」
俺が思わず声を荒げると、横から老執事らしき人物が制止する。
「言葉を慎みなさい」
けれどアマリアは、その老人に目で合図し、口を開いた。
「……一ヶ月前、毒殺されたの。」
「毒殺――?この陣地で?」
彼女は静かに頷く。
「すぐに捜索はしたわ。荷物も兵も全て調べた。でも、毒物は見つからなかったし、不審者もいなかった……調査は宙ぶらりんのまま中止。いまだに犯人はわからないの」
その声には、怒りよりも、痛みがあった。
「軍の指揮は混乱してる。だからこそ、この軍隊には“頭脳”が必要なのよ」
再び、彼女は俺の前へ一歩踏み出す。
「あなたの思考力が、判断が、私には必要。血じゃなく、刃じゃなく、“知識”でこの戦を変えられる――そんなあなただから」
そして、深く、静かに頭を下げた。
「……これは命令じゃない。お願いよ。あなた自身の意志で、決めてほしいの。戦うかどうかを」
その時、テントの外で風がうなった。
雪が舞い、帝国の未来が、彼女の背で揺れているように見えた。
俺は、しばらく言葉を失っていた。
テントの中は、嘘みたいに静かだった。
鼓動だけが、やけに大きく響く。
まるで胸の奥で、何かが暴れているように。
過去の失敗、学友たちの冷たい目、戦場で散っていった命――
ひとつひとつ、記憶の本棚から引きずり出されては、強引に開かれていく。
それを全部、喉の奥で噛み砕いて、ようやく俺は口を開いた。
「……悪い。けど、その願いには応えられない」
アマリア――いや、リアと呼ぶべきなのかもしれない。
彼女の目が、ほんのわずかに揺れた。
「俺は……兵士でも、軍師でもない。
ただの学費が払えなくて、紙をまとめてた“落ちこぼれの記録士”だよ」
自嘲の笑いが漏れた。肩をすくめながら、続ける。
「知識を使うのは嫌いじゃない。
でも――俺の判断ひとつで、誰かが死ぬ戦場に身を置くなんて……そんなの、耐えられない」
想像するだけで、胸が冷たくなる。
俺の“知識”が、誰かの血を呼ぶ。そんな現実に、身体が微かに震えた。
リアは何も言わず、ただ黙って俺を見ていた。
その沈黙が、何よりも重かった。
「……俺は、お前の“利点”にはなれない」
そう言い切ったとき、リアの視線が、ほんの少しだけ逸れた。
その目に、怒りも苛立ちもなかった。ただ、静かな影が揺れていた。
「……悪かったわね。こんなこと、お願いして」
その声は、思っていたよりも優しかった。
皮肉も、虚勢も、なかった。ただ、ありのままの本心。
言葉に詰まった俺は、それ以上何も言えず、代わりにぽつりと呟いた。
「……世話になった」
それだけを残して、寝台から立ち上がった。
まだ身体は重かったが、歩けないほどじゃない。
リアは背を向けたまま、窓の外をじっと見ていた。
あの背中に、どれほどの想いが詰まっているのか……俺にはわからない。
テントの出口に手をかけると、老執事が無言で道を開けてくれた。
「お気をつけて」
「……ああ」
背中越しに答えて、そのまま一歩、雪の中へ踏み出した。
リアの視線も、あの空気も、何もかもを背負ったまま。
向かう先は決めていた。
最前線のすぐ手前――補給路の終点、“ローガスト”。
帝国と敵軍が火花を散らす、最も危うい街。
「……戦場には行かない。ただ、生きるための準備をするだけだ」
そう、強引に自分に言い聞かせながら。
俺は雪を踏みしめ、ただ一人、白の大地を歩き出した。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
数時間、雪道を歩き続けた末に――ようやくたどり着いた。
ローガストの街は、噂よりも遥かにひどい有様だった。
戦火の爪痕はあまりにも生々しく、崩れ落ちた家々、黒く煤けた石畳、砕けた窓ガラス。
通りを歩く住人たちは皆、魂の抜けたような顔をしていた。笑い声どころか、言葉すら交わされていない。まるで、世界そのものが息をひそめているようだった。
全身に鈍い痛みが残っていたが、それでも足を止めなかった。
やがて、通りの片隅で半壊した商店を見つける。
扉の片方は外れ、風に揺れていたが、かろうじて棚には商品が並んでいた。
中に入り、保存の利く硬パンと干し肉をいくつか手に取る。
そのとき、背後――開け放たれた扉から、声が飛び込んできた。
「すみません、ここに子ども……来ませんでしたか!?」
声の主は、若い女性だった。戦災で汚れてはいたが、どこかきちんとした身なりで、焦りが滲んでいる。
「赤いマフラーを巻いた男の子なんです。六つくらいで……朝から帰ってこなくて!」
店主は、首を横に振った。
「……いや、見とらん。もう二日ほど、ガキの姿なんざ、さっぱり見ねえな」
「……そうですか……」
女性は力なく呟き、何度も頭を下げて出ていった。
残された扉が、微かな音を立てて揺れる。
――関わるな。
そう思った。いや、思おうとした。
だけど。
(六つの頃、俺は――)
思考が、勝手に引き出しの奥から古い記憶を掘り返す。
あの頃どうしても行きたかった場所。けれど、一度も足を踏み入れられなかった場所。
「……この街に、図書館はあるか?」
ぽつりと口をついた問いに、店主は怪訝そうな顔をしながらも、無言でカウンターの奥から一枚の紙を取り出す。
焼け焦げた端。赤鉛筆で書かれた印。そして、片隅に小さく記された“本”の文字。
「……ここか」
金がなくて入れなかった。身分証もなかった。
窓越しに中を覗いて、指をくわえていたあの頃の自分が、胸に蘇る。
商品を受け取り、地図を見つめたまましばらく動けなかった。
だが――心の中では、すでに何かが決まっていた。
(あの子が、もし俺みたいに本を読みたくて、でも入れなかったとしたら……)
良心がささやく。その声は、想像よりも強く、はっきりとしていた。
気づけば、もう足が動いていた。
地図を頭に思い浮かべながら、俺は雪を踏みしめる。
しばらくして、目的の建物が視界に入った。
だがそこにあったのは、燃え尽きた――廃墟だった。
天井は崩れ、柱は斜めに倒れ、かろうじて建物の名残を残しているだけ。
床に吹き込んだ雪が積もり、炭の匂いが漂う中、机や書棚の残骸が黒く転がっていた。
もう、誰もいない。そう思った――そのとき。
ふと、焼けた柱の陰に、小さな影があった。
――赤いマフラー。
ススにまみれた瓦礫の間、小さな子どもが一人、座り込んでいた。
その小さな手には、一冊の本。
崩れかけた柱の隙間で、夢中になってページをめくっていた。
紙はところどころ焦げていて、それでもその目は、まるで宝石のように輝いていた。
(……バカだな。俺と、同じだ)
無言で近づくと、子どもがこちらに気づき、顔を上げた。
その瞳には、怯えが混じっている。
俺は小さくため息をつき、ポケットから保存食の硬パンを取り出した。
そっと差し出し、問いかける。
「本……好きなのか?」
子どもは、言葉を発さず、こくんとうなずいた。
その瞬間――
胸のどこかで、何かがふっと、静かに灯った。
「……その本、俺も好きだよ」
子どもの小さな手元を見下ろしながら、俺はふっと笑った。
「『勇者アルディスの冒険』だろ? 俺も昔、何度も読んだんだ」
その言葉に、子どもはぱちりと目を見開いた。驚いたような表情から、すぐにふわっと笑顔が咲く。それはまるで、自分だけの大切な秘密を、誰かに初めて共有できたときの、あたたかな喜びに満ちた笑顔だった。
「ほんとに? お兄ちゃんもアルディス、好きなの?」
「ああ。アイツはただの剣士じゃなかった。ちゃんと考えて、自分の意思で戦い、自分で未来を選んでた」
俺がそう答えると、子どもは何度もうなずいた。そして、少しだけ間を置いて、ぽつりとたずねてきた。
「ねえ……このお話って、このあと、どうなるの?」
俺は眉をひそめ、肩をすくめた。
「……本を持ってるなら、自分で読めばいいだろ」
冗談めかして笑うと、子どもはうつむいて、小さな声でつぶやいた。
「……読めないよ」
「え?」
思わず聞き返して、そこで俺の目に映ったのは――
本の後ろ半分が、焼け落ちていた。
表紙こそ無事だったが、中身のほとんどは黒く炭化し、もろく崩れていた。
(……気づかなかった。立っている位置からは見えなかったんだ)
子どもは焦げた本をそっと胸に抱きしめながら、小さくつぶやいた。
「……ああ~……続き、読みたかったな……」
その言葉は、崩れた廃墟に染み込むように響き、俺の胸を深く貫いた。
動けなかった。息を呑むことすら忘れていた。
心の奥が、静かに、でも確かに、締めつけられていた。
(知識を失うこと。物語を失うこと。それが“戦争の代償”だってことは、頭では理解してた。でも――こうして目の前で、それを抱えている子どもを見るのは……初めてだ)
目の前の子どもは、泣いていたわけでもない。飢えていたわけでもない。
ただ、静かに――“続きを知りたかった”と願っていた。
それだけで、俺は心のどこかを強く揺さぶられていた。
――知識は、希望だ。
――だが、それを奪うのもまた、戦争という現実。
俺は静かに、膝をついた。
「……そうか」
その声は、自分でも驚くほど、かすかに震えていた。
「ユウ!」
遠くから、女性の叫ぶ声が届いた。
顔を上げると、瓦礫の入口に赤いマフラーを巻いた母親が立っていた。焦りと安堵の入り混じった顔で、駆け寄ってくる。
「……この人に、何かされたの?」
鋭く俺を睨みつける。目が警戒に染まっていた。
俺は何も言わず、一歩引いた。
すると、ユウが小さく声を上げた。
「このお兄ちゃん、なにもしてないよ。ぼくが勝手に来たんだ。本を読んでただけなんだ」
その言葉に、母親は少しだけ視線を伏せ、そして短く頭を下げた。
「……この子を見ててくれてありがとう。でも……もう、関わらないでください」
その一言には、自分自身に言い聞かせているような痛みがにじんでいた。
そして、母親はユウの腕をつかんで立ち上がらせる。
「何度言ったらわかるの。勝手に出歩いちゃダメって!」
「でも……」
「“でも”じゃないの。本を読んでる暇なんて、もうないのよ。明日には、この街を出るんだから」
「……やだ。この街、出たくない……」
ユウがうつむいたまま、かすかにこぼす。その声に、母親の眉がぴくりと動いた。
「……お願いだから、お母さんを困らせないで」
その一言に、ユウは黙りこみ、唇を噛んだ。
そして、母親はユウの手から本を取り上げた。
焼け焦げて、今にも崩れそうな『勇者アルディスの冒険』。
「……こんなもの」
彼女は本を振り返ることもなく、傍らの瓦礫の上に放り投げた。
焦げたページが宙を舞い、一節が地面にひらひらと落ちた。
俺は、何も言えなかった。
ただ、無力なまま、それを見つめていた。
「……ありがとうございました」
そう言って母親は、子どもの手を引いて廃墟を後にした。
ユウは一度も振り返らず、ただ小さく、引きずられるように歩いていく。
やがて、彼らの姿は瓦礫の向こうへと消えていった。
廃墟の中には、焦げた本の残骸と、ただ静寂だけが残された。
俺はしばらく立ち尽くしていた。
そして、地面に落ちたそのページを、そっと拾い上げる。
そこには、まだかろうじて読める一文が残っていた。
『――考え、選ぶ者だけが、未来をつくる』
俺はその言葉を、胸の奥で繰り返す。
(……選ぶ、か)
心の底に、波紋のように広がる何かがあった。
温度のない風が、焦げたページをそっと揺らしていた。
俺は、その光景を見て――納得しようとした。
仕方のないことだ、と。
だって、これは戦争だ。
みんな、生き延びるのに精一杯で、誰かのことなんて気にかけていられる余裕はない。
子どもが安心して本を読む時間なんて――あるはずがない。そんなの、当たり前だ。
……頭では、理解できていた。
けど、心は――まったく納得してくれなかった。
納得できるわけがなかった。
あの子が、あんなにも大切そうに抱えていた本を、
無造作に、誰かの足に踏まれ、放り捨てられて――
「読む時間なんてない」という現実が、当然のようにそこにあった。
俺は、ただ黙ってしゃがみ込む。
瓦礫の中に落ちていた、本の焼け焦げた残骸を拾い上げた。
ページはほとんど焼け落ち、背表紙は炭のように崩れていた。
それでも、それは……本だった。
その子にとって、たった一つの、大切な物語だったんだ。
俺はそっとポケットから記録帳と鉛筆を取り出し――静かに書き始めた。
記憶の中にある限りの『勇者アルディスの冒険』の続きを。
王都を包囲する敵との最終決戦。
選び取った道の果てに訪れる別れと、再会。
なぜ勇者は剣をとり、なぜ歩き続けたのか――
それを、子どもにもわかる言葉で。簡潔に、けれど心を込めて。
最後の句読点を打ったとき、俺はもう立ち上がっていた。
迷いはなかった。
記録帳を胸に抱え、俺は道を駆け出す。
さっきの親子が歩いて行った方向へ――。
通りに出たとき、二人はまだ見える距離にいた。
俺は、大声で叫んだ。久しぶりに、声が張り上げられるほど、息が満ちていた。
「――ちょっと、待ってくれ!」
母親が警戒心を滲ませながら振り返る。
その隣で、少年――ユウも驚いたように立ち止まった。
俺は肩で息をしながら、懐から焦げた本とメモ帳を取り出す。
「これ……さっきの本の続き。燃えて読めなくなったとこ、思い出せるだけ書いたんだ」
ユウは、目を丸くしたままそれを両手で受け取った。
「……ほんとに……読めるの?」
「ああ。全部は無理だったけど、できる限りのことはした。
だから――また会えたら、感想、聞かせてくれよ」
自然と、笑みがこぼれた。
それを見たユウは、震える声で、ぽつりと呟いた。
「続きは……ずっと読めないと思ってた……でも、お兄ちゃんのおかげで……読めるよ。ありがとう!」
ぽろぽろと涙がこぼれる。
ユウは、メモ帳をぎゅっと胸に抱きしめた。
その姿を見た母親も、どこかで張りつめていたものが崩れたように、目を伏せ、小さく頭を下げる。
「……ありがとうございます……戦争になってから初めて見ました。この子の……涙も、笑顔も」
俺は何も言わなかった。ただ、静かにうなずいた。
ユウの手には――焼け焦げた本と、つながった物語の“続き”がある。
戦争に奪われたものを、ほんのわずかだけど、取り戻せた気がした。
親子と別れたあと、俺はその場にしばらく立ち尽くしていた。
手の中には、まだ焦げたページの欠片が残っている。
風が吹き、それはふわりと舞い、白い雪の上へと落ちた。
それを見届けたとき――
もう、迷う理由はなかった。
気づけば、俺の足は勝手に動き出していた。
向かう先は、たったひとつ。
第3帝国軍の陣地。
あの人がいる場所へ。
第3皇女――アマリア・スピカのもとへ。
*** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
陣地の奥、静まり返った王女の控え室――
そこで、老執事、通称“爺や”がアマリアの手をそっと止めた。
「お嬢様。……ひとつ、報告がございます。
外に、一人の青年が。名を……“名無し”と名乗る者が、お目通りを願っております」
「……なに?」
アマリアの瞳がわずかに見開かれ、息が止まる。
「名無しって……まさか……」
彼女はゆっくりと椅子から立ち上がり、爺やの顔をまっすぐに見た。
「本当に……彼なの?」
「はい。おそらく――間違いないかと」
アマリアは小さくため息を漏らす。
その表情は、怒っているようでいて、どこか安堵も混ざっていた。
「……はあ。まったく、あの人は……」
しばし天井を見つめるように黙り込んだあと、ふっと笑みを浮かべる。
「いいわ。ここに連れてきてちょうだい」
爺やは静かに一礼し、外へと歩を進める。
アマリアは灯された天井のランプに視線を向けた。
外では、雪がまだ静かに降り続いている。
けれど、その空気には、どこか違うものが混じっていた。
――そして、テントの入り口が勢いよく開かれる。
「――っ、はぁ、はぁっ……!」
冷たい空気と共に、一人の青年が駆け込んできた。
息を切らし、頬を紅潮させたその姿を、アマリアは目を細めて見つめる。
彼女は机に手を添えたまま、立ち上がらず、静かに声をかけた。
「それで? 何の用かしら、“名無し”さん?」
青年――彼は肩で息をしながらも、まっすぐ彼女の瞳を見つめて言い放った。
「――軍師になりに来た」
その瞬間、室内の空気がぴたりと静止する。
アマリアは表情を崩さぬまま、身をわずかに乗り出して問い返した。
「そう……あれほどはっきり断ったのに、急な心変わりね。どうして? 理由を聞かせて?」
その声は柔らかいが、奥には鋭さが光っていた。
彼は一瞬だけ視線を落とし、言葉を選ぶように、静かに答えた。
「……子供に、本の続きを読ませたくなったんだ」
アマリアの肩が小さく揺れた。
そして――
「ふふっ……ふふっ、はははっ!」
彼女は堪えきれずに吹き出した。
「ほんとに、あなたって……変わってるわね。でも、いい理由だと思うわ」
そう言って、彼女は立ち上がり、彼の目の前まで歩を進める。
そして、ふっと真剣な表情に変わる。
「でもね。あなたを雇うにあたって、ひとつだけ覚悟してもらうことがあるの」
彼は黙って頷いた。
アマリアはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「あなたは“罪人”として前線に送られてきた。それはつまり、帝国はあなたが“死ぬ”ことを期待しているってこと」
その声は静かで、けれど決して揺らがなかった。
「生き残ったら、また罰せられるかもしれない。……けど、一度“死んだ”人間には、帝国の法は手出しできないの」
「つまり俺は……死んだほうが都合がいいってわけか」
「ええ、そういうこと。そして――新しい名前が必要になる」
アマリアはテーブルから書類を取り上げ、パラパラとめくりながら口元を綻ばせる。
「学校時代、図書室にこもってたって話が残ってたわ。“ライブラリ”ってからかわれてたんでしょ?」
「からかいというか……まあ、事実だからな」
「ふふ、私は気に入ったわ、その呼び名」
くるりと踵を返し、彼女は窓の外へ視線を投げた。
「書を集め、知を秤にかける者――“ライブラ”」
振り返った彼女の眼差しは、まっすぐだった。
「あなたの新しい名は、“ライブラ〈天秤〉”。
本日付で、帝国第三王女直属の軍師として、任命するわ」
背後に控えていた爺やが、思わず声を上げる。
「お嬢様……その名は……!」
「ええ、知ってる。でも、もう決めたのよ」
アマリアは静かに首を振り、彼に向けて言い切った。
「いいわね? これは、あなたが“生き直す”ための名前よ」
彼は数秒の沈黙ののち、ゆっくりと頷いた。
「……わかった。今日から俺は――“ライブラ”だ」